SSブログ

ボードリヤール『消費社会の神話と構造』を読む(5) [商品世界論ノート]

 消費社会のつくった商品のひとつに余暇関連産業がある。
 しかし、そもそも時間とは何だろう。
 現在の時間概念について、ボードリヤールはこう述べている。

〈時間はあなたより前から存在していて、あなたを待っている。もし時間が労働のなかで疎外され奴隷化されているなら、あなたは「時間をもたない」。反対に時間が労働や拘束の外にあれば、あなたは「時間をもつ」。水や空気と同じように絶対的で譲渡不可能な次元である時間は、したがって余暇のなかで再び万人の私有財産となる。〉

 現代社会では、時間が生産システムの枠内で生産され、すべての財と同じ資格をもっている。つまり時間は財なのだ。時間は自由への渇望を内包している。だが、自由な時間は、そもそも強制と拘束の時間があってこそ生みだされるという矛盾にさらされている。余暇においても、消費社会の悲劇的逆説が貫徹しているわけだ。
 ヴァカンスはもちろん自由時間だが、それは労働時間の規範と拘束を前提として与えられたものだ。
 自由時間とは「何よりもまず時間を無駄にする自由、時間をつぶしたり、純粋に浪費したりする自由」によって支えられている。ヴァカンスという時間は、1年間汗を流してやっと手に入れたひとつの財であって、これを手放すわけにはいかない。ところが、余暇が自由だというのは幻想なのだ。そこには「自由」な時間があるわけではない。実際に存在するのは、限定された気晴らしの時間でしかない。
 したがって、余暇は疎外された労働のイデオロギーにほかならない。そのため、「余暇は自由時間の享受、充足、および機能的休息などというよりは、むしろ非生産的時間の消費として定義される」と、ボードリヤールはいう。
 ここでは、消費される自由時間が、生産の時間であるという逆転が生じる。それは生産に備える時間である。しかも、それ自体が生産の時間ともなる。すなわち、ここにレジャー産業が登場して、自由な消費者は、差異表示的、地位表示的、威信的な消費をおこなうのである。
 暇な時間を使い果たすのは、一種のポトラッチ(気前いい散財)である。そこでは、いわば社会的救霊がなされ、人びとは日ごろのうさを晴らす。
 労働が自由な労働力として「解放」され、消費が商品の自由な選択として「解放」されるように、余暇においては、時間が自由な商品として「解放」される。だからこそ、「余暇は時間を自由に使えることそのものではなく、この自由のポスターにすぎない」と、ボードリヤールはいうのである。

