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大きな社会変化──ホブズボーム『20世紀の歴史』をかじってみる(4) [われらの時代]

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 翻訳書では、ここから下巻にはいる。第10章は「社会革命1945年−90年」、第11章は「文化革命」と題されている。
 今回は、この2章を読んでみることにする。
 第二次大戦後、社会や文化は大きく変化した。その変化をホブズボームがどのようにとらえているかが、この2章の課題である。
「20世紀後半のもっとも劇的で広範囲な社会的変化、われわれを過去の世界から切り離している変化は、農民層の死滅であった」と、ホブズボームは書いている。
 死滅というのは大げさすぎるにしても、戦後、農業人口の割合が激減したのはたしかである。日本でも1947年に全労働人口の52.4%あった農業人口の割合が85年には9%まで減少している。それはアメリカや西ヨーロッパでも同じだった。農業人口の減少は先進国にかぎらない。ラテンアメリカでも、中東や北アフリカでも、社会主義圏の東欧でも、農業人口の割合は半減している。
 1980年になっても、農業人口が多数を占めている国は、中東ではトルコ、サハラ以南のアフリカくらいだったという。それまで農民が大多数だったインド、東南アジア、中国でも、その割合は人口の半数を割り込もうとしていた。
 農業人口が減ったのは、農業でも資本集約的生産性が増大したためといってよい。言い換えれば、機械化農業が発展し、加えて農業化学やバイオテクロロジー、選択的繁殖技術が導入され、農業はそれまでのように数多くの人手を必要としなくなった。
 1960年代の「緑の革命」は、世界の貧しい地域に灌漑と科学的農法を導入した。これにより穀物の増産が実現され、第三世界も人口増に対応できるようになった。いっぽう、食糧を自給するためというより、むしろ先進国市場向けの輸出用作物に重点を置く農業も増えてきた。
 農村に人が減ると、都市に人があふれる。「20世紀後半の世界は、かつてなく都市化された」と、ホブズボームはいう。1980年代半ばには、世界人口の42%が都市に住むようになっていた。
 都市はふくれあがる。だが、次第に巨大都市の中心部、ビジネス街や官庁街は、夜間にはむしろ人口が減って、人びとは郊外や都市周辺に住み、スプロール化が進むようになった。
 先進世界の都市では、道路網が張りめぐらされ、鉄道や地下鉄が発達し、中心部に高層ビルが建てられ、周辺部にはショッピングセンターやレジャー施設がつくられていく。
 これにたいし、第三世界の都市は、分散化することなく、いわば村の集合体として、膨れあがっていった。使われていない空き地があれば、いつのまにか不法占拠者の集団が住みついていた。
 いずれにせよ、20世紀後半には、都市問題が大きな課題となっていった。

 ホブズボームは、次に戦後の変化として、大衆教育の充実を挙げる。
 戦後は中等教育、高等教育への要求が高まり、実際、教育を受ける人の割合が増えていった。ホブズボームは、1968年に学生の叛乱が世界的に広がったのも、そのことと無関係ではないと述べている。
 親たちが可能なかぎり、子どもたちを学校に進ませたのは、かれらによりよい所得と高い地位を得させるためだった。世界的な好況によって、ごくふつうの家庭でも、子どもを大学に進学させることが可能になった。
 1970年代を通して、世界の大学の数は2倍になっている。何百万もの大学生(日本は1950年に32万、1968年に185万、2000年に270万)が大学都市や大学構内に集まり、ひとつの文化的、政治的勢力を形成するようになった。
 1968年は、かれらが政治的に爆発した年である。だが、それは革命には結びつかなかった、とホブズボームはいう。学生の叛乱はほとんど労働運動と結びつかず──「プロレタリア大衆の念頭に革命はまるでなかった」──、大きな政治的影響力ももたなかった。そして、一部の急進派は小集団テロリズムで革命をおこそうとして、手早く排除されていった。
 学生たちはなぜ左翼的急進主義を選んだのだろう。ひとつに、若者が伝統的に激しい気力、暴動と無秩序、革命的情熱の発生源だったことがある。もうひとつは、この時期に大学生が爆発的に増大したことがあげられる。大学はこうしたなだれ込んでくる学生に組織的にも知的にも対応する準備ができておらず、そのため緊張が生じた。ベトナム戦争への反対、古くさい政治体制、その他の問題も多少の影響を与えたかもしれない。
 そんなふうにホブズボームは解釈している。
 学生運動の暴発は世界的大好況の絶頂において生じた。かれらは以前の世代よりずっとめぐまれているはずだという批判は、かれらにとって意味をなさなかった。若者たちの不満は、この社会のあり方自体に向けられていたからだ、ともホブズボームは記している。

