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ボードリヤール『消費社会の神話と構造』を読む(4) [商品世界論ノート]

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 本書が刊行された1970年にまだパソコンはなかった。それでも新聞や雑誌、ラジオやテレビが、膨大な情報や広告を流し、消費者の関心をあおっていた。そんなマスメディア文化はいったい何をもたらしていたのだろうと問うところから、ボードリヤールは消費社会の実相に迫ろうとしている。
 メディアが現代の文化をつくっていることは否定しがたい。ボードリヤールは、メディアの最大の機能は「ルシクラージュ」、すなわち周期的更新だという。
 メディアの場では、流行も知識も風景も文化もニュースも常時、更新されていく。こうした更新は、日常生活にも影響をもたらし、広告と一体となって、消費を動かしていく。
 マスメディアが大衆に提供するのは、「最小共通文化」である。そのなかには芸術も含まれる。メディアを通じて、人びとはシャガールやピカソを知り、その複製画を買ったりもする。こうした文化の民主化はかならずしも否定さるべきではない。
 芸術、科学、音楽の雑誌や本を買うのは、同じ知識と教養をもつ読者の仲間入りをすることでもある。だが、それは社会的地位のコードとして消費されているのであって、文化は二次的な要素にすぎない、とボードリヤールはわりあい冷ややかな見方を示している。
「この時点で、文化はわれわれの日常生活の『雰囲気』をつくりあげるさまざまなメッセージ、モノ、イメージと同一の適応様式(つまり好奇心の様式)に従うことになる」
 文化は常に更新される。商業デザインも消費者を新たな雰囲気に同化させて、商品の売れ行きをよくするのが目的だ。そこに提示されるのは産業化された文化である。
 キッチュは、安物アクセサリーやみやげ物、民芸装飾品、造花など、擬似的なモノを指す。消費社会では、こうしたキッチュが氾濫するが、これも文化の一範疇である。
 キッチュは水増し的に拡大する。キッチュが生み出すのは文化変容の美学であり、モノのサブカルチャー化だとボードリヤールはいう。
 これにたいし、ガジェットは脱工業化社会の象徴である。ガジェットとは、大型機械に代わる小型装置のことであり、ボードリヤールはその代表としてタイプライターを挙げている。ほかに身の回りの家電製品を思い浮かべれば、ガジェットのたぐいにはことかかない。いまならさしずめノートパソコンやスマホがガジェットの代表ということになるだろう。
 消費社会は、キッチュやガジェットを次々に生みだしていく。
「ガジェットは、実用的でも象徴的でもなく遊び的なその使われ方によって規定される」。だとすれば、1970年ごろにはじまったガジェット化の流れは、ついに現在のデジタルマシーンに行きついたとみるべきだろう。
 ポップ・アートもまた消費社会の生んだ新たな芸術形式といえるだろう。ボードリヤールによれば、ポップ・アートは、署名入りの消費されるモノとしての独自の地位を追求したのだという。

〈ポップがもっともポップ的な企てにおいて行う活動は、われわれの「美的感情」とはかけ離れている。ポップは「クール」芸術であって、美的陶酔も感情的または象徴的合一(深い巻きこみ)も要求しないが、その代わりに一種の「抽象的巻きこみ」、道具への好奇心を要求する。この好奇心には子どもの頃の好奇心や発見の素朴な喜びのようなものが残っていることはいうまでもない。〉

