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小榑雅章『闘う商人 中内功』を読む(2) [われらの時代]

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 ナショナル(松下電器)の家電製品は評判がよかった。しかし、東芝や日立、三菱が値引きに応じるのに、ナショナルはがんとして応じなかった。
 ナショナルにはナショナルなりの言い分がある。松下幸之助は製品価格はメーカーが決めるものだという信念をもっていた。みずからがつくりあげてきた系列の販売会社、代理店を守りたいという思いも強かった。松下グループの共存共栄をはかるのが、松下の願いだった。
 しかし、それでは消費者はどうなるのか。高い商品を安く買えるものなら、安く買いたいのではないか。その強い思いこそが、中内の安売り哲学を引っぱってきた。
 けっきょく、ダイエーとナショナルの闘いは30年にわたってつづくことになる。
 1964年10月、松下電器はダイエーにたいする出荷停止処分を決めた。それでもダイエーは現金問屋からナショナルの電気製品を買い集め、売り場に並べた。
 これにたいし松下電器側はダイエーの売り場に並んだ自社製品を購入し、それを分解してロットナンバーからその製品を売った販売業者を特定し、取引停止とした。
 すさまじい闘いがはじまっていた。
 ダイエーは公正取引委員会に提訴した。1967年7月、公取委は独占禁止法違反にあたるとして松下電器がダイエーに商品を供給すべきだと勧告する。だが、松下電器はこの勧告を拒否した。
 松下電器は松下幸之助のリーダーシップのもと、その傘下にナショナルの製品だけを扱う販売会社と代理店からなる独自の販売システムを築いてきた。
 いわば松下王国である。製品の値引きはしない。本社の決めた定価をつらぬくことによって、本社、販売会社、代理店がそれぞれまっとうな利益を確保し共存共栄をはかるというのが、松下幸之助の哲学だった。
 松下と中内の対立は、製品の価格決定権を握るのは生産者かそれとも消費者かという問題でもあった。
中内は価格決定権を消費者に取り戻すことをスローガンとしてかかげたが、松下にしてみれば商品価格が安定してこそ、企業の存続が確保され、ひいては消費者にも利益がもたらされるのだ。
 抗争はとどまるところを知らなかった。ナショナルとダイエーの闘いは、1989年に松下幸之助が亡くなったあともつづく。
 だが、最終的に勝利したのはダイエーの側だったといわねばならない。30年戦争を経て、松下電器はダイエーにも正式に商品供給を開始するようになった。
 そのかん、ダイエーは破竹の勢いで成長拡大をつづけていた。1970年にダイエーの店舗数は58店、売上は1436億円に達した。1971年にはグループ全体で売上は2000億を突破、社員数も1万人を超え、1万1873人となった。そして、東証一部に上場した1972年8月には、売上が三越を抜いて、小売業日本一となった。
 さらに小榑はこう書いている。

〈創業が1957年、大阪の片隅で始めた30坪のドラッグストアが、それからわずか22年後[1980年]には、売上高1兆円、小売業では日本一の大企業に駆け上がったのである。こんな例はほかにはない。当時は、今太閤と囃(はや)されたほどである。〉

1980年に売上が1兆円を突破したとき、中内は5年後の1985年には4兆円を目指すと豪語した。だが、それが実現することはなかった。1984年の売上は1兆2266億円にとどまっている。
日本経済の成長時代が終わろうとしていたのだ。
 ダイエーの急成長は高度経済成長と重なっている。それは「国民の可処分所得がどんどん増えて、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、掃除機などの家電ブームが起こり、マイカー、マイホームと、消費者の購買意欲が極めて盛んだった時代」だ、と小榑はいう。

〈GNP(国民総生産)は、60年から78年まで連続19年間ずっと前年比10%以上(名目)の成長を続けたのであった。こんな好景気の時代は、まさに神武以来のことである。その大きな上昇気流に、いくつものスーパーが乗って拡大していった。イトーヨーカ堂もジャスコも西友も一緒である。/しかしその中でも、ダイエーの伸張率はずば抜けていた。なぜか。それは一に中内さんである。中内さんのたぐいまれな意志と意欲とぶれない主義主張、指し示す方向が正しかったのだ。〉

 だが、1980年代にはいると、逆風が吹きはじめる。
 すでに1974年には、いわゆる「大店法」(1978年にも改正)が施行されていた。地方に大型スーパーが進出する場合は、地元の合意と、地元小売業者との調整が求められるようになっていたのだ。とうぜん、それに反対する商店街が多く、スーパーの規模についても規制がかけられた。
 それでもスーパーの出店数は増えていったが、次第に新規出店数は減らないわけにはいかなかった。
ダイエーのようなスーパーは増えた店の数だけ売上が伸びる仕組みになっている。そのため、大店法による出店規制は、チェーン展開にもとづく売上増に、次第にブレーキをかけるようになっていく。
加えて石油ショックである。
 スーパー業界にとっては1973年よりも1979年の石油ショックのほうが、経済への打撃が深刻だった。スーパーだけではなく、日本経済全体がそうだったろう。
 人びとはものを買わなくなった。給料の伸びも止まった。実質消費支出は1980年がマイナス0.6%、81年がマイナス0.8%となっている。
 高度成長がすぎたころ、1980年