 消費社会の特徴は、財とサービスが豊かだというだけでなく、すべてがサービスをまとっていることである。モノはただ利用されるだけでなく、消費者に奉仕することをめざしている。ここに心づかいのシステムができあがる。
 財は財というだけではない。そこには隅々まで心づかいが行き渡っている。
 心づかいのシステムは健康保険や失業保険、年金などの公的制度によっても支えられている。こうした再分配政策も、社会がサービスと福祉に努めているという神話を植えつけることになる。
 いずれにせよ、消費社会では温かさと思いやり、微笑のコミュニケーションが重視される。広告のなかでも、消費されるのは親しみである。こうしたコミュニケーションが、現代のテクノクラシー社会の哲学、価値体系をつくっている。
 だが、こうした温かさの雰囲気は、制度的、経済的につくられたものである以上、ひずみを生まざるをえない、とボードリヤールはいう。サービスは欲求不満、あるいは下心と常に結びついている。
 サービスを生みだす社会は、第3次産業が主流となっている社会である。そこでは紋切り型の献身が、個性とあらがって、いかにもそれらしく演出され、時折、いやらしささえ感じさせる。
 それはアナウンスの仕方からしらけた微笑、ばか丁寧な態度にまで広がり、システム化された対応ともなる、とボードリヤールは手厳しい。
 割引や特価、セール、おまけ、景品なども、気づかいやサービスのあらわれなのだろうか。いやいや、そうではあるまい。
 とりわけ広告は要注意だ。広告は、ちょっとしたおまけを引きだす仕掛けである。そこでは万人のために無償の贈与が提供されているようにみえる。
 だが「広告のずるさ、それはいたるところで市場の論理を『カーゴ』(贈り物を積んだ船)の魔術にすりかえることにほかならない」と、ボードリヤールはいう。
 控えめな様子と気前のよさ、広告のつくりだすこうした雰囲気は、さらに消費せよという隠れた至上命令とワンセットになっている。
 ショーウインドウもそうした仕掛けのひとつである。ショーウインドウには、さまざまなモノと製品が、神聖な品々のように陳列されている。ショウウインドウをのぞくことによって、われわれは変化への適応性と社会への順応度をためされているかのようだ、とボードリヤールはいう。
 消費社会では、実業家も広告業者も、まるで病める消費者に手を差し伸べる医者や救済者のようなふりをして登場する。だが、かれらは福祉と社会全体の繁栄を唱えながら、かいがいしくはたらいて、たっぷり利益をあげるのである。
 ボードリヤールにいわせれば、それは気づかいの魔術的レトリックだ。こうしたレトリックは経済面だけではなく政治面でも広がっている。政治家は民主的なそぶりをよそおいながら、権力による国民のコントロールをおこなっているのだ。
 ボードリヤールは、消費社会においては「個人はもはや自律的価値の中心ではなく、流動的相互関係の過程における多様な関係の一項にすぎなくなる」とも述べている。
 安住の地はどこにもなく、すばやく反応する力が求められる。人は他者との交差点に位置する存在として、いかなる状況にも対応し、ヒエラルキーのコード化した階段をのぼっていかねばならない。
 伝統的個人の超越的自己実現という課題は、もはや遠い過去の目標である。いまでは、集団内部の人間関係が最大の関心事だ。
 消費社会特有の概念は「雰囲気」だも指摘している。消費社会では、脱イデオロギー的な関係性が重視され、関係の生産が求められる。何よりも、できるだけ多くの他者をひきつける戦略がだいじになってくるのだ。
「誠実さ」や「寛容」もまた現代社会を導くだいじなキーワードとなっている。だが、ここで提示されているのは、あくまでも誠実さや寛容の記号である。
 ボードリヤールははっきりという。
「消費社会、それは気づかいの社会であると同時に抑圧の社会であり、平和な社会であると同時に暴力の社会である」
 平穏無事な日常は、マスメディアの流す「暗示的暴力」を糧にして、輝きつづける。暴力や惨事は常に亡霊として払いのけられ、豊かな消費社会が不安定な均衡を保ちながら存続していくのだ。
 だが、バーチャルではない現実の暴力は統御不可能である。時に暴力は見境もなく、突発的で不可解なものとして発生する。じつはボードリヤールは豊かさと幸福の神話(強迫観念)が、こうした暴力を生んでいるのではないかと疑っている。
「貧困と窮乏化と搾取が生み出す暴力とは本質的に異なるこの暴力は、欲望のまったく肯定的側面によって排除され、隠蔽され、検閲された欲望の否定性の顕在的出現としての行為である」
 いわばシステム化された豊かな消費社会からはみだした欲望が暴力となって出現するのである。
 社会はこうしたアノミー的で統御不能な暴力を防ぐために、さまざまな公的サービスを提供したり、それを回避するための商品を生みだしたりする。だが、それはあくまでも調整と制御の機構であって、暴力が臨界点に達して爆発するのを完全に防げるわけではない。暴力は現代社会に深く根をおろしている。
そのいっぽうで、LSDやサイケデリック、禅、ヒッピーなど、非暴力のサブカルチャーも登場している。こうした若者たちの反社会的なコミューンは、はたして経済成長と消費の社会に取って代わるだろうか。
 それははなはだ疑問だ、とボードリヤールは考えている。
 ボードリヤールは、飢えが現在大きな世界的問題であるように、今後は疲労が世界的問題になるだろうとも述べている。慢性的で管理できない疲労は、管理できない暴力と並んで、豊かな社会にはつきものなのだ。
 この社会はストレスと緊張とドーピング(興奮剤)に満ちた社会なのだ。欲求の充足というプラス面を相殺するマイナス面が同時に発生している。
「消費社会の主役たちは疲れきっている」のだ。というのも、消費社会では「経済、知識、欲望、肉体、記号、衝動などあらゆるレベルで競争原理が貫徹し」、「すべてのものが差異化と超差異化の絶え間ない過程において交換価値として生産され」ているからである。
 それにたいする受動的抵抗が、疲労や鬱、ノイローゼとなって発現している。疲労とは潜在的異議申し立てなのだ、とボードリヤールはいう。だが、そうした異議申し立ては自分自身に向かうしかない。
 豊かな消費社会は、欲望の両義性を解体し分裂させる方向に向かう。それはさらなる欲求とその充足を追求するいっぽうで、身体の統御不能性、あるいは暴力へと走るのだ。その過程は、けっして修復されることがない。
 それでも、消費社会は消費社会を批判する言説をも取り込みながら、ますます膨張していく。

〈消費という特殊な様式のなかでは、超越性(商品のもつ物神的超越性も含めて)が失われてしまい、すべては記号秩序に包まれて存在している。……消費の主体は個人ではなくて、記号の秩序なのである。〉

 はっきりいうと、ボードリヤールは、消費社会の死以外に疎外を逃れる方法はないという結論に達している。
 だが、はたして、それは可能なのだろうか。
 ちなみに、消費社会を高く評価した晩年の吉本隆明は、『ハイ・イメージ論』で、ボードリヤールが「左翼インテリ特有の根拠のない感傷と大衆侮蔑的な言辞」をまきちらしているだけだ、と手厳しく批判して、こんなふうに述べている。

〈ボードリヤールは消費社会を誇張した象徴記号の世界で変形することで、資本主義社会の歴史的終焉のようにあつかっている。実質的にいえば産業の高次化をやりきれない不毛と不安の社会のように否定するスターリニズム知識人とすこしもちがった貌をしていないとおもえる。わたしには消費社会の画像が、わたしたちの感受性と理念に問いかけてくるものは、ボードリヤールがときに陥ちこんでいる退行による否定や欠如による否定とは似てもにつかぬものにおもえる。押しつけてくる肯定と、押しつけてくる格差の縮まり、平等への接近に、どんな精神の理念が対応を産みださなくてはならないか。ここではまったく未知のあたらしい課題が内在的に問われているとおもえる。〉

 ちょっと意味不明な部分はあるが、晩年ますます左翼嫌いになった吉本が、こんなふうにボードリヤールを全否定するのは、ちょっと悲しい。ぼくには、それほど消費社会や高度資本主義がすばらしいものとは思えないからである。それが大衆をばかにする左翼の感傷なのだといわれると、そうなのかなあと考えこんでしまうのだけれど……。
 1970年と1990年のあいだに、時代は大きく変化したのである。

nice!(14)  コメント(0) 

nice! 14

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント