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豊かな社会の到来──ホブズボーム『20世紀の歴史』をかじってみる(3) [われらの時代]

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[94歳のホブズボーム]
 先日、図書館でちくま学芸文庫にはいっているホブズボームの『20世紀の歴史』を借りてみた。いずれにせよ翻訳物はなかなか頭にはいらないのだが、これも相当な代物だった。それで、けっきょく引きつづき手元の三省堂版を読み進めることにした。
 きょう読んでみるのは、第Ⅱ部「黄金時代」の第9章「黄金の歳月」。社会主義が資本主義に敗れ去ることになる核心がここに描かれている。ホブズボームはあくまでも冷静な記述に徹している。
 先進国の人びとが、戦後の四半世紀は黄金の歳月だったと気づいたのは、1970年代の波乱の時代、1980年代の悪夢の時代を迎えてからだ、とホブズボームは記している。
 だが、その黄金期は国によってばらつきがある。戦争の被害を受けなかったアメリカが1950年には西ヨーロッパ諸国や日本にくらべ圧倒的な経済力を誇っていたことはいうまでもない。
 ヨーロッパ諸国や日本にとっては、戦争からの復興が最優先課題だった。復興に多少時間がかかった西ドイツと日本を別にして、1950年にはほとんどの国が戦前の経済水準をとりもどしていた。そして、1960年代にはいると先進諸国はこれまでにない繁栄ぶりを謳歌するようになる。
 経済成長率が高かったのは資本主義諸国だけではない。すくなくとも1950年代終わりまでは、ソ連の経済発展もめざましかった。中国はともかくとして、第三世界でも食糧生産が増え、人口が増加していた。だが、1960年代以降は、豊かな世界と貧しい世界との経済格差が広がっていく。
 世界経済は爆発的な勢いで成長していた。世界の工業製品の生産は、1950年代はじめから70年代はじめにかけ4倍となり、工業製品の世界貿易は10倍になった。農業の生産性も高まり、農業生産高は倍以上になっている。だが、経済発展にともない汚染と環境悪化も進んでいく。都市化の進展は、都市の乱開発を生んだ。
 工業化と都市化は、化石燃料の使用増加を抜きには語れない。化石燃料は使い尽くされる心配よりも早く、つぎつぎと新しい資源が発見されていった。1950年から73年にかけて、石油価格は1バレル=2ドル以下という安さを保っていた。そのことが工業化や生活向上に寄与しただけでなく、自動車社会の到来を促進することにもなる。
 世界の経済発展がアメリカをモデルにしたものであることを、ホブズボームは否定しない。「世界的大好況の大部分は、こうしてアメリカに追いつくことであり、アメリカでは古い傾向の継続であった」
自動車産業からジャンク・フード、観光にいたるまで、資本がターゲットにしているのは大衆市場だった。この時代、かつては高価だった冷蔵庫、洗濯機、電話なども安価になり、誰でもが容易に手にはいるようになった。
 技術革命によって、新製品も生まれた。プラスチック製品、ナイロン、ポリエチレン、テレビ、磁気テープ、その他エレクトロニクス商品、トランジスター、コンピューターなどなど、数えたらきりがない。
 こうした新技術とそれにもとづく新商品が、世界の日常生活を一変させていったのだ。何もかもが便利で、これまでできなかったこともできるようになった。新しいとは、単によいだけではなく、革命的変化を意味していた、とホブズボームはいう。
 経済成長の中心を担ったのが「研究と開発」である。「技術革新はきわめて経済的な過程でもあり、新製品を開発する費用が生産費の中でますます大きな、そして不可欠の部分を占めるようになった」
 新しい技術は、圧倒的に資本集約的で労働節約的だった。ということは不断の投資が必要で、労働力はあまり必要としないということでもあった。しかし、経済が速く成長したために、労働力は不足気味で、そのため農民や移民に加え、既婚女性までが労働力市場に加わっていくことになる。
 資本主義を悩ませていた好況と不況の循環は、賢明なマクロ経済管理によって、いまや穏やかな経済発展軌道に変わった。先進国では大量失業はどこにもなかった。労働者の所得は上昇し、福祉国家のもと医療や老後の保障も得られるようになった。
