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鹿島茂『吉本隆明1968』を読む(2) [われらの時代]

 吉本は第一論文集ともいえる『芸術的抵抗と挫折』(未来社、1959)で、「転向」の問題をとりあげている。
 転向とは一般に思想信条を変えることを指す。しかし、とりわけ共産主義者が共産主義を放棄することを、転向と呼んでいた。
 有名なのは1933年(昭和8年)に、日本共産党最高幹部だった佐野学と鍋山貞親が、獄中で転向を表明したことである。その声明文のなかで、かれらはコミンテルンの誤りを指摘し、共産主義運動から離脱すると述べていた。
 ふたりの幹部はなぜ運動からの離脱を表明したのか。もちろん官憲からの圧力があったためだが、好意的に解釈すれば、それはかれらがコミンテルンの方針が、あまりに日本の大衆の感情からかけ離れていることに気づいたためといってもいいだろう。言ってみれば、コミンテルンは日本共産党に、天皇制の打倒とソ連邦の守護(日本の敗北)を求めていたのだ。
 遅れた古い日本を倒し、社会主義の新しい国をつくること。共産主義にひかれた戦前──いやひょっとしたら戦後も──のインテリの深層意識には、そんな思いが根ざしていたのかもしれない。
 それを吉本は、インテリにみられる「知の遠方志向性」と呼んでいる。「知の遠方志向性」をもつと、「日本の社会機構や日常生活的な条件」がつまらぬものとみえてきて、そこからの脱却をはかろうとする。
 だが、現実を見据えることのない脱却は、孤絶した暴走や妄想を招くだけではないのか。そのことを、ぼくらは連合赤軍事件で、まざまざと経験することになる。
 佐野、鍋山の転向を嗤(わら)うことはできない。日本的現実に直面して転向した人びとは、原理原則に固執して非転向を貫いた人びとにくらべて劣っているわけではない、と吉本は考えた。コミンテルンの考え方がそもそもおかしいからである。
 転向問題は、権力への屈服か不服従かという単純な割り切り方では処理できない側面をかかえている。それが、吉本のとらえ方だったといえるだろう。
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 吉本の注目するのが、中野重治の転向だ。
 中野は1932年に検挙され、34年に転向して出獄した。
故郷に帰り、父と会って話したときのことを書いた小説が「村の家」である。
 父の「孫蔵」は主人公の勉次にこういう。

〈おまえがつかまったと聞いたときにゃ、おとっつぁんらは、死んでっくるものとしていっさい処理してきた。小塚原で骨になって帰るものと思て万事やってきたんじゃ……。〉

 勉次には返すことばがない。
 孫蔵はさらに「おとっつぁんは、そういう文筆なんぞは捨てべきじゃと思うんじゃ」と言い放つ。
 そう言われても、勉次は黙っている。
 そして、父がさらに話しつづけるのを聞いて、最後に「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います」と答える。
 地に足がつかぬ息子を父がたしなめ、文筆活動などやめてしまえという。これにたいして、息子は「やはり書いて行きたい」と言い切る。
 ここには中野の並々ならぬ決意があらわれている。
 とはいえ、中野にとって、書くという行為は、これ以降、父の存在、言い換えればみずからをつくりあげてきた古き伝統を意識せずにはすまされなかったはずである。
 吉本はのちに、こうした〈父〉のような存在を「大衆の原像」という概念でいいあらわすようになる。
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 鹿島茂は、「転向論」と並んで、初期吉本の中核をなす論考が「芥川竜之介の死」だと書いている。
 ここでも吉本は、みずからの来歴と重ねあわせるように、芥川に接近する手法をとっている。
 吉本は1927年(昭和2年)の芥川の死は、けっして時代思想的な死ではないと明言する。すなわち、一部で評されるように、芥川は勃興するプロレタリア階級を前にして、ブルジョワの立場をとるか、プロレタリアの立場をとるかで煩悶し、その葛藤から自死したわけではないというのだ。
 それは「純然たる文学的な死」であって、芥川は関係妄想と被害妄想などの神経的な不安にとらえられて、命を絶つにいたった。その原因は、中産下層階級出身というみずからの出自を断ち切って、大インテリゲンチャになりすまそうとした無理によるものだという。吉本はまことに吉本らしい、そんな解釈をくだしている。
 吉本は芥川を自分と同じ下町の中産下層階級出身とみるところから、芥川龍之介論をはじめている。
 芥川についてこういう。
「彼は、作家的出発において、ごく自然に中流下層の庶民作家であり、放蕩のかわりに、知識によって生を無意味に蕩尽すれば足りた下町庶民のひとりであったのだ」
 これは、われわれが芥川にたいしてもつ一般的なイメージを根底からくつがえす観点といえるだろう。
 鹿島茂は「吉本は、芥川を語り論ずることによって、自分自身を分析し、自身にとっての問題を尖鋭化することになる」と記している。
 言い換えれば、吉本にとって芥川の死は他人事(ひとごと)ではなかったということである。
 芥川は出身の下層階級から乖離して、あたかも上層のエリートとして振る舞うことによる孤独と不安を感じていた。
 だからこそ、吉本はいう。

〈[「或阿呆の一生」に記された]「人生は一行のボオドレエルにも若(し)かない」という断言の背後には、かならずや百行のボオドレエルの詩も、下層庶民の生活の一こまにも若かないという痛切な自己処罰の鞭があったはずであった。芥川は自分を「或阿呆」と呼ぶことによって、この自己処罰は、彼の全生涯を覆っていたはずである。〉

 このあたりの啖呵(たんか)は、まことに小気味よい。詩だって? へん、笑わせんじゃないぜ、というわけだ。
 自身の出身にたいする自己嫌悪をもつ芥川は、中産下層階級の世界に戻れなかった。そのことが芥川の神経をむしばまずにはいられなかった。
 吉本はなぜそんなふうに芥川をえがいたのだろう。
 戦前、右翼少年だった吉本が、戦後、労働運動を通じて、左翼に転じたことはまちがいない。だが、それは偉大な思想、卓越した党に身をゆだねる、いわば戦前の天皇崇拝を裏返したようなスターリニズム左翼ではありえなかった。
 だとすれば、自分の出発点はどこにあるのだろう。
 転向と芥川の死を他山の石としながら、吉本は、エリートではなく大衆の立場に立って書きつづけることを決意する。
 けっして教条的ではない、そんな下町インテリの威勢のよさを、当時のぼくらはかっこいいと思っていた。

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