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鹿島茂『吉本隆明1968』 を読む(1) [われらの時代]

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 吉本隆明の代表作『共同幻想論』が出版されたのは、1968年11月のことである。評判になっていたこの本を買って読んで、何かわかったような気になったのは、69年春のことで、そのとき、ぼくは20歳になっていた。もちろん成人式などにはいかなかった。
 それ以来、吉本信者になった。ただし、熱心な信者というにはほど遠く、寝転がって吉本本を読んで、むずかしいところは読み飛ばし、わかる部分だけに共感したというエセ信者である。
おかげで何とか長いサラリーマン生活をやりすごすことができた。吉本は、ぼくの日常にわずかながら残った思想的水脈を永年にわたって支えてくれた。
 要するに、ぼくは吉本ファンだったのである。
 とはいえ、吉本はむずかしかった。読んでも理解できず、歯が立たないところが多かった。それが遠巻きのファンだった理由だろう。
 吉本を読みはじめたのが1968年だったことはまちがいない。文学や詩がさっぱりのぼくのことだから、それはたぶん政治思想にかかわる作品だったろう。何を読んだのか、さっぱり覚えていないが、人から借りた何かを読んで共感し、それで『共同幻想論』を買ったのだと思う。
『共同幻想論』については、あらためて記す。
 今回は鹿島茂の『吉本隆明1968』を読みながら、あのころ表面しかとらえていなかった吉本の内面にまで接近できればと思う。この本には、感性豊かな詩人・活動家としての初期吉本の姿がえがかれているような気がするから。
 著者が最初に取りあげているのは、吉本による「党生活者」批判である。「党生活者」というのは、戦前のプロレタリア作家で、1933年に官憲によって虐殺された小林多喜二の小説だ。同棲する女性に寄生しながら、懸命に非合法な党活動をつづける真摯な男の姿がえがかれている。
 結社の自由も言論の自由もない戦前ならではの物語といってしまえば、そのとおりで、いまになってみれば、懐かしい昔話として、純粋だった活動家の生きざまをふり返り、なにがしかの感慨にふければ、それですんでしまうのかもしれない。
 しかし、吉本はそう考えなかった。
 戦後のぼくらの時代も、レーニンのつくりあげた〈党〉の思想はまだ根強く残っていた。〈党〉は、単に自分たちの利益を代表してくれる政党とは異質の存在である。極端にいえば、それはむしろ、参加したみずからが生活信条を賭けて、ともに革命に邁進するための組織といってよい。
 自民党が圧倒的多数を占める世間とはことなり、大学では、そんな党というより党派が日共系、反日共系を問わず学生自治会を支配していた。ぼくが入学したとき早稲田大学で強かったのは、反日共系の革マルと日共系の民青で、ブントや社青同解放派は逼塞していた。
 ぼく自身は学生自治会にまるで興味がなく、自治会を支配する党派にはなるべく近づかないようにしていた。サークルも雄弁会にはいったくらいだから、少しも左翼ではなく、まして党や革命にひかれていたはずもない。
 それでも、当時の風潮として、雄弁会でも、マルクスやレーニンが読まれ、ベトナム戦争や沖縄問題が語られていた。そんななかでは、自然に自分の立場が問われるようになってくる。しかし、学内の党派には相変わらずアレルギーが強いままだった。
 そんなときに、吉本隆明が目にはいってくるのだ。
 吉本は、小林多喜二の「党生活者」を、こう批判する。

〈おそらく、作者のなかには「私たちのやうな仕事をしてゐるもの」と「世の人並のこと」とのあいだには千里の径庭があったのである。作者は、けっして「世の人並のこと」として「私たちのやうな仕事をしてゐる」という発想をもちえなかった。「私」は、したがって必然的に「世の人並のこと」を技術の問題としてしか理解することができない。〉

 ここには前衛党という発想への根深い不信感がある。
 前衛党は大衆を教導し、革命、言い換えればみずからの政権奪取のために、大衆を組織化していこうとする。吉本の場合、そうした考え方は、大衆にものを教え、大衆を導いてやるという知識人一般への不信感ともつながっている。
 革命家すなわち党生活者には、大衆を党に引き寄せ、大衆をプロレタリアに変えるという特別の使命が与えられている。そのためにはみずからの生活や家族を犠牲にすることも求められる。
いっぽうで、そうした使命感からは、いかにうまく大衆を組織し、動かすかという「技術主義」と「利用主義」が発生する。こうした発想は、レーニンからはじまって、スターリン(や毛沢東)でさらに拡張され、その末流によっていまも受け継がれている、と吉本はいう。
 日本の左翼には、旧左翼、新左翼を問わず、レーニンの党以来の倫理主義、禁欲主義が浸透し、それが党を官僚的、閉鎖的、党派的にしていた。
 しかし、むしろ求められるのは「寛容思想」であり、個々の大衆をできるだけ多く、いまのつらさから逃れるようにする方策ではないか。吉本はおそらく、そんなふうに考えていたはずだ、と鹿島はいう。
『擬制の終焉』で、吉本はこう書いている。

〈わたしが、日本的レーニン主義者にかんずるいちばんの不満は、労働者や大衆をオルガナイズされることを待っている何ものか、とかんがえていることである。しかし、かれらは具体的に生活している何かではあっても、オルガナイズされるのを待っている何かではない。〉

 左翼の党派のあいだでは、こんなあたりまえの常識が、当時は常識と思われていなかったのだ。
 党の論理からすれば、学生運動もまた、学生がみずからのプチブル性を脱し、プロレタリア階級の戦いに献身するために、みずからを変革していくための運動ととらえられていた。
 吉本は、そんなばかな言い草はないという。「学生運動は学生インテリゲンチャの大衆運動」であって、それ以上のものでも、それ以下のものでもない、とかれは断言する。
 われわれのめざすべき方向は何か。
 吉本はいう。
 それは「生活実体そのものを意識化する方向にコミュニケーションの志向をむけ」ること、「日常生活意識をとことんまで意識化」することだ。
 これが吉本の方法であって、党派を批判したこの「自立の思想」に、当時、左翼嫌いだったぼくらも拍手を送ったのだった。

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