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革命とクーデター──ホブズボーム『20世紀の歴史』をかじってみる(8) [われらの時代]

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 1970年代から20世紀終わりにかけても、世界じゅうで革命とクーデターがつづいていた。国家・社会構造の根本的改変を革命と名づけるなら、クーデターは軍による国家権力の奪取を指している。革命が社会主義を葬り去ることもある。クーデターがもたらすのは、一般に軍事政権である。
 世界全体を眺めてみると、本書が対象とする1970年代から90年代にかけても、われわれのふだんあまり意識しない場所で多くの革命やクーデターが発生していた。それは今後もつづくだろう、とホブズボームは予想している。
 加えて、戦争である。21世紀も世界に戦雲が絶えることはなさそうだ。
 第15章は「第三世界と革命」と題されている。
 1970年代から80年代にかけ、第一世界は安定し、第二世界もなんとか共産党の重しがきいていたのにたいし、第三世界では、革命とクーデター、武力紛争が頻発していた、とホブズボームは書いている。その理由は、いうまでもなく第三世界が政治的にも社会的にも不安定な状態に置かれていたからである。
 アジアでは、1950年から53年にかけ朝鮮戦争、1945年から75年にかけベトナム戦争がおこり、少なくとも900万人が亡くなっている。アフリカでもモザンビークやアンゴラなどでの戦争で350万人、中東でも多くの人が戦争で死亡した。イラン・イラク戦争の戦死者は少なくとも75万人に達する。無論、中南米も紛争と無縁ではなかった。
 多くの革命も生じている。1959年にはキューバ革命、1962年にはアルジェリア革命が発生した。独立した多くのアフリカ諸国は、反帝国主義と社会主義を掲げる指導者を権力の座につけた。アメリカはソ連の影響力がおよぶのをおそれ、それらの国々の反対派を支援し、権力の転覆をはかった。
 中ソ対立が激しくなるにつれ、ソ連が選んだのは第三世界の社会主義寄り政権を支持することだった。ヨーロッパの自由主義者も、第三世界の革命と革命家を支持していた。しかし、1964年にはブラジル、65年にはインドネシア、73年にはチリで軍事クーデターが発生し、そのあとにテロがつづいた。
 第三世界の革命はゲリラ戦と結びついていた。ゲリラ戦を高く評価していたのは、ソ連よりもむしろ急進左翼のほうだった。
 ゲリラ戦の象徴が、1959年のキューバ革命を成功に導いたチェ・ゲバラである。ゲバラは汎ラテン・アメリカ革命を唱え、「二つ、三つ、もっと数多くのベトナム」をと叫んだ。だが、それは失敗に終わる。
 ゲリラ戦術はその後も急進派によって採用され、農村部だけではなく、都市部にも広がっていった。
 だが、中南米で政治の実権を握ったのはむしろ軍部だった。1960年代、南米ではほとんどの国で軍事政権が成立する。アルゼンチンもブラジルもボリビアもウルグアイもそうだ。国が文民支配に戻るには、かなりの時間を要した。
 チリでは1970年に左派のアジェンデが大統領に当選したが、73年にはアメリカの支援を受けた軍部のクーデターによって倒されてしまう。そのあとは、ピノチェト政権による処刑と虐殺、追放がつづいた。
 チェ・ゲバラのイメージは、むしろ第一世界の若者たちを引きつけた。ゲバラはアメリカの戦争と支配にたいする抵抗を示す文化的シンボルになっていく。
 先進国では、蜂起と大衆運動による社会革命という図式を信じる者はだれもいなくなっていた。ところが、1968年から69年にかけ、新しい社会勢力となった学生たちが叛乱をおこすのである。そのことに各国政府はとまどいを隠せなかった、とホブズボームは論じている。
 学生叛乱が真の革命に発展することはなかった。それでも、フランスの学生運動がドゴール退陣に結びつき、アメリカの学生運動がジョンソン大統領を辞任に追いこんだことも事実である。
 学生叛乱は学生たちのかなりの部分を政治化した。かれらが向かうのはモスクワではなく、むしろ非スターリン主義的なイコンだった。毛沢東主義にあこがれる者もでてきたし、マルクーゼももてはやされた。しかし、そのユートピア的期待がしぼむと、多くの者が古い左翼政党を支持するようになるか大衆組織にもぐりこんだりしていった。規律のきびしい非合法の前衛武装組織を結成する道を選んだのは、ごく少数だ、とホブズボームはいう。