 ポップ・アートに詳しくないぼくでも、この説明はなかなかポップ・アートの雰囲気をよく伝えているような気がする。
 テレビではニュースやドラマと広告が、注意深く配合されているという指摘も、いわれてみればそのとおりだ。
 マクルーハンのいうとおり、メディアはメッセージである。メディアのなかでは、ニュースがコマーシャルを、コマーシャルがニュースを指示し、実際の現実からとおざかっていく。
 世界は切り取られ、情報として記号化され商品化される。メディアが提供するのは世界の実体ではなく、一定のコードにしたがって細分化され濾過され、再解釈された記号としての世界である。
 そこでは現実を回避したイメージが形成される。そして、そのイメージに人は動かされるのだ。
その意味で、広告は現代のもっとも注目すべきマスメディアである。広告は消費者をつくりだし、モノやブランドからできた商品のメッセージを組織的に人びとの頭脳に埋めこんでいく。
 ブーアスティンは『幻影の時代』において、社会のコードとメディアの技術的操作によって、出来事や歴史や文化がイメージとしてつくられていく世界を論じた。
 そのことを踏まえて、ボードリヤールは、「マスメディア的消費を規定するのは、実在系をコードで置きかえるこの手続きの一般化なのである」という。なまの出来事は、メディアの記号的操作によって、整理されないかぎり、消費可能な商品とはならない。こうして、つくりもののリアリティが実体よりも優位に立つのだ。
 広告はモノをつくられた感動的なできごとのなかに埋めこんでいく。広告は真と偽のかなたに存在し、大衆はだまされることを喜ぶ。ボードリヤールによれば、それは「自己実現的予言」である。広告はくり返す魔術めいた予言によって、消費者をモノにいざなうのだ。
 ボードリヤールは消費社会の表層を次々と渡っていく。
 消費社会では、いまや肉体こそが大きな消費対象になっているという。
 マスメディアと広告を大きな回転軸としながら、消費社会は何もかもを商品化し、さまざまなキッチュやガジェットを生みだす。そして、ついに肉体をも消費戦略に組みこむことに成功したというわけだ。
 ところで、肉体といわれると、いまのぼくはリハビリしか思いつかないが、さすがに本書のとらえる1970年は時代もまだ若かった。あのころは禁欲の時代が終わり、肉体とセックスの解放が話題になっていたのだ。若さ、エレガンス、男と女、肉体にまつわる快楽の神話が世をおおっていた。
 資本主義社会では肉体は私有財産である。そこから肉体へのナルシシズムが生まれ、肉体を開発し、幸福や健康、美にあふれる記号として肉体をつくりあげる作業がはじまる。その目的は人間解放と自己完成というより、じつは他人との競争に勝つことなのである。
「肉体が投資されるのは、肉体に利潤を生ませるためである」とボードリヤールはいう。「要するに、肉体はひとつの資産として管理・整備され、社会的地位を表示するさまざまな記号の形式のひとつとして操作されるわけである」
 肉体こそが財産。ちょっとあざとい言い方かもしれないが、いわれてみれば、たしかにそうかもしれない。消費社会においては、肉体もまた商品化される。
 いまや男でも女でも、美しさとエロティシズムが肉体の倫理を導くようになる。美が流行の価値記号であるように、エロティシズムは肉体をきわだたせる純粋な記号なのだ。
 そして、この肉体の倫理はモノに浸透し、新たなモノを生みだしていく。マッサージやジム、美容院、温泉、化粧水などなど。ガジェットとしての健康器具やアクセサリーなど、挙げていくときりがない。「肉体、美しさ、エロティシズム、それらには売り上げを増やす力がある」
 精神主義から肉体主義へ。肉体主義はいまや神聖化されかねない、とボードリヤール。肉体はひとつのイデオロギーとして、消費を導く神話になっていく(ライザップ!)。
 現代は女性の解放が進められている時代だ。しかし、女性の「解放」が進むにつれて、女性が消費社会のなかで、自分自身を自分の肉体と取り違える傾向がますます強まっている、とボードリヤールはいう。
 女性や若者が以前より解放されたことはまちがいない。しかし、その「解放」は、いわばシステム化されており、消費社会を享受しつつも、社会的危険を除去するよう管理されているとも評している。
 肉体の時代は医療崇拝の時代でもある。「健康は今日では生き残るための生物学的な意味での至上命令である以上に、地位向上のための社会的至上命令となっている」
 肉体は仕事の道具であるとともに、威信を示す記号でもある。医者と薬は、治療のためだけではなく、文化としての役割をはたし、潜在的なマナ(神秘的な力を与えるもの)として、消費の対象となる。
 現代の消費社会においては、からだの線を美しく保つことが、一種の強迫観念となっている。そこには「抑圧的気づかい」さえみられる。なにせ、肉体は監視する必要がある危険なモノとなってしまったのだから。こういう皮肉は本書のあちこちにあふれている。
 肉体への気づかいは、衛生への強迫観念をともなっている。消毒、殺菌、予防を重視するのも現代の特徴だ。
 さらに肉体を管理するためのかずかずの商品が生みだされる。低カロリー食品や人工甘味料、ダイエット食品など。
 セックス産業も肉体をめぐる産業である。ここでは性そのものが消費の対象となっている。
 ここで、ボードリヤールは問う。
 性は伝統的タブーから解放され、自由になったのだろうか。
 そうではない。「性をエロスのシステムとして、消費の個人的・集団的機能として『解放』したのは、生産システムの論理そのものなのだ」。そこには深刻な矛盾が隠されている。
 エロチックな広告のイメージは、人をひきつける。だが、その目的は、唯一の真のメッセージであるブランドに人を誘導することだ。
 広告自体にはどこにも性的衝動は含まれていない。広告は記号としての幻覚が化石化した集合体なのだ。あらゆる形態の性は、組織的な検閲によって実体を失い、消費用具となってしまう。それはある意味では深刻な事態だ、とボードリヤールはいう。
 いまやセックスはその象徴性を失い、部分的な機能となって、私有財産としてひとりひとりに割り当てられている。すると性は使用価値と交換価値の図式に組みこまれ、欲求とその充足、技術と商品性だけが問われるようになってしまう。ここからは物象化された性の文化的形而上学がはじまることになる。
 消費社会のもとで、性が商品化されたことによって、人ははたして解放されたのだろうか、とボードリヤールは問いかけている。
 次回は最終回。

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