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吉本隆明『共同幻想論』をめぐって(6) [われらの時代]

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[8月5日、八幡平にて] 
 神話の時間性は、つねに歴史が途絶えてしまう時間よりもはるかに遠隔を志向している、と吉本は書いている。
『古事記』を神話と読むことによって、吉本は日本における国家の起源に迫ろうとしていた。もちろん神話は実際の歴史ではなく、事実でも事件でもない。それは事実や事件の象徴であって、共同幻想のかたち(ゲシュタルト)を示したものである。
 国家の形成をさぐるさいに、吉本がもっとも着目するのが、アマテラスとスサノオの関係である。
 姉のアマテラスが高天原を統治する天つ神の象徴であるのにたいし、スサノオは農耕社会を支配する国つ神(しかも出雲系)の象徴と理解される。
 のちの大和政権からみれば、スサノオは二重の意味での反抗者にはちがいないのだが、それでもけっきょくは天つ神に服属する。それによって「〈姉妹〉と〈兄弟〉による〈共同幻想〉の天上的および現世的な分割支配」を実現させることになる。
 スサノオが高天原を追放され出雲に降りるのは、共同体の「原罪」、すなわち天つ罪を犯したからである。その原罪は、のちにつづく農耕民全体が(税として)背負わねばならぬものとして設定されることになる。
 スサノオは八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し、地元のクシナダヒメと結婚して、出雲を支配する。こうして出雲を農耕社会へと発展させるのだが、それはアマテラスの赦(ゆる)しを得てのことである。スサノオが天つ罪を犯したという事実は何ら帳消しにはならない。
 スサノオが犯した天つ罪とは何か。吉本はそれが「畔放ち、溝埋み、樋放ち[田の用水路を壊すこと]、頻蒔(しきま)き[穀物の重ね蒔き]、串刺し、生け剥ぎ、逆剥ぎ、屎戸(くそへ[神聖な場所に汚物をまきちらすこと])」であったことを指摘する。
『古事記』にしたがえば、この部分は次のようになる(吉本訳による)。

〈(高天原での神儀裁判に負けて逆上したスサノオは、自分が勝ったのだと言い張り)勝ちにまかせてアマテラスの耕作田の畔をこわし、その溝を埋め、また神食をたべる家に屎(くそ)をし散らした。そんなことをしても、アマテラスは咎めずに申すには「屎のようなのは酔って吐き散らすとてわたしの兄弟がしたのでしょう。また田の畔をこわし溝を埋めたのは、耕地が惜しいとおもってわが兄弟がしたのでしょう」と善く解釈して言ったが、なおその悪い振まいはやまなかった。アマテラスが清祓用のハタ織場にいて神衣を織らせているときに、そのハタ屋の頂に穴をあけて、斑馬を逆剥ぎにして剥ぎおとしたので、ハタ織女がこれをみておどろき梭(ひ)に陰部をつきさして死んでしまった。それゆえそこでアマテラスは忌みおそれて天の石屋戸をあけてそのなかに隠れてしまった。そこで高天の原はことごとく暗くなり、地上の国も闇にとざされた。これによって永久の夜がつづいた。〉