 テロと治安組織による攻防がはじまる。ドイツや日本では赤軍、イタリアでは「赤い旅団」が結成され、北アイルランドや中南米でもテロ活動は盛んになっていた。
 1960年代末の学生叛乱は世界的な広がりをもっていた、とホブズボームはいう。「1960年代末の学生叛乱は、古い世界革命の最後の万歳の叫びであった」とも。このとき、世界は「真の意味で地球的だった」。
 とはいえ、学生叛乱は、「存在していない何かについての夢想」であり、西欧世界では、もはや誰も社会革命を期待していなかった。
 実際には世界は世界的にというより、国家主義的な方向に、言い換えれば自己中心的に動こうとしていた。その意味では国際運動は弱まり、世界革命の機運は衰えつつあった。1968年の「プラハの春」にソ連が介入したことにより、プロレタリア国際主義は雲散霧消し、西ヨーロッパの共産党も、ソ連から距離を置くことになる。
 1974年にはポルトガルの長期右翼政権がクーデターによって打倒され、ギリシャでは極右軍事独裁が崩壊した。翌1975年にはスペインのフランコが死去する。
 アフリカでは、モザンビークとアンゴラがポルトガルからの独立を果たすが、アメリカと南アメリカの介入によって内戦がはじまった。エチオピアでは皇帝が倒され、左派の軍事革命評議会が実権を握った。
 ダホメは人民共和国となり国名をベニンと変える。マダガスカルは軍事クーデターのあと、社会主義国を宣言した。コンゴ(ザイール=現コンゴ民主共和国とは別)も軍部支配のもと、人民共和国を名乗った。
 1975年、アメリカ軍のインドシナ撤退により、統一ベトナムが誕生し、カンボジアでも共産主義政権が発足する。だが、カンボジアのポル・ポト政権は、ベトナム軍の侵入によって崩壊した。
 中南米では1979年にニカラグア革命が発生、エルサルバドルではゲリラ活動が活発化した。「解放の神学」にもとづく民衆運動が盛んになっていた。
 1983年、グレナダでの革命にたいし、アメリカのレーガン大統領は米軍を投入し、それを阻止した。
 アメリカはこうした第三世界の動きを、共産主義超大国ソ連による世界攻勢ととらえていた。こうして、1970年代には、いわば「第二次冷戦」がはじまる。
 1979年にソ連はアフガニスタンに侵攻した。だが、それはソ連の崩壊を招く第一歩となる。
 同じ1979年、イラン革命が発生する。アメリカを後ろ盾とする皇帝は、石油を財源とする工業化によって、強権のもとイランの近代化を進めようとしていた。だが、上からの近代化は、農村の破壊と都市のインフレをもたらし、民衆の反発を招く。民衆はイスラム教聖職者のもとに結集した。その聖職者の指導者がアヤトラ・ホメイニだった。
 ホメイニは亡命先から、イスラム革命をおこすことが聖職者の義務だと説いた。聖職者の呼びかけに応じて、100万人もの人が街頭に出て、政府に抗議した。バザールの商人たちも店を閉め、ゲリラ戦士も動きはじめた。イラン革命は、宗教的原理主義の旗印のもとに行われ、かつ勝利した最初の革命だった、とホブズボームはいう。
 さらにホブズボームは、20世紀後半の革命の特徴は、大衆が脇役ではなく主役として舞台に帰ってきたことだと書いている。くり返されるテロが革命に果たした役割は小さかった。
 むしろ、大衆の大きな波こそが、イラン革命や東欧革命をもたらしたのだ。パレスチナでも1987年からインティファーダと呼ばれる大衆の非協力運動がはじまっていた。1989年の北京では、学生や大衆が天安門広場に集まり、民主化を求めた。
 大衆行動だけでは政府を倒すことはできない。大衆が勢力になるのは、指導者や戦略、政治構想が必要だが、何よりも状況を動かすのは、大衆なのだ、とホブズボームはいう。
 最後にホブズボームは無気味な予言を残して、この章を終えている。

〈20世紀末は、同時に暴力に満ちている──過去よりも、より多くの暴力がある。そしておそらく同じように重要なこととして、武器に満ちている。……そのうえ、今日では極度に破壊的な武器と爆薬を入手することはきわめて容易で、先進社会では通常は国家が武器を独占するという事態はもはや当然のこととは考えられなくなった。……次の千年紀の世界は、したがってほぼ確実に依然として暴力的な政治と暴力による政治的変革の世界であり続けるだろう。〉

 この予言は残念ながら、あたった。ソ連が崩壊しても、世界で暴力がやむことはなかったのである。
 問題は、われわれがこれから何を願うのかということである。

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