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ドン・オーバードーファー『テト攻勢』を読む(2) [われらの時代]

 1967年夏から秋にかけ、ベトナム戦争へのアメリカの世論は懐疑的になりつつあった。政府としては、それを反転させるには、軍が具体的な成果を示し、戦争が勝利に向かっていることを立証しなければならなかった。
 そのためベトナムでの米軍の兵力は5万5000追加され、52万5000に増強される。すでに朝鮮戦争での動員兵力を上回っていた。増員にともない、ジョンソン政権は増税を決定する。
 泥沼状態となりつつあるベトナム戦争に、アメリカのメディアも次第に疑いの目を向けるようになる。
保守的な雑誌「ライフ」ですら、自由世界の戦略的利益を保持しようとするこの戦争が、はたして若いアメリカ人に生死をかけることを求めるだけの価値があるのかという論説をかかげるほどだった。
 1967年末までに、アメリカは163万トンの爆弾を南北ベトナムに投下していた。これはすでに太平洋戦争で投下された量の3倍にのぼる。にもかかわらず、効果は上がったふうにみえなかった。
 マクナマラ国防長官は、一時北爆を停止して、北ベトナムとすみやかに建設的な話し合いにはいることを提案した。アメリカが徐々にベトナムから手を引くことを考えはじめていたのだ。しかし、この構想は受けいれられない。翌1968年2月、かれは国防長官を辞任することになる。
ジョンソン政権の首脳部は、むしろ確実な勝利に向けて戦争をさらに進展させようとしていた。
 1968年1月末のテト攻勢がはじまったのは、その矢先である。
解放軍側は南ベトナムに24万の兵力を擁していた。テト攻勢には、その4分の1にあたる6万7000が投入された。
 目標とされたのは首都サイゴンの要所、それに100あまりの都市と町である。解放軍の攻撃を合図に、民衆はかならず蜂起するはずだと信じられていた。
 南ベトナム政府側は、49万2000の米軍、34万2000の政府軍を中心に110万の兵力によって支えられている。近代的な兵器に加え、2600機の航空機、3000台のヘリコプター、3500台の装甲車も保有している。
 こうした圧倒的な軍事力の差が、油断を招いたのかもしれない。米軍司令部は、まさかベトコン側が旧正月の休暇中に全国的な一斉攻撃をしかけてくるなどとは思ってもいなかった。
 旧暦元旦の1月30日零時すぎ、最初に砲撃が開始されたのは、南ベトナム中部の港町ニャチャン(いまは大リゾート地)である。しかし、800人の解放軍兵士で町を占拠するのはそもそも無理だった。14時間後には、ほぼ排除されている。
 その日の夜明け前、沿岸部のダナン、ホイアン、クイニャン、それに山中のコントムやプレイクでも、解放軍側の攻撃がはじまった。
 解放軍の攻撃を受けて、米軍と南ベトナム政府軍はテトの休戦宣言を撤回し、各地で激しい戦闘が交わされる。
 30日早朝、サイゴンのタンソンニュット空軍基地にある情報センターにも、南ベトナム北部(第1軍管区)と中部(第2軍管区)の戦闘の様子が、次々伝わってきた。
 南ベトナムのグエン・バン・チュー大統領は休戦取り消し命令に署名したが、サイゴンには戻れなかった。メコン・デルタのミトーにある別荘でテトを祝っていたためである。
 緊急警戒命令が出されたものの、なぜかサイゴンは安全だと信じられていた。しかし、このとき解放軍部隊はサイゴン市内に潜入していたのだ。
 1月31日午前3時、サイゴン郊外にあるビエンホア空軍基地にロケット砲が浴びせられる。
 それを皮切りに解放軍の主力部隊はサイゴン市内での戦闘を開始した。あらかじめ市内に潜入した兵士たちは、隠れ家で武器を受け取り、指示にしたがって行動した。
 大統領宮殿を襲ったのはほとんどが20歳以下の兵士14人で、なかには女性もひとり含まれていた。現場に到着したトラックにはTNT爆弾が積まれていた。だが、かれらは通用門で撃退されてしまう。仕方なく、通りを隔てた建物に立てこもって15時間ほど交戦したが、けっきょくは全員殺害された。
 アメリカ大使館の攻撃は、前回紹介したので、くり返さない。サイゴンでは、ほかにも放送局やタンソンニュット空軍基地、南ベトナム軍統合参謀本部、米軍兵舎などが襲撃されている。だが、いずれも短時間で排除される結果に終わっている。
