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三橋俊明『路上の全共闘1968』を読む(3) [われらの時代]

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[日大両国講堂での9・30大衆団交。眞武善行『日大全共闘1968』から]
 日大全共闘は9月4日に機動隊がバリケード内にはいることを察知していた。電気科の学生が無線機で警察無線を傍聴していたからだ。
 ついに、その日がきたかという心境だったという。しかし、負ける気はしなかった。徹底抗戦すれば勝てると思っていた。
 自宅からバリケード封鎖された法学部3号館に向かうとき、著者はなぜか日大本部を占拠したときの田村正敏のアジ演説を思いだしたという。

〈日大全共闘の同志諸君。我々は、本日、日本大学本部へと突入し、日大闘争勝利に向けての闘いを一歩前進しようとしている。同志諸君、今年の初めに、ベトナム解放戦線の同志が、命をかけてテト攻勢へと突入したときのことを想い出してほしい。彼ら解放戦線の同志は、テト攻勢を前にして、全員が真新しい真っ白な下着を身につけて、果敢に、死を恐れることなく、テト攻勢へと突入していった。日大全共闘の同志諸君。我々もベトナム解放戦線の同志のごとく、本部へと、断固とした決意をもって突入しようではないか。〉

 だれもテト攻勢をこの目で見たわけではなかった。まして解放戦線の兵士がこの日のために真っ白な下着をつけていたかどうかは知る由もない。それでも、田村のアジ演説は、日大全共闘とベトナム解放戦線のつながりを想起させ、参加者全員を鼓舞したのである。
 そんな高揚した気分のなか、法学部3号館での徹底抗戦がはじまる。
 著者は正面玄関の庇に近い一角に陣取った。ここならば外の動きがよく見渡せる。投げるのにほどよい大きさの石も準備していた。
 機動隊が路上に姿をあらわしたのは9月4日の午前4時ごろだった。警備車が玄関前に横付けされ、ジュラルミンの楯に身を隠した機動隊が慎重にバリケード撤去作業にとりかかる。全共闘はいっせいに放水や投石をはじめた。明け方になれば、全共闘の援軍がやってくるだろうと思っていた。
 そのとき地鳴りのような怒号が、遠く背後から響いてきたという。ふとみると、庇の上で投石をくり返していた著者のまわりを完全武装の警察機動隊が取り囲んでいた。もはや背後には誰もいない。機動隊は正面バリケードを突破するとみせかけて、建物の裏手から地下の食堂を通って、攻め上がってきたのだ。容赦なくたたきのめされ、著者は逮捕される。
 経済学部でもバリケードが破られていた。抵抗する全共闘の投げた石が、ひとりの巡査部長にあたり、25日後に死亡するというできごともおきていた。
 この日、バリケードにこもっていた法学部と経済学部の学生132人が逮捕された。
 だが、この強攻策は裏目にでる。大学当局の一方的な仮処分に反発する怒りの声が巻きあがったのだ。
古田理事会は学園を国家権力に売り渡したという認識が広がり、全学で抗議集会が開かれ、駿河台から白山通りまでがデモで埋めつくされることになる。
 この日の午後、機動隊によって解除されたばかりの法学部3号館と経済学部1号館は、ふたたび全共闘によって占拠された。
 逮捕された著者は3泊4日で不起訴処分となり、釈放された。そして、著者もすぐ戦線に復帰した。
 9月12日に、御茶の水の理工学部9号館前で全学総決起集会が開かれることになった。テレビはアジ演説する秋田明大議長の姿を大きく映しだしていた。
 この集会に参加した著者によると、当日、会場に集まった学生はゆうに1万人を超え、あたりは騒然とした雰囲気に包まれていたという。しばらくたつとデモがはじまり、ヘルメット姿でスクラムを組んだ学生たちが駿河台の坂をくだっていった。あまりの人数の多さに、なかなか出発の順番が回ってこなかったほどだったという。
 だが、駿河台交差点を右折し、靖国通りにはいったところで、突然ジュラルミンの楯と青黒い服装で防備を固めた機動隊が、とつぜんデモ隊に突っ込んでくる。学生たちはヤッケのポケットから石をとりだし、機動隊に向けて投げはじめた。
 神保町周辺は騒乱状態となる。路上にはヘルメットとゲバ棒と石が散乱した。
 一瞬の静寂。そのあとだ。

〈投石した学生の近くにいた学生と、その一歩あとから路上に足を踏み出した学生も、路上に散乱する石を拾うと、機動隊めがけて投石した。その隣にいた学生と、歩道から勢いよく飛び出してきた背広姿のサラリーマンも、素早く足下の石を拾うと、力を込めて投石した。歩道にいた学生やサラリーマンや野次馬が、一斉に路上へとなだれ込んだ。それら全ての群衆が、それぞれの手に石を持ち、機動隊に向かって投石を始めた。〉

 群衆を巻き込んだ一斉投石によって、機動隊は敗走する。
 そして、その夜、法学部3号館と経済学部1号館に永久バリケードが築かれるのである。
 全共闘と当局のやりとりはつづいていた。そして、9月30日の午前になって、とつぜん著者のところにも、今日、両国の日大講堂(旧国技館)で大衆団交が開催されるという知らせがはいってきた。
 ただし、大学は大衆団交に応じるとは言っていなかった。大学主催の全学集会を開き、学生側の9項目の要求にたいする回答について説明し、学生の質問に答えるという立場だった。
 全共闘は全学集会を実質的な大衆団交に変えたいと考えていた。
 まず著者も加わる行動隊が日大講堂に向かった。周辺を警備していた体育会などの学生と小競り合いになったが、大きな衝突はなかった。講堂の扉を開けたあと、行動隊は一気に中になだれ込み、まず壇上を占拠した。
 そのうち遠方の路上に日大全共闘の旗がひらめくのがみえ、1万人を超える全共闘の本隊が到着する。それから日大の学生が次から次にやってきて、講堂は1階から3階まで人であふれかえった。建物が崩れるおそれがあったので、2階、3階の学生はできるだけ下に移動してもらった。
けっきょく、日大講堂には3万5000人以上の日大生が結集した。
 午後3時過ぎ、古田会頭をはじめとする理事や学部長が姿をあらわし、壇上に並んだ。全共闘側は、きょうの集まりが大学側が用意した全学集会ではなく大衆団交であることを確認したうえで、これまでの大学当局の対応を自己批判するよう迫った。
 古田会頭は「みずからの教育者、学者としての姿勢に間違いがあったことを、徹底的に自己批判します」と、みずから「自己批判書」を読み上げ、署名、捺印した。
 学園民主化についての全共闘の要求はほとんどが認められた。古田会頭をはじめ、全理事が即刻総退陣することを表明した。
 12時間におよぶ大衆団交で、全共闘は全面的に勝利した。講堂では紙吹雪が舞い、日大生が立ちあがって肩を組み、インターナショナルを歌った。
 だが、その日のうちに状況は一転する。佐藤首相の大衆団交批判発言によって、大衆団交での誓約がそれとなく反故にされてしまうのだ。約束された10月3日の次回の大衆団交も開かれなかった。
 10月4日には、秋田明大議長以下8人にたいし、警視庁から逮捕状が出された。
 著者はこう書いている。

〈国家が、あまりにも乱暴に、姿を現した。日大全共闘の行く手を遮ろうと、突然首相の佐藤栄作がやって来た。古田会頭をはじめとする理事者たちは、全共闘との誓約を、簡単に翻した。〉

 このときから、大学闘争は社会問題ではなく政治問題になる。国家が正面に乗り出してきたのである。

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