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ボードリヤール『消費社会の神話と構造』を読む(2) [商品世界論ノート]

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 ボードリヤールは消費社会の別の側面にもふれている。
 それを断片的に紹介しておこう。
 ひとつは現代の消費社会が、個人の支出によってだけではなく、公的機関(政府や自治体)の支出によっても支えられていることである。公的支出は主に教育や文化、公共事業、社会保障、防衛などの分野にあてられている。
 ほんらい、公的支出は社会的機会の均等化をめざすことを目的としている。しかし、ボードリヤールによれば、それは社会的差別の解消にほとんど効果を上げていないという。とりわけ教育面では、世襲的な格差が大きい。再分配政策も社会的不平等の緩和にかならずしも寄与していない、と公共政策には厳しい見方をとっている。
 さらに、財の増加による豊かさが、公害をもたらしていることに言及するのも忘れていない。大気と水の汚染、生活環境の荒廃や騒音、自然破壊、自動車がもたらす心理的負担と事故、都市の人口過密、長時間通勤、競争による絶えざるストレス、長時間労働も、豊かな社会の副産物だ。
 社会の豊かさを示すとされるGDPには、経済成長のもたらすマイナス面や破壊を補償し回復するための費用も含まれている。そのいっぽう、カネにならない家事労働や学術研究、文化、精神活動はそこに含まれない。
 少なくとも、経済成長のプラス面とマイナス面がごちゃまぜに加算されるGDPはけっして豊かさを示す指標ではないのだ。消費社会は大きな代償の上に成り立っているが、GDPはその代償の大きさを隠蔽する魔術的な足し算であることを忘れてはいけない、とボードリヤールは釘を差す。
 消費社会は浪費社会でもある。それはゴミの文明を生みだしている。ボードリヤールは浪費自体を道徳的に糾弾するわけではない。ポトラッチをみてもわかるように、人類社会に浪費はつきものだった。
 ヒトには余分なものを貯めこむことで安心を得るという側面がある。「豊かさがひとつの価値となるためには、十分な豊かさではなく、あり余る豊かさが存在しなければならず、……浪費を解消したり取り除いたりできると思うのは幻想にすぎない」
 ポトラッチの香り、みせびらかし消費、無駄遣いが、現代の消費社会を活気づけている。宣伝は浪費をうながし、モノは持続するためではなく、はやばやと死滅するために生産される。モノの価値=時間を奪い取ることが、生産秩序の再生産を保証している。今日の社会では、無駄な消費が経済システムのなかに組みこまれている。
 ボードリヤールは浪費をやめて節約せよと主張するわけではない。消費社会においては、いやおうなく浪費が経済循環に組みこまれていることを認識しておくことがだいじだというのである。
 もう少し読み進めてみよう。
 消費を導く思想は幸福の追求だ、とボードリヤールはいう。幸福を求める権利は、だれにでも認められなければならない。その意味で、消費の権利は平等主義的で、民主主義的である。だれでもが「モノと記号によって計量することができる福利、物質的安楽」を求めることで、幸福になる権利をもっている。
 消費社会の特徴は、だれもがどんな商品にたいしても、平等で民主的な権利をもつことである。ただし、幸福を与えてくれる商品を購入できるおカネは、だれにでも平等に民主的に与えられているわけではない。
 経済成長は長期的には、所得の均等化と民主化をもたらすという見方は根強い。それによると、貧困は「残りカス」のようなもので、経済成長とともに、やがてなくなるという。
 だが、この見方にはボードリヤールは否定的である。実際には経済成長は、特権階級や社会的不平等、不均衡、ひずみを生みだしている。つまり、「富の絶対量がどうであろうとも、体系的不平等を含みつつ安定している」のが、消費社会の特徴なのだ、とかれはいう。
 だが、それは消費社会にかぎられた話ではない。「あらゆる社会は構造的過剰と構造的窮乏とに同時に結びついている」。したがって、経済成長は、われわれを豊かさから遠ざけもしなければ近づけもしないというのがほんとうだ。社会的差異と差別は常に再生産される。特権的少数者も生まれつづける。
 ボードリヤールの見方は、悲観的といえば悲観的だが、きわめて冷静でもある。
「全体として見れば、成長の社会は、民主主義の平等主義的原則(それは豊かさと福祉の神話によって支えられている)と特権と支配の秩序の維持という根本的至上命令との妥協から生じている」
 経済成長は所得の均等化をもたらし、さらに経済成長を後押しするかもしれない。かといって特権と支配権力はけっして弱体化されるわけではなく、むしろ強化されるというわけだ。
 ボードリヤールは社会主義を支持しているわけではない。だが、「[資本主義]システムは富と貧困を同時に生み出し、充足と同様不満を、進歩と同様公害[破壊]をも生み出すことなしには存続できない」という立場をとっており、ガルブレイスのような楽観的な資本主義修正論にくみしていない。
 差別をつくる社会論理は常にはたらいている。産業化によって都市の汚染や騒音、あわただしさが広がると、きれいな空気や緑地、水、静けさは特権階級にしか与えられない贅沢品になっていく。そのいっぽうで、環境の悪化に対応して、それを解消するための財やサービスが人工的につくられるようになる。その財やサービスも、だれもが自由に得られるわけではない。
 たしかに生活必需品のレベルでは均質化が進む。しかし、価値と効用は地滑り的に移動して、新しいヒエラルキーが生まれるのだ。たとえば住宅にしても、場所や居住空間のちがい(差別化)に、そうしたヒエラルキーが歴然と示されることになる。
 ボードリヤールは次のような例を挙げる。

