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第三世界の流動──ホブズボーム『20世紀の歴史』をかじってみる(5) [われらの時代]

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 引きつづき、ホブズボームから。
 ここでは、いちおう戦後世界を3つのカテゴリーに分類したうえで、話が進められている。
 第二次大戦後、第三世界では脱植民地化と革命、それに人口爆発が生じた。これにより、世界人口は1950年以降の40年間に倍増する。医学と薬学の進歩が、幼児死亡率を急速に低下させていた。人口問題は貧困問題ともつながっており、インドや中国の政府はつねに出産制限や家族制限を国民に強要していた。
 植民地後の新国家に求められたのはどのような体制を採用するかであり、多くの国が旧宗主国の政治体制を選んだものの、少なからぬ国がソ連をモデルとし、人民民主主義共和国を名乗ることになった。しかし、いずれにせよ、そのどれもが権威主義的な国家であり、1980年代には軍事クーデターがおきて、軍事政権が増えていく。
 軍事クーデターによる政権転覆は、意外と新しい時代の産物だ、とホブズボームはいう。それまで軍人は必要以上に政治に介入することはなかったが、地球上に200以上国ができると、状況が変わってくる。
 第三世界では軍事政権が成立しやすく、とりわけ混迷と混乱をきわめるアフリカの国では、しばしば軍事クーデターが発生した。それは不安定と危険に左右される政治を生み落とした。
 野心的な国々は、中央計画型のソ連モデル、あるいは輸入代替政策によって、後進的な農業国から脱し、体系的な工業化を実現しようとした。とりわけ重要なのは石油であって、石油をもつ国は、その資源を自国で支配し、開発しようとした。欧米の私企業が支配していた石油産業を国有化することによって、外国企業にたいし優位に立つことができるようになった。
 経済計画を立てるうえで、問題は熟練と経験のある専門家がいないこと、経済近代化に向けての知識と民衆の共感がないことだった。そのため新興国による工業化目標は、しばしば裏づけのないものとなり、おうおうにして大失敗を招くことになった。闇経済が繁栄し、腐敗がはびこる。あげくのはてに生存を支える農業は無視されていた、とホブズボームは書いている。
 とはいえブラジルやメキシコなどの新興工業諸国は、1970年代以降、一時、7%の年間成長率を記録していた。輸入代替政策による工業化が、政府の公共支出とあいまって、国内の高度の需要を支えていたのだ。計画化と国家の主導は欠かせなかった。問題はそれが適切だったかどうかということである。
 しかし、第三世界に暮らす人びとにとって、問題は国家の発展よりも、農業や牧畜を営む自分たちの暮らしだった。ところがアジアでもアフリカでも、農民のくらしはかえっていっそう貧しくなった。沿岸と内陸部、都市と僻地では、くらし向きがまるでちがっていたのだ。
 政府が近代化を推し進めるにつれ、内陸部と僻地は沿岸と都市によって支配されることになった。政治もまた、読み書きができる者たちによって運用されていた。教育は文字どおり権力を意味した。教育を受けた者は公務員としての地位を保証されたからである。
 南アメリカでは、知識への渇望が1950年以降、村から都市への大量移民を引き起こした。都市に行って自動車の運転をならえば、救急車の運転手に雇われる可能性もあった。
 しかし、中南米では、最大の課題は何よりも農地改革だった。大土地所有を解体して農民と土地のない労働者に再分配することが求められていた。さらには地代の削減や小作制度の改善をはじめ、土地の国有化と集団化にいたるまで、政策の幅はいくつもあった。
 第二次大戦後は、世界中が農地改革を経験した時代である。中国では共産主義型の農地改革がおこなわれた。日本、台湾、韓国でも農地改革が実施された。中東では1952年のエジプト革命にならって、イラクやシリア、アルジェリアが農地改革をおこなっている。中南米では農地改革はかけ声倒れに終わることが多く、キューバ革命によってようやく本格的な農地改革が実施された、とホブズボームはいう。
 荘園やプランテーション、ソ連型の国営農場の場合とちがい、一般に農業改革は農民の潜在的な生産力を引きだすことができた。インドのパンジャブ地方では、企業家精神に富んだ農民が国際的な商品作物を生みだしている。
 しかし、農地改革への要求は、生産性よりも平等にもとづいていた。1970年代において、所得の不平等は中南米がいちばん高く、ついでアフリカだったが、アジア諸国は低かった。所得分配の不平等は、国内市場の発展を遅らせがちだった。
 中南米の農地改革で、インディオたちはかつて奪われた土地を取り返し、そこをふたたび共有地とした。だが、大農場制度が崩壊したあと、その土地は新たな農業組織として活用されることはなく、農業発展をもたらすことはなかった。
