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ソ連型社会主義──ホブズボーム『20世紀の歴史』をかじってみる(6) [われらの時代]

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 引きつづき、ホブズボームのまとめである。
 第二次大戦に参戦したソ連の勢力範囲は、1945年にはエルベ川からアドリア海を結ぶ東の領域、バルカン半島全域にまで拡大した。いまやポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニア、それに東ドイツまでもが社会主義圏にはいっていた。さらに1945年には朝鮮北部、1949年には中国、それから長い戦争を経てベトナム、ラオス、カンボジア、1959年にはキューバ、1970年代にはアフリカへと社会主義の勢力圏は広がっていく。
 第二次大戦以前、ソ連は孤立していた。
 レーニン自身は、ロシア革命は世界革命の口火にすぎず、やがてドイツでも革命がおこるものと信じていた。だが、そうはならなかった。そのため、ソ連は閉鎖的な小宇宙を形成せざるを得なかった。
 レーニンの前には、後進的な農業国であるロシアをいかに先進的な工業国に発展させるかという課題が残されていた。そのため、こころみられたのが、中央集権的な国家経済計画である。
 マルクスとエンゲルスは、資本主義に代わる経済のあり方を、ほとんど論じていない。内戦の危機に直面したレーニンは、社会主義政権を守るために、みずから政策を打ちださなくてはならなかった。こうして1918年半ばには全産業が国有化され、さらに「戦時共産主義」政策が打ちだされる。
 内戦に勝つためには、資源調達の計画と統制は必至だった。理論家のブハーリンなどは、これを機に市場を廃止して、必需品を人民に現物で配給するシステムを構想した。だが、配給制はあくまでも臨時の措置であり、それが長くつづかないのはいうまでもなかった。
 レーニンはそこで1921年に新経済政策(NEP)を導入することになる。それはレーニンにいわせれば、戦時共産主義から国家資本主義への後退にちがいなかったが、市場経済の部分的導入は、多少なりとも経済の疲弊を回復する効果をもたらした。
 NEPは成功して、ソヴィエト経済は1920年の荒廃状態から抜けだした。だが、その時点でもソ連は圧倒的に農村社会であり、このままNEPをつづけていても、長期的な経済成長は望めそうになかった。
 国家による強制と統制が求められた。そこで経済計画がつくられ、中央集権化された指令経済が実施されることになる。病死したレーニンに代わって、それを担ったのが、残忍で無慈悲なスターリンだった。
スターリン体制は、農民をふたたび農奴に変え、400万から1300万人の囚人労働力を経済の重要部分にあてた、とホブズボームは評している。
 1928年の5カ年計画は、石炭、鉄と鉄鋼、電気、石油などの産業をつくること自体に重点を置いた。それは上からの命令に応えて、「突撃」作業で達成された。
 しかし、「命令による工業化が多くの浪費と非能率をともないながらも目覚ましい成果をあげ」、それによって、ともかくもソ連はドイツとの戦争で生き延びることができた、とホブズボームはいう。
 もうひとつ忘れてはならないのは、ソヴィエト体制が、少なくとも住民に最低限のものを保障していたことである。最低限とはいえ、仕事、食物、衣服、住宅、年金、健康保険、教育は保障されていた。のちにノーメンクラトゥーラと呼ばれる特権階級が発生するものの、ソヴィエト社会は、基本的に平等だった。
 しかし、農民は別だった。農民は労働者と区別されていた。農業の集団化は大失敗に終わった。穀物生産は低下し、家畜は半減し、1932年から翌年にかけては大飢饉が発生した。
その後もソ連の農業は低迷し、1970年代はじめでも、穀物の4分の1を輸入に頼らなければならないほどだったという。かろうじて、ソ連の農業が破滅を免れたのは1938年以降、わずかながら農民に私有地が認められたからである。