〈肉体労働者と上級管理職の支出の間の差異は、生活必需品では100対135にすぎないが、住居設備では100対245、交通費では100対305、レジャーでは100対390となっている。ここに、均質な消費に関する量的な差を見るべきではなくて、これらの数字から、追求される財の質に結びついた社会的差別を読みとるべきなのである。〉

 これは1970年段階のフランスでの数字である。2020年の現在において、こうした比率は、はたして縮小しているだろうか。アメリカはいうまでもなく、フランスや日本でも、むしろ拡大しているのではないだろうか。
 かれはさらにいう。健康や空間や美や休暇や知識や文化への権利が口々にいわれるけれど、それはすでにそれらが失われていることを示しているのではないだろうか。そして、そうした権利を満たすために新たな商品がつくられ、新たな役所が生まれる。たとえば、保健省や観光庁、文化庁というように。システムの生み出す疲労が、それを癒やすための商品開発へとつながり、それがGDPを押し上げ、それを管理する役所をつくりだすという循環構造が生まれている。
「学校が文化的機会の均等化に役立たないように、消費もまた社会全体を均質化するわけではなく、社会内の差異を強化しさえする」とも述べている。消費にたいする平等と民主主義はまったく形式的、抽象的であって、じつはそこでは真の差別のシステムが機能しているというのだ。
 実際には商品への消費は個別にではなく集合的になされていて、「消費はひとつの階級制度」なのだ、とも書いている。「誰もが同じ教育を受ける機会をもたないように、誰もが同じモノをもっているわけではない」。知識と教養、文化、余暇も、「より苛酷でより狡猾な文化的隔離[差異化]の場にすぎない」と、ボードリヤールはさらにたたみかける。
 モノには地位の観念がまとわりついている。消費社会においては、自己の価値を証明するために、稀少なモノを所有しようという虚しい試みがどこまでもつづけられる。ここでは、商品は単に使用価値があるからではなく、「ヒエラルキーのなかの地位上の価値」をもつからこそ購入され、消費されるのだ。
 そのことは、おうおうにして気づかれない。「消費者は自分で自由に望みかつ選んだつもりで他人と異なる行動をするが、この行動が差異化の強制やある種のコードへの服従だとは思ってもいない」。強制された差異化や社会的コードの要請が、消費をうながしている。
 消費に限度がないのは、差異化の原則がはたらくからである。一般に消費は常に上から下に向けて更新されていき、けっして全面的均質化に向かうことはない。商品が大量生産されるようになるのは、高級品が高級品の部類に属さなくなってからである。
 差異化の消費力学は、差異を拡大する方向と、差異を縮小する方向とに同時的にはたらく。それにより、欲望や欲求は際限のないものとなり、コントロールできない構造的変数となっていく。
 ボードリヤールは、経済成長が生じるのは、欲求と財とのあいだにある種の不均衡が存在するからだとも述べている。成長社会は、財の供給に比べて、欲求が常に超過していることを前提としている。したがって、この経済システムは、心理的窮乏化と慢性的危機の状況を内在化させているといってもよい。
 加えて、宣伝が差異をイメージとしてつくりだし、欲求を刺激する。都市への人口集中もまた欲求の限りない発生をもたらす。この際限ない欲求はシステムによって生じたものだ。こうした心理的窮乏化を引き起こすことによって、不安定で目まぐるしいなか、資本主義的生産の秩序と拡大が保たれていく。
 その意味では、成長社会は豊かな社会と正反対だ、とボードリヤールは言い切る。それは特権と差別、構造的貧困を生み出す社会なのだ。

〈われわれの生産至上主義的産業社会は稀少性に支配されており、市場経済の特徴である稀少性という憑依観念につきまとわれている。われわれは生産すればするほど、豊富なモノの真っ只中でさえ、豊かさとよばれるであろう最終段階から確実に遠ざかっていく。〉

 ボードリヤールはサーリンズによる狩猟採集社会の研究をもちだして、未開人は絶対的には貧しかったにもかかわらず、真の豊かさを知っていたという。かれらは何も所有せず、労働もせず、暇をみつけて狩猟や採集をおこない、手に入れたものをみんなで分けあう。睡眠をじゅうぶんにとり、自然のもたらす富を信じて生きていた。将来のことなど心配せず、手に入れたものは浪費する。
 これは「競争と差異化のなかで、欠乏と無限の欲求の弁証法」によって揺り動かされる、われわれの「豊かな」社会とは大違いだ、とボードリヤールはいう。現代の「豊かな」社会では豊かさが失われており、それを取り戻すためにさらなる経済成長を求めるというのは、まさに倒錯した社会的論理ではないか。そんなふうにボードリヤールは書いている。

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