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ドン・オーバードーファー『テト攻勢』を読む(1) [われらの時代]

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 テトはベトナムの旧正月のことである。
 1968年、ベトナム戦争はつづいていた。その年のテト、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線軍(いわゆるベトコン)からなる解放軍は、南ベトナムの主要都市や米軍基地、大使館に全面攻撃をしかけた。
 ぼくがそのニュースを知ったのは、どこかの食堂で、テレビを見たときだったかもしれない。あるいは新聞や雑誌で読んだのかもしれない。しかし、当時はこのできごとに、ほとんど興味をいだかなかった。ベトナムはやはり遠かったのである。
 東京で大学生活を送っていたぼくはそのころ、何ごとにも自信をなくし、毎日ぼんやりと下宿ですごしていた。まもなく始まる期末試験を受ける意欲もなくしていた。政治や経済、国際問題にも、まったく関心を失っていた。いつもおなかをこわし、からだはだるかった。そんななかで、唯一の取り柄は本好きだったことくらいである。
 そんなことはどうでもいいのだが、いまあのころをふり返って気づくのは、1968年のベトナムでのテト攻勢が、いかに世界史を大きく変えるできごとだったかということである。テト攻勢がなければ、アメリカはベトナムからの撤退を考えなかったかもしれず、1972年2月のニクソン訪中もなく、1976年の南北ベトナムの再統一もなかったかもしれないのだ。
 戦術的にみれば、テト攻勢は北ベトナムにとってほとんど失敗に終わった。しかし、長期的にみれば、それはアメリカに大きな政治的衝撃を与えたのである。
 テト攻勢とは何だったのか。それを知るために、ドン・オーバードーファーの『テト攻勢』を読んでみることにした。
 著者のオーバードーファー(1931-2015)は、主に外交問題ジャーナリストとして活躍し、ベトナム戦争の取材をつづけるうちに1969年から「ワシントン・ポスト」に勤めはじめた。1972年から3年間、ワシントン・ポストの特派員として東京にも駐在している。
 ぼくとも縁が深いのは、その後、ぼくがかれの代表作『二つのコリア』や『マイク・マンスフィールド』の日本語版の編集を担当することになるからである。そして、本書『テト攻勢』の訳者、鈴木主税氏(1934-2009)にも、さまざまな本の翻訳で晩年までお世話になった。
 本の内容とは別に、著者や訳者にまつわるエピソードを際限もなく、次から次に思いだしそうになるのは、年寄りの悪い癖である。思い出の数々が広がっていくのを抑えて、いまは先に進むことにしよう。
 テト攻勢の話である。
 1968年1月30日、テト(旧正月)を迎えたサイゴンでは、あちこちで騒がしい爆竹の音が鳴り響いていた。
 だが、そのとき、アメリカ大使館から500メートルほど離れた自動車修理工場に、20人足らずのベトコン兵士が身をひそめていたのだ。
 かれらが狙っていたのはサイゴンのアメリカ大使館だけではない。実に6万7000人からなる解放軍の兵士が、サイゴンをはじめ、南ベトナムの100カ所あまりの都市や町で、一斉蜂起しようとしていたのである。
 アメリカ大使館の襲撃は、戦闘上、さほど意味をもつわけではなかった。しかし、ベトナムで唯一星条旗が掲げられている場所を占拠することが、アメリカ人に大きな衝撃を与えることを、解放軍側はじゅうぶんに計算していた。
 31日、午前3時前、解放軍の兵士20人は小型トラックとタクシーに分乗して、大使館に向かった。最初に通用門の外に立っていた二人のMPに小銃が発射された。そのあと車を降りると、かれらはロケット砲で高さ2メートルほどの大使館の外壁をぶちぬき、敷地内に侵入した。そこに駆けつけた別の二人のMPも射殺された。
 大使館を守るはずの南ベトナムの警察は、ほとんどなすすべもなく事態の推移を見守るばかりだった。