 もうひとつの大きな変化。それは1980年代にはいって、産業労働者の人口が顕著に減りはじめたことだ。生産技術の革新が、人間労働力を節約する方向にはたらいていったことがひとつの原因である。
 黄金時代には、産業労働者の割合は就労人口の3分の1を占めていた。それが1980年代、90年代になると縮小していった。
 19世紀、20世紀初頭の古い産業は没落した。いまや「アメリカの鉄鋼業の従業員は、マクドナルドのハンバーガー・レストランの従業員よりも少ない」とホブズボームは書いている。
 繊維、衣服、靴などの軽工業は新興国に移動した。鉄鋼業や造船業などの重工業も、古い産業国ではほとんど消滅し、かつての工業地帯は「ラスト(赤さび)ベルト」と化した。
 1970年代、80年代に経済危機が深まると、かつてのように産業は拡大せず、労働節約的な技術が導入されても労働力が増えていた時代は終わった。「労働者階級は目に見えて新しい技術の犠牲になった」。大量生産ラインの単純労働者は、自動機械に置き換えられていった。
 1980年代末になると、製造業に雇用される労働者の割合は、全民間雇用の4分の1程度となり、アメリカでは20%以下になった。とうぜん労働運動は弱体化していく。だが、問題はむしろ数よりも質、すなわち労働者の意識の変化だった、とホブズボームはいう。
 20世紀の終わりに向かい、旧来の労働者階級は分解していく。もともと労働者階級の収入はホワイトカラーや中産階級よりも少なかったが、かれらにはそれなりのプライドや生活スタイルもあって、集団として団結していた。しかし、戦後の黄金期をへて、労働者の生活も変わっていった。「繁栄と私生活化が、貧困と公共の場での集団性が結合させていたものを切り離したのである」
 労働者はいまや贅沢品の買い手であり、車やテレビ、カメラの所有者でもあった。完全雇用と消費社会が、労働者に自分たちの父親よりも豊かな生活、必需品以外も買うことのできる生活をもたらしていたのだ。
 さらに、1980年代にはいると、労働者階級は、ハイテク技術に対応する豊かな労働者と、最底辺の労働者に分解し、労働者間の格差が広がっていく。
 技術労働者は政治的保守派を支持するようになる。伝統的な社会主義組織は、富の再分配と福祉を支持していたが、上層の労働者はもはやその政策を支持しない。ホブズボームによれば「イギリスのサッチャー政権が成功したのは、本質的には熟練労働者が労働党を離れたからであった」。
 19世紀には大量の移民労働者が労働者階級を分断することはなかった。移民の多くはそれなりの自分たちの居場所をみつけ、社会に適応していった。しかし、戦後の移民はもっぱら労働力不足に対応するため、政府主導でおこなわれ、労働者のあいだで、さまざまなあつれきを生むことになった。

 女性、とりわけ既婚女性が労働の場に進出したことも、労働者階級に大きな影響をもたらした、とホブズボームはいう。働く既婚女性の割合は、アメリカでは1940年に14%以下だったのに1980年には半分を超えている。
 先進国で女性労働力を吸収していったのは、とりわけ第三次産業である。新興工業国でも、製造業の飛び地で、女性労働力が求められていた。
 高等教育を受ける女性も増えていった。いまや大学教育は男子よりも女子のあいだに広がっているほどだ。1960年代以降の女性解放運動を支えたのは、既婚女性の職場進出と、女子への高等教育の普及だった、とホブズボームは分析する。
 選挙のおこなわれているほとんどの国で、女性は1960年代までに参政権を獲得している。女性はいまやかつてなく大きな政治勢力となった。女性の公的役割が変化し、多くの女性が国の指導的立場を担うようになった。
 それでも女性の置かれた地位は、国によってさまざまである。旧社会主義世界では、すべての女性は仕事についていたが、政治の指導的な場からはしめだされていた。しかも、ホブズボームによると、「たいていのソ連の既婚女性は……西欧の女性の権利擁護論者とは逆に、家庭にいて家事だけをするという贅沢にあこがれていた」という。
 男性支配の制度と慣習を変えようとした革命は、ソ連でも途上国でも、たいていが夢のままで終わった。むしろ1930年代のソ連は、女性を子どもを産む存在と位置づけ、計画的出産を推進する反動的な時代だった。
 社会主義世界は女性の権利のための運動を生みださなかった。それどころか、そもそも1980年代以前は国家と党の支持していない政治的な動きが禁じられていたのだ。
 フェミニズムに先鞭をつけたのはアメリカである。1980年代にはいると、女性たちはオフィスや知的職業でも、大きな割合を占めるようになった。
 既婚女性が働くようになったのは、児童労働が消滅したからである。そのため、長い期間にわたって、両親は長いあいだ子どもを養わなくてはならなかった。女性が働きにでるようになったのは、そのためでもある。
 とはいえ、中流家庭にとっては、女性が働いたからといって、家族の所得を大きく増やすことにはならなかっただろう。問題は所得よりも、自由と自立の要求だった。女性が外で働くのは解放的な要素がからんでいた。そのことが結婚や生活のスタイルにも大きな変化をもたらすことになる。