 ここでホブズボームは、あらためて「第三世界」の意味を問うている。第三世界は1950年代はじめにつくられた概念で、先進資本主義国の「第一世界」と共産主義諸国の「第二世界」と対比するための用語だった。インドとパプアニューギニア、エジプトとガボンをまとめて「第三世界」とするのはあきらかにおかしいが、それでもこれらの国々がかつて古い帝国主義的な工業世界に従属し、いまや新しい国家として発展しようとしているという点では、「第三世界」という言い方にもそれなりに意味がある、とホブズボームは書いている。
 こうした第三世界のなかから生まれたのが「非同盟」運動だった。1955年にインドネシアのバンドンで開かれた国際会議に集まったインド、エジプト、中国、インドネシアの指導者たちは、多少なりとも社会主義的であり、資本主義とは異なる独自の道を歩もうとしていた。だが、ただちにアメリカは反撃に出て、反ソ軍事体制として、東南アジア条約機構(SEATO)や中央条約機構(CENTO)をつくって、反共の砦を築き上げた。非同盟運動は宙に浮いてしまう。
 だが、たとえ対ソブロックがつくられたとしても、帝国崩壊後の世界には、冷戦とは関係なく、紛争の種が残っていた。インド亜大陸では1962年と65年に中印戦争、1971年にインド・パキスタン戦争が発生する。そして中東は常に不安定で、ほとんどあらゆる地域で紛争が生じた。なかでもイスラエルが動乱の中心原因だった。アフリカも紛争の地だった。
 これらの紛争は、本質的には冷戦と無関係だった、とホブズボームはいう。言い換えれば冷戦が終わっても、問題は少しも解決しなかったのである。
 中南米はキューバ革命がおこるまで、国際紛争から切り離されていた。中南米は、いくつかの飛び地を別とすれば、早くから植民地を脱し、言語的にも宗教的にも西欧化していた。大量の白人移民が住む地域を除いて、人種通婚が進み、ほんものの原住民はほとんどいなくなっており、純粋の白人もいなくなっていた。基本的に人種政治や人種ナショナリズムとは無縁の地域だったという。
 1948年に米州機構(OAS)がつくられ、中南米諸国は政治的にも経済的にもアメリカにしたがう姿勢を保っていた。それがキューバ革命以降、様相が変わってくるのである。
 とはいえ、第三世界の概念は1970年代にはいるころから崩れていった。経済発展を遂げる国が出てきたためである。人口の少ない石油産出国の場合は、1人あたりGNPがアメリカを超えるほどになった。香港、シンガポール、台湾、韓国は急速に発展していた。インドやブラジルなどの成長も著しかった。
 新国際分業によって、古い工業はいまや新興工業国に移転されつつあった。それが加速されたのは、とりわけ1973年以降の20年間においてである。
 こうして第三世界は、繁栄する国と中位の国、それに最貧国へと分岐していくことになった。とりわけ冷戦が終わって経済援助がもらえなくなったアフリカの国々は貧困におちいり、ソマリアのように戦場と化す国もでてくる。
 第三世界のうちには観光産業が盛んになる国もあれば、豊かな国々へ労働移民をだす国もでてくる。チュニジア、モロッコ、アルジェリアからはフランスへの移民、中南米からは多くの人がアメリカに移住していた。石油産出国への移民も盛んだった。だが、やがてこうした流れは、先進国における移民締めだしの動きへとつながっていく。
 第三世界を分断し、混乱させたのは、世界経済の発展だけではなかった。イスラム世界では、原理主義運動や伝統主義的な運動が巻き起ころうとしていた。
 第三世界の大都市は変化のるつぼになっていた。そして、その現代的な風潮はいなかにも広がっていった。コロンビアの国境地帯は、ボリビアとペルーのコカを運ぶ中継基地、それをコカインに加工する工場の所在地になった。
 都市の文明が地方のくらしを一変させようとしていた。農村の経済は都市への出稼ぎによっても支えられていた。そうした地下経済によって、南アフリカの黒人居住地(ホームランド)や南米高地の共同社会はようやく維持されていたのである。
 何はともあれ、大きな社会的転換が、第三世界のかつての生活を不安定と混乱におとしいれていた。

〈それは、二つの社会的転換に根ざしていた。社会秩序がばらばらになってしまった村落における深刻なアイデンティティの危機と、高度の教育を受けた若者たちの大衆的社会層としての登場である。村々は内と外への移住で性質を変え、現金経済のもたらした貧富の差で分断され、教育による社会的上昇の不均等さによる不安定に悩まされ、人々を隔ててはいたがそれぞれの社会的立場についての疑いを残さなかったカーストと身分という物理的、言語的な区別のしるしがぼやけていき、こうして人々は当然に彼らの共同社会についれの不安の中で生きていた。〉

 ホブズボームは「第三世界には、社会的転換の政治的結果をまったく予見できない広大な領域があった」し、そこには、不安定で、引火性の高い世界が広がっていたと論じている。

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