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ボードリヤール『消費社会の神話と構造』を読む(3) [商品世界論ノート]

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 消費の理論をめぐるボードリヤールの考察をさらに追ってみよう。
 経済学はこう考える。人間は欲求を授けられており、欲求は満足を与えてくれるモノへと向かう。そのときモノは効用をもつ。そして、モノの選好は、けっきょくのところ支払い能力をもつ需要(有効需要)にもとづいて決定される。
 いっぽう社会学者はこう考える。財の選択は、社会的・文化的にコントロールされている。しかも、消費者はみずからのヒエラルキーに応じて、財を選択する。それは特定の時代、社会の生活スタイルに応じてなされるから、消費者はかならずしも自律的、主体的に財を選択しているとはいえない。消費財の「スタンダード・パッケージ」を受けいれているのだ。
 経済学者と社会学者のとらえ方のちがいからは、欲求の条件づけという問題が発生する。ガルブレイスの考え方は、両者の相違に架橋しようとするものだ。
 現代資本主義の大問題は、過剰な生産力にたいし、いかに消費需要を喚起するかだ、とガルブレイスは考えている。そのためには、消費者の意思決定力を操作し、商品に目を向けさせなくてはならない。こうしてテクノストラクチャー(専門家集団)を擁する大企業が、人為的アクセルによって、人びとの欲求を昂進させ、需要を喚起することになる。
 その道具となるのが、広告、宣伝である。消費者の自由と主権は建前にすぎない、とガルブレイスはとらえている。
 ガルブレイスが言いたいのは、要するに、消費者はテクノストラクチャーが支配する生産者に踊らされているということである。
 ボードリヤールはガルブレイスのこうしたとらえ方に賛同しつつも、かれのピューリタニズム的発想に異論をはさむ。
 問題は倫理ではなく、システムなのである。ボードリヤールは、欲求のシステムは生産のシステムの産物であると考えている。
 生産の秩序は道具に代わって機械を生みだし、富とはことなる資本が誕生し、仕事とは異なる賃金労働力を生まれ、それによって欲求のシステムがつくられ、需要が生まれるのだ、とボードリヤールはいう。これはまさにマルクスの『資本論』の考え方と同じだといってよい。
 さらに、ボードリヤールにいわせれば、私がこのモノを買ったのはそれがほしかったからだというのは、同義反復であって、そこからはいかなる消費理論も生まれない。モノは単なる使用価値や効用ではなく、記号価値として理解されなければならない。たとえば「洗濯機[もちろん自動車も]は道具として用いられるとともに、幸福や威信等の要素としての役割を演じている」のだから。
 したがって、こういうべきだ。「欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求ではなくて、差異への欲求(社会的な意味への欲望)であることを認めるなら、完全な満足などというものは存在しないし、したがって欲求の定義もけっして存在しない」。個々の欲求はつぎつぎとあらわれる意識の流れの中心という意味しかなさないことになる。
 さらにボードリヤールは、こう書いている。

〈消費は享受の機能ではなくて生産の機能であって、それゆえモノの生産とまったく同じように個人的ではなくて直接かつ全面的に集団的な機能だと考えるのが消費についての正しい見解である。〉

 ややこしい言い方だが、いわんとすることはわかる。
 消費は自然的で生物学的な過程ではない。それは生産システムに組みこまれた社会的プロセスであって、人は消費者として知らないうちに、集団的にこのプロセスに巻きこまれている。消費は単純にみずからの欲求と享受を満たすようにみえて、このシステムにおいては、じつは価値と序列の社会的秩序にしたがいながら商品の分配にあずかっているのだ。
 だから、ボードリヤールはこういう。

〈財や差異化された記号としてのモノの流通・購買・販売・取得は今日ではわれわれの言語活動でありコードであって、それによって社会全体が伝達しあい語りあっている。これが消費の構造でありその言語(ラング)である。個人的欲求と享受はこの言語(ラング)に比較すれば話し言葉(パロール)的効果でしかない。〉