 大使館の敷地内を守っていたのは、アメリカ海兵隊の保安部隊である。この日は二人の海兵隊員が、6階建て事務棟内のロビーで夜間警戒にあたっていた。屋上にも一人の兵士が配備されていた。
 封鎖されたこの事務棟に解放軍側は何発もロケット弾を打ちこんだ。建物内に侵入するのも時間の問題だった。
 大使館から500メートルほど離れたところに、海兵保安部隊の宿舎があった。襲撃を知ると、宿舎に残っていた者は反撃チームを編成して大使館に駆けつけた。
 いっぽう大使館から数百メートル離れた公邸にいたバンカー大使は、警備員に起こされ、あらかじめ定められていた秘密の隠れ場所に避難した。
 この夜、米ベトナム派遣軍の司令官、ウェストモーランド将軍は、南ベトナム全土で解放軍側が攻勢をかけていることを知った。かれはまず市内のアメリカ軍戦闘部隊に、大使館構内の共産軍を排除するよう緊急命令を発した。
 しかし、解放軍側も混乱におちいっていた。二人のリーダーが早い段階でMPによって射殺されていたためである。そのため、かれらは大使館の建物には突入せず、次第に激しさを増す銃火に対応するため、大きな鉢の背後に陣を敷いていた。
 解放軍側が制圧され、大使館での戦闘が終結したのは、午前9時過ぎのことである。
 すでに午前7時すぎ(アメリカ時間前日午後6時すぎ)AP通信のピーター・アーネットは、サイゴン発の特報として、ベトコンがサイゴンを攻撃し、アメリカ大使館の一部を占拠したと打電していた。それを受けて、NBCテレビは6時半のニュースで、そのことを伝えた。アメリカ人にはショッキングなできごととなった。
 1967年7月にテト攻勢の命令を下したのは、北ベトナム政府だった、と著者は明言する。にもかかわらず、テト攻勢から1年たっても、北ベトナムの国防相ボー・グエン・ザップは西側のジャーナリストに、あれは南の解放戦線の作戦だとしらをきったという。
 ベトナムの共産主義運動では、勝利をかちとるには総反攻と一斉蜂起意外にないという考え方が根強かった。
 北ベトナム側はそのチャンスをねらっていた。
 1967年7月末、カンボジアとの国境地帯に置かれた秘密本部に、南ベトナム全土から解放戦線の指導者が集められ、Nデイに向けての綿密な計画が練られた。全土にわたり大がかりな戦闘が発生すれば、都市の人民も蜂起するはずだと信じられていた。
 サイゴン攻撃計画は10月にほぼまとまっていた。大量の新しい兵器が、自転車や牛車、サンパンなどでサイゴン市内と周辺地域に運ばれ、解放軍の兵士たちに配られた。
 北のハノイでは、クリスマス直前に開かれた抗仏戦争開始23周年の祝賀会に、77歳のホー・チ・ミンが久しぶりに姿をあらわし、演説した。その演説で、かれは、南北あわせて3100万のベトナム人が、レジスタンスの戦士になって、勝利に向かって邁進しなければならない、と呼びかけていた。
 1963年以来、ベトナムではクリスマスと新年、テト(旧正月)は休戦となるのが恒例となっていた。しかし、解放軍はその隙をねらって、慎重に作戦を練っていたのだ。
「攻撃の前夜、テトの爆竹が市街で炸裂している頃、解放軍の兵士たちは、都市の外れの森の静けさの中に集結していた」と、著者は記している。
 こうしてテト攻勢がはじまる。そして、1月末から3月末にかけての戦闘で、アメリカ軍3895人、韓国などの派遣軍214人、南ベトナム軍4954人、解放軍(北ベトナム軍と南ベトナム民族解放戦線軍)5万8373人の兵士が戦死し、1万4300人の民間人が死亡することになるのだ。

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U3

読みました。
出版業界に身を置かれていたのですね。
by U3 (2020-07-08 05:52) 

だいだらぼっち

ご丁寧にお読みいただき、ありがとうございました。
by だいだらぼっち (2020-07-19 05:57) 

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