 第11章にはいろう。
 戦後の大きな変化は家族や世代関係にもあらわれている、とホブズボームは書いている。
 伝統的な家族関係は、結婚という制度、家庭での夫の優位、両親による子どもの養育、数人からなる世帯の形成、年長世代への敬意、つながりの深い親族・血縁関係によって成り立っていた。だが、20世紀後半には、この関係が変化してきたという。
 ひとつは離婚が増えたことである。ホブズボームによると、イングランドでは1960年と1980年のあいだにイングランドの離婚率は3倍になった。その傾向は先進国ではどこも同じだという。
 もうひとつは一人住まいが増えたことである。結婚しない人が増加している。
さらに伝統的な核家族が減っていることがあげられる。1980年代半ばに、スウェーデンでは、全出産数の約半分は未婚女性によるものだったという。1991年、アメリカの黒人世帯では、半数以上が単身の母親が世帯主となっていた。
 家族のかたちが変化しはじめたのは1960年代、70年代だった。アメリカでもイギリスでも同性愛行為は1960年代に合法化されている。イタリアでは1970年に離婚が合法化、1978年に中絶が合法化され、ともに国民投票で確認されている。
 家族関係が変化した背景には、若者文化の台頭がある、とホブズボームはみる。映画、音楽、ファッション、スポーツなどなど、これらをすべて若者が引っぱっていた。しかも若者は購買力のかたまりでもあり、コンピューター文化の先導者でもあった。世代の役割は逆転した。子どもはもはや両親の知らないことを知っていた。
 若者文化の国際性にも注目しなければならない。ロック・ミュージックは社会主義圏を含め、世界を席巻した。映画やテレビ、ラジオ、レコードなどを通じて、地球規模の若者文化が成立した。これは20世紀後半まではみられないことだった、とホブズボームはいう。
 1925年前後に生まれた世代と1950年前後に生まれた世代とのあいだには、大きな歴史的ギャップがあった。若者たちは過去から切断された社会に生きていた。年長者はこうした若者を理解できなかったし、若者たちは1930年代の経験を理解できなかった。世代間の断絶が生まれた。
 若者文化は文化革命の土台となった。それは民衆的で、規則にこだわらない文化を生みだした。初期のハリウッド映画には中流階級的な上品な規制がかけられていたが、そうした規制は次第にとりはずされていく。パリの五月革命は「禁止することは禁止されている」という標語を生みだした。すべての人びとが、外からの制約を受けずに「自分自身のことをする」ようになった、とホブズボームはいう。
 私的な解放と政治的な解放が手を携えて進んだ。外部のきずなを断つ、もっとも安直な方法は性と麻薬だった。同性愛文化やマリファナの吸引も広がっていく。絶対的個人主義のもと、個々人がそれぞれの願望を追求する風潮が生まれ、それを大衆消費社会(裏ビジネスを含め)が支える構図ができあがった。
 古い社会的組織と慣行は挑戦を受けた。人びとはさらなる平等を求めるようになった。新しい個人主義が誕生する。教会のミサに行く人びとの数は少なくなり、伝統的な家族のきずなも緩んだ。権利と義務、相互の責任、罪と罰、犠牲、良心といった古い道徳は、欲望の充足を願う行動を前にしてかすんでいった。
 かつての地図は役に立たなくなり、不確実性と予測不可能性が世界をおおうようになる。こうして、極端な自由市場的自由主義が横行するようになった。
 絶対的自由主義のもとに、共同体と家族は急速に解体されていった。1980年代になると、そのあとに「下層階級」という無気味なことばが登場する。ホブズボームによれば、「下層階級」とは先進的な市場経済諸国において、じゅうぶんに暮らしていけない人びとのことを指している。
「三分の二社会」という言い方も生まれた。市場経済は国民の三分の二しか満たすことができず、あとの三分の一はそこから取り残されてしまうというわけである。
 ホブズボームは、資本主義の発展が、いまや古い価値体系や習慣、一般通念までをも破壊し、いわば市場万能のもとにホッブズ的ジャングルをつくりだしていると批判し、こんなふうに書いている。

〈20世紀最後の3分の1に生じた文化革命は、資本主義の歴史的な相続財産を崩し始めた。そして、そのような資産なしに資本主義を運営することがいかに困難であるかを証明し始めた。1970年代、80年代に流行した新自由主義の歴史的な皮肉は、それが共産主義政権の廃墟を見下し、勝ち誇ったまさにその瞬間に、それ自身が以前ほどにもっともらしい理論とは思えなくなったことであった。市場は、それがいかに裸で不じゅうぶんであるかをもはや隠しきれなくなった時に、勝利を唱えたのである。〉

 資本主義はみずからの養分としての社会や文化を破壊しながら成長しつづけたが、気がつくと、そのあとには裸の個がたたずむ荒野が残されていた。資本主義はもはや発展の土壌を見失ってしまったのだ。20世紀の終わりに共産主義政権を打ち破り、勝ち誇った資本主義は、すでにみずからの墓穴を掘りはじめている、とホブズボームは見ている。
 こうした見方が正しいかどうかはわからない。どこか違和感もある。早々と結論を下す前に、さらに先を読んでみよう。


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