 いきなり言語学や記号学の用語がでてきて、めんくらう。
 ボードリヤールは消費を言語活動にたとえている。社会のなかで、人は言語を用いながら生活している。そこでのコミュニケーションは、共通の音声や語彙、文法などの約束からなる言語(ラング)によって成り立っている。
 その言語と同じように、人は社会のなかで、現金やカードやビットコインや小切手などといったマネー媒体を使って生活しているのだ。その意味で、言語活動と経済活動、とりわけ消費活動はよく似ている。
 消費は生産の体系としての経済システムに組みこまれており、それは記号としてのマネー媒体によって営まれる商品の分配にほかならない。そして、消費によって実現される個人的欲求と享受は、個人としてならともかく、システム全体からみれば、副次的意味しかもたないというわけである。話し言葉(パロール)が生き生きしているとはいえ、言語(ラング)の一部でしかないように。
 さらに読み進めてみよう。
 ボードリヤールは、ウェーバーを念頭に置きながら、ピューリタニズムは資本の拡大を義務としたが、同じように消費を義務としていると皮肉っている。
 労働が義務であるように、消費もまた義務である。そこでは、ためすこと、楽しむこと、遊ぶことが、まさに強制されているのだ。消費には規制がなく、自由であるようにみえるが、じつは集団的で強制的で社会的なモラルであり、制度なのだ。
 消費は社会的訓練の場でもある。たとえば、人びとはクレジットをはじめ──品物はすぐ、支払いはあとで──、新しい支払い方法を学ぶことを余儀なくされる。消費者は常に新しい消費手段や商品の使用・享受方法を学びながら、拡大再生産される社会の流れについていくことを強いられているのだ。
 資本主義システムにとって、いまや消費者はかけがえのない存在となっている。消費行動はいっぽうで個人主義的価値観を増幅させるが、もういっぽうで責任とモラルを求められるようになる。消費の強制のあとは責任の強制がつづくというのは、新たな矛盾といえなくもない。
 だが、こうして消費者は生産システムによってだけではなく国家によってもコントロールされることになるのだ。消費者はおだてられ、祭りあげられるなか、忠実に消費者としての役割をはたしているのだ、とボードリヤールはいう。
 消費の基本的テーマは差異化と個性化である。だが、これは消費社会の呪文、宣伝文句なのだ、とボードリヤールは断言している。
 宣伝は差異化と個性化をうたう。しかし、実際にここに差異と個性が存在するわけではない。自分と他者を区別するのは、あるモデルと一体化すること、あるモードにもとづいて自己を特徴づけることにほかならない。それは現実の差異や特異性を放棄することでもある。そして、現実の生産過程はいくつかの商標のもと、いくつかのモデルをつくり、絶えざるモデル・チェンジをすることによって成り立っている。
 ボードリヤールによれば、差異化はむしろコードへの服属、組み込みを意味しているというのだ。
 人びとは日常的な学習を通じ、組み合わさった文化にもとづいて、みずからの個性や習慣を選び取り、それによって差異のコードに組みこまれるのだ。
 個性化はモノや財それ自体ではなく、差異のうえに成り立っている、とボードリヤールは強調する。つまり、差異化作用が先にあって、それにモノや財がついてくるのだ。その差異化作用は、社会的コードにもとづいてなされる。
 過剰なみせびらかし消費、上流階級趣味、お隣との比較、こうした高次の「メタ消費」が、実際の消費行動をかたちづくっている。
 消費行動を促しているのは、個人の欲求ではなく、じつはコードに支配された差異化の論理なのだ、というのがボードリヤールの考え方である。したがって、地位への順応は、同じヒエラルキーのコードを共有すること、記号(モノ、商品)を分かちあうことによってなされる。
 とはいえ、現代のヒエラルキーは生まれや血統、宗教によって分けられているのではない。記号のコードとして選好される消費の巨大な連合体として形成される。
 現代の資本主義において、消費とは諸個人を差異のシステムと記号のコードに組みこむことにほかならない、とボードリヤールはいう。そして、コードのレベルでは、モードの革命が日々おこっており、それが政治革命を不発に終わらせてしまう。こうして消費は人びとをゲームに参加させることによって、イデオロギーを無力化していく。
 消費社会は自己陶酔をもたらすナルシシズム社会でもある。女性はモデルとしての女性を記号として買いいれることによって、個性を実現するのだ。
 もちろん女性的モデルにたいして、男性的モデルもある。しかし、「今日いたるところで目につくのは女性的モデルが消費のあらゆる領域に拡大していることである」。
 ボードリヤールは、ここからさらに現代の消費の具体的な諸相へと向かうことになるが、それはまた次回ということにしよう。
 これまで紹介してきたところをみても、ボードリヤールが消費社会を手放しで称賛しているわけではないことがわかるだろう。消費社会は、1970年代に資本主義が高度化し、ますますシステム化されていくなかで出現した現象ととらえられていた。その見方はむしろ批判的、挑戦的だった。

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