 おなじみの話だが、天つ罪が農耕や機織りなどにかかわる共同体の規範にたいする侵犯を指していたことがわかる。このことは、高天原が先進的な農耕共同体だったことを意味している。
 スサノオの乱暴は、機織り女の死という重大な事件を招いた。農耕共同体の規範を破ったスサノオは、物損を弁償するだけでなく、ヒゲを抜かれ、手足の爪をはがされて、高天原から追放される。
 だが、それだけではすまなかった。スサノオの罪は「原罪」のようなものとなって、スサノオの降りた出雲国にも覆いかぶさってくるのである。
 ここで、天つ罪がのちに大和朝廷になる共同体の法だとするなら、この列島には、出雲に代表されるような大和勢力以外の土着勢力が存在していたはずだ、と吉本は考えている。
 そして、前農耕的段階にある土着勢力もまた固有のプリミティブな法概念を有していた。それが「国つ罪」と称されるものである。
 その国つ罪とは、生膚断ち[傷害]、死膚断ち[死体損壊]、白人[白斑あるいはハンセン病]、こくみ[こぶ、あるいはくる病]、おのが母犯せる罪、おのが子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪[以上4つは近親相姦罪]、畜(けもの)犯せる罪[獣姦罪]、昆(は)ふ虫の災[毒蛇やサソリなどの災難]、高つ神の災[落雷]、高つ鳥の災[猛禽類による災難]、畜仆(けものたお)し蠱物(まじもの)する罪[家畜を殺して、他人に呪いをかける罪]、などなどである。
 こうしてみると、天つ罪よりも国つ罪のほうが、より原生的な罪であることがわかる。にもかかわらず、農耕にまつわる罪である天つ罪のほうが、自然的カテゴリーというべき国つ罪より上位にくるのは、なぜなのか。
 吉本自身は、前農耕的な氏族制のなかから部族的な共同性(前国家)が形成されていくにつれ、「しだいに〈天つ罪〉のカテゴリーに属する農耕社会法を〈共同幻想〉として抽出するにいたったことは容易に推定することができる」と慎重な言い方をしている。ただし、農耕規範的な天つ罪が共同規範として押しだされ、それまでの国つ罪が共同体の掟や習俗として継承される過程には、単なる移行ではなく、不連続的な飛躍があったはずだとも述べている。不連続的な飛躍とは、征服を意味するはずである。
 国家の成立にはかならず征服という契機がからんでいる。『古事記』でも、スサノオやヤマトタケルの英雄譚が、征服物語として展開されることは、だれもが知っているだろう。

 もうひとつ吉本が注目するのは、清祓(きよめはらい)の行為である。
 たとえば、黄泉の国から戻ってきたイザナギは筑紫の日向の原で、川にはいり、身を清めている。死(感染)のケガレをおとし、それによって生き返るのである(イザナギはこの清祓によって、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの3子を得る)。
 清祓は、対他的な関係から生じるケガレを、いわば罪と受け止め、それを洗い流そうとする宗教行為である。
 疫病や異変は、何かの神のたたりと意識され、新たな神社の建立に結びつくことになる。
 さらに時代がくだると、もともと清祓によって解消されるはずの罪が、法によって裁かれ、それによって一定の刑罰が科せられるようになる。
 宗教から法が分離されるようになる。その分離には、公権力を有する国家の成立がからんでいるはずだ、と吉本は考えている。
 国家の起源をさかのぼるのは難しい。
何千年も前の遠い先史時代にさかのぼるのはたしかだが、そのころの歴史資料や生活資料はごくかぎられている。
 とはいえ、共同体が国家とよばれるようになる段階においては、「村落社会の〈共同幻想〉がどんな意味でも血縁的な共同性から独立にあらわれたもの」になっているはずだ、と吉本はいう。最初の国家が氏族社会段階ではなく、部族国家のかたちをとっていたのはまちがいないだろう。
 3世紀末の『魏志倭人伝』には、この列島には100余りの国があり、そのうち30余りの国が大陸と交渉をもっていると記されている。
魏志にあらわれた倭の30国は、すくなくとも邪馬台国に従属していた、と吉本は指摘している。
邪馬台国を支配しているのは卑弥呼とよばれる女王であり、卑弥呼はシャーマン的な神権をもち、その弟が政治的な権力を掌握している。その支配部族は阿毎(アマ)姓を名乗っていた(アマ=天=海を連想させる)。
 応神くらいまでの初期天皇の和名をみると、ヒコとミミ、ワケという呼び名が多い。そのうちヒコとミミは、魏志の倭30国の官名として記載されたものだ、と吉本はいう。ヒコやミミ、ワケが国の権力最高位を指す名称であり、初期天皇はそれらの名称を踏襲していたと思われる。
 さらに吉本は『古事記』の応神記の記述から、「初期王権の本質は呪術宗教的な絶対権の世襲に権威があったとしかかんがえられず」、それは実際の統治とは別だったと論じている。
 天皇位を継承することは「政治的権力の即自的な掌握ではなく、宗教的な権威の継承によって政治的権力を神話によって統御することを意味した」というわけだ。
 こうした制度が変質するのは、7世紀はじめである。『隋書』には、倭王のシャーマン的な呪術性を漢帝が道理にかなっていないと批判し、それによって倭の制度が改められたことが記されているという(だが、ほんとうにそうだったかは疑わしい)。
 隋書の記載は推古朝に関連しており、このころにはすでに安定した政治体制が確立しており、刑罰を含め、法の整備もなされていることがうかがわれる。
 だが、倭国の様子を詳しく記述しているのは、むしろ3世紀の魏志のほうである。まだ邪馬台国の時代である。
 このころ倭の地域では、法を犯した者は、軽いと妻子を没収され、重いと一族と親族を滅せられた。租調がとりたてられ、国々には市が立ち、それを監督する者がいたことも記されている。
 吉本は、倭の30国が海辺に面した九州地方の国家だったろうと推測している。その漁夫たちは、水にもぐって魚や貝をとり、顔や体にいれずみをしていた。
 倭の人びとは、大人(首長)にはひざまずいて敬意をあらわし、下戸(庶民)は道で大人で会うと、草むらにかくれるようにし、何かしゃべるときは、うずくまったり、膝をついたりしていた。
 家屋内では、寝所は別々で、食事をするときには全員がひとつの部屋に集まった。婚姻については、大人はみな4、5人を妻としており、下戸でも2、3人妻がいる。奴碑もいたとされる。
 こうした倭の国家群(国家連合)の構造を、吉本は次のようにえがく。