 資本主義が「大躍進」を果たしたのは、アメリカという先進モデルがあったためだけではない。資本主義の改革に加え、経済のグローバル化が実現されたからだ、とホブズボームはいう。
 資本主義は、いまや「混合経済」体制になっていた。すなわち市場経済をベースにして、国家が経済を計画し、管理する体制である。新しい資本主義の目標は、完全雇用の実現と、経済的不平等の軽減、福祉と社会保障、市場の民主化(大衆消費市場の実現)だった。
 経済のグローバル化は、国際分業と貿易を促進した。先進工業国は輸入工業製品を代替的に生産しながら自国の工業生産力を高め、世界に乗り出していった。
 技術の移転にも注目しなければならない。古い技術は、次第に途上国へと移転されていく。石油と内燃機関の工業技術はアメリカからヨーロッパや日本に移転し、その工業化を支えた。化学と薬学の分野が第三世界に与えた衝撃は大きかった。それにより人口爆発が生じたからである。さらに情報技術と遺伝子工学は、その後の世界に大きな変化をもたらしていく。
 戦後資本主義はこれまでとはみちがえるものになっていた。ホブズボームにいわせれば、それは経済的自由主義と社会民主主義、それに経済計画を組み合わせた体制だった。
 経済再建計画は早くから練られていた。生産の増加と貿易の拡大、完全雇用、工業化、近代化はだれもが望むところだった。市場経済と雇用を維持しながら政府の統制と管理を強化するというケインズ的な方向は、社会民主主義の考え方とも一致していた。
 戦後の国際的経済制度に関しては、「多くのアイデアと提案はイギリスから出たが、行動への政治的圧力をかけたのはワシントンである」とホブズボームは書いている。
 いずれにせよ、ケインズなどの提案したアイデアのなかから、国際通貨基金(IMF)と世界銀行の構想がまとまった。この二つの制度の目的は、長期的な国際投資を増進し、為替の安定性を維持し、国際収支問題に対処することだった。さらにこれに加えて、貿易障壁を徐々に削減していくために、関税と貿易に関する一般協定(GATT)が結ばれた。
 これらの制度は、ドルによる経済支配と結びついていた。その体制が崩れるのは1970年代はじめになってからである。しかし、そのときまでアメリカを中心に資本主義世界経済は発展した。
 とはいえ、ホブズボームによれば、「黄金時代の世界経済は、超国家的(トランスナショナル)というよりもまだ国家間的(インターナショナル)であった」。
 経済活動が国家の枠を超えることはなかった。経済が国家の枠を超えるようになるのは、1970年以降である。
 多国籍企業が登場し、タックス・ヘイブンが生まれた。多国籍企業は「国境を越えて市場を内部化」することで、国家から独立した動きをみせるようになる。新しい国際分業が古い国際分業を掘り崩しはじめた。
 1970年代には、繊維製品や紙製品、エレクトロニクス、デジタル時計などの生産は発展途上国に移っていた。部品製造と組み立てを、世界の別々の地域でおこない、それを本社センターで管理する仕組みも誕生した。
 工場が高コストの場所から安い労働力のある場所に移っていくのは自然なことだった。こうして、ケインズ的な結合(経済成長と大量消費、高賃金、労働者保護、労働生産性の増大)は次第に崩れていく。それが黄金時代の終わりをもたらした。
 福祉国家を実現した先進国の黄金時代は、穏健左派が政治のヘゲモニーを握っていた時代でもある。1968年には、突如学生運動が噴出した。黄金時代が疲弊のきざしをみせはじめたのはそのころだ。アメリカの覇権は衰え、世界通貨体制は崩壊しようとしていた。
 だが、学生叛乱は政治的・経済的現象ではなく、一過性の文化現象にすぎなかった、とホブズボームはいう。
「1968年は、終わりでも始まりでもなく、一つの兆候でしかなかった」。経済体制が過熱していたことはまちがいない。しかし、1929年のような破局の予兆はなかった。
 それが1973年の石油ショックと、それに引きつづく大不況につながるとはだれも予想していなかった。そして、これ以降、世界経済は地すべりをおこし、大きく変化していくのである。

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