 さらに、ソ連体制の欠陥について、ホブズボームは過度の官僚制と体制自体の硬直化を挙げている。消費財にたいする資本財の優位は変わらず、分配システムは劣悪だった。何よりも工業化が優先されていたのだ。
 ホブズボームによれば、ソ連の政治体制は、ヨーロッパの左翼の伝統とは異なり、きわめて特異なものだった。民主主義はうわべだけで、命令による政治があたりまえで、スターリンによる独裁体制が築かれていた。それはマルクスやレーニンが期待したものではなかったという。
 スターリンは暴力と恐怖によって党を支配した。1930年代には、多くの古参ボリシェヴィキたちを含め、党員にたいする大粛清をおこなっている。
 絶対権力の体制下には、立憲主義も自由な新聞も民主主義も対抗勢力もなかった。ラーゲリ(強制収容所)がようやく空になるのは、1950年代末になってからだ。その後、市民が大量に投獄され殺害されることはなくなった。だが、ソ連は警察国家、権威主義的社会として、自由のない国でありつづけた。
 ソ連の政治的弾圧によって犠牲になった人の数は、正確にはわからない。しかし、少なくとも1000万人から多くて2000万人にのぼる、とホブズボームはみている。
 だが、ソ連はファシズムのような全体主義国家ではなかったという指摘が目をひく。政治に関心があるのは知識人だけで、市民はむしろ驚異的なまでに「脱政治化」されてしまったところに、ソヴィエト体制の特徴があるというのだ。これは、ある意味、全体主義より怖いことかもしれない。
 第二次大戦後に生まれた共産主義国家は、すべてソ連型をモデルにしていた。それは東欧諸国でも同じであり、さらには中国共産党の場合もほぼ同じといえる。ただし、第三世界から社会主義陣営にはいった国々は多少色合いがちがう。いずれにせよ、こうした国々は最高指導者のもと、一党政治体制と文化的なプロパガンダ、国家による計画経済によって運営されていた。多くの国では大量裁判や処刑もつきものだった。
 共産党が工業化と近代化をもたらした国々では、新政権は一時、国民の支持を集めた。しかし、ソ連によって併合されたバルト三国や、ソ連が略奪をはたらいた東ドイツでは、ソ連にたいする反発は根強かった。
 すでにユーゴスラビアは、ソ連の指令に抵抗して、独自の路線を歩むようになっていたが、その影響はさほど大きくなかった。問題は1956年にフルシチョフがスターリン批判を展開してからである。ポーランドでは改革派が指導部を握った。ハンガリーでは革命が発生し、ソ連軍によって鎮圧された。中国はソ連に反発し、中ソ対立がはじまった。そして、それは次第にエスカレートしていく。
 ポーランドで改革のきっかけとなったのは、1956年のポズナンにおける労働運動だった。それから1980年代末の「連帯」にいたるまで、ポーランドの労働運動は、知識人と同盟しつつ、社会主義に反対する運動をくり広げていく。
 チェコスロバキアは1950年代はじめの粛清によって、政治的に無力化されていたが、それでも次第に脱スターリン化が進んでいた。そしてついに1968年に党内クーデターによりドプチェクが書記長に選出され、「プラハの春」が生まれる。だが、これもソ連の軍事介入により転覆された。
 ソ連は軍事的威嚇によって、その後20年にわたってソヴィエト・ブロックを維持する。しかし、ソ連を中心とした国際共産主義運動はもはや命脈を保てなくなっていた、とホブズボームはいう。
 1960年代にはいると、社会主義諸国の経済成長率は西側にくらべて顕著に減速しはじめていた。経済改革はまったく功を奏さない。
 そして「1970年代に世界経済が新しい不確実性の時期に入ると、『現存する』社会主義経済が非社会主義経済を追い越したり上回ったりすると期待する者は、東にも西にももはや誰もいなくなり、東が西と同じ歩調で進むと予想する者もいなくなった」。
 ここには中国についての言及がほとんどない。本書が1994年に上梓されたことを考えれば、それもやむをえないことだ。それはまた新たな課題だろう。
 ここから、いよいよ本書は第Ⅲ部の「地すべり」の時代へとはいっていく。

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