〈いくつかの既知の国家群があるとそのなかに中心的な国家があり、そこでは宗教的な権力と権威と強制力を具現した女王がいて、この女王の《兄弟》が政治的な実権を掌握している。その王権のもとに官制があり主要な大官とそれを補佐する官人がある。この上層官僚は《ヒコ》と《ミミ》とか《ワケ》とかよばれて国政を担当している。……中心的な国家は連合している国家群におそらくは補佐的な副大官を派遣して各国家群の大官あるいは国王にたいし補佐と監視をかねている。〉

 ほとんど日本の近世にいたるまでの国家構造と変わらない。邪馬台国は日本の国家の原型をつくったといってよい。その王位の継承は、吉本によれば「宗教的あるいはシャーマン的な呪力の継承」という意味が強く、「政治的権力の掌握とは一応別個のものと考えられていた」。
 おそらく邪馬台国の段階はすでに先進的なもので、国家の始原からすれば、長い年数をへている。にもかかわらず、邪馬台国が日本の国家の原型をつくったと吉本はみている。
『古事記』の伝承は、時間的にみれば『魏志』よりもはるか昔にさかのぼる射程をもっている。それでもアマ氏の始祖と目されるアマテラスが呪術宗教的な威力をもちつつ、土俗的な水耕稲作部族の始祖と目されるスサノオに地上の政治権力を委ねるという構図は、邪馬台国にも受け継がれており、天皇制の本質にもどこかつながっている、と吉本はいう。
 論点はまだまだあるが、きりがないので、このあたりでやめておこう。
 おもしろい。しかし、あらためて読みなおして思うのは、なぜ1968年に出版されたこの本が、当時、大学生のあいだで猛烈に読まれたのか、いまとなっては首をひねるほかないということである。
 たぶん、あのころ、ぼくらは国家とぶつかっていたのだろう。そして、国家の解体学をめざしていた吉本に共感し、よくわからぬなりに『共同幻想論』を読んだのにちがいない。
 国家の解体には国家の消滅という意味合いが含まれていたのかもしれないが、かならずしもそうではない。『解体新書』というネーミングを踏襲すれば、それは国家の解剖学を意味していたはずである。
 国家はあやしい。何をしでかすかわからない。とりわけ社会主義国家なるものは、いちばんあやしい。その国家のばらまく共同幻想にたいし、われわれは自覚的でなければならない。
 とはいえ、われわれは共同幻想をまぬかれない。共同幻想のなかを生きているのだ。だから、せめてそのことを自覚し、遠くをみつめて、日々を歩むほかない。
 あのころ、ぼくらは現存する国家を超える思想を吉本に求めていたのかもしれない。吉本に答えはなかった。その答えはそれぞれ各自がみつけださなければならなかった。

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