 放送局は一時占拠された。しかし、放送回線のスイッチが切られたため、ベトコン側はあらかじめ用意されていた蜂起呼びかけのテープを流すことができなかった。
 グエン・バン・チュー大統領は米軍のヘリコプターに拾われて、ようやくミトーの別荘からサイゴンに戻り、グエン・カオ・キ副大統領とともに、統合参謀本部にはいり、そこに数日間、滞在した。
大統領の暗殺を命じられたベトコンの暗殺隊は、大統領の行方がわからなかったため、その使命を達することができなかった。
 しかし、統合参謀本部には3発のロケット砲が打ちこまれたから、砲撃が正確なら、このとき解放軍側は南ベトナムの首脳部を一気に殺害できる可能性もあったのだという。大統領と副大統領はすんでのところで、難を免れた。
 メコン・デルタでもゲリラ戦はくり広げられた。このあたりを守る南ベトナム軍の士気はまったくひどいものだった。
 ベトコンはメコン・デルタ諸都市の建物を占拠したが、南ベトナム軍はそれを手をこまぬいて眺めているだけだった。ベトコンを排除したのは、アメリカの空爆と圧倒的な火力である。
それにより、メコン・デルタでは5200人のベトコンが死亡し、2400人の民間人が殺され、21万1000人が家を失うことになった。
 一斉蜂起は起こらなかった。古都フエを例外として、都市の占領もたちどころに解除された。
北ベトナム軍の主力部隊が控えに回っていたのにたいし、先鋒となった南ベトナム民族解放戦線の部隊は、立ち直れないほどの大きな打撃を受けた。
 テト攻撃は失敗に終わる。
 にもかかわらず、アメリカ本土では、事態はむしろ逆方向に受け止められようとしていた。
 それまで、すべては順調に進んでいると思っていたアメリカ国民は、テレビでテトのニュースが生々しい映像とともに流れてくるのを見て、心底震えた。ほんとうは戦争は行きづまっているのではないか。いや、戦争自体、そもそも誤りだったのではないか。
そんなふうに感じはじめていた。
 2月1日、サイゴンの街角で、あるベトナムの軍人が、格子縞のシャツと半ズボンをまとったベトコン容疑者の頭部に弾丸を撃ちこんだ。そのとき、AP通信のエドワード・アダムズが撮った写真が、全米各地の新聞に掲載され、人びとに衝撃を与えた。
 はたしてベトナム戦争は、正義の戦争なのだろうか。たった1枚の写真がそんな疑惑を呼びさますことになった。
ヴェトナム写真.jpg
 ジョンソン大統領はベトナムのウェストモーランド将軍から、共産軍が大規模な攻勢をかけたものの、決定的に敗退したという電文を受け取っていた。だが、テレビでくり返し流されるゲリラ攻勢の映像を見るにつけ、憂慮を深めないわけにはいかなかった。
 それでもジョンソンは気を取り直して、2月2日正午にホワイトハウスで記者会見を開き、テト攻勢が完全な失敗に終わったことを強調した。
 その夜、テレビは東京経由で届いたばかりの戦闘のフィルムを流しはじめた。
 アメリカ国内で、政府への不信感がうずまくなか、リチャード・ニクソンが、この年におこなわれる大統領選挙で、共和党の大統領候補として名乗りを挙げた。かれはジョンソン政権を攻撃するとともに、北ベトナムに、さらに強硬な圧力をかけ、南ベトナムにもっと戦闘を分担させるべきだと提案した。
 いっぽう、いったん大統領選には出馬しないと表明した民主党のロバート・ケネディは、まよいはじめる。ジョンソンと一線を引き、ベトコンを加えての政治的妥協をさぐるべきだと発言するようになる。これはもちろん大統領選を意識しての発言だった。
 テロ攻勢で、ワシントンは根底から揺さぶられていた。しかし、言質ベトナムのウェストモーランド司令官は自信満々だった。
 南北国境の非武装地帯南25キロにあるケサンには、米軍の大きな基地が置かれていた。
ウェストモーランドは共産軍のほんとうのねらいはこの基地だと踏んでいた。ケサン周辺でも小競り合いがはじまっていた。
 ウェストモーランドは、ついに本格的な戦争がやってきたと予感し、共産軍側を徹底的につぶしてみせると張り切っていた。
 このつづきは次回。

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U3

読みました。
by U3 (2020-07-08 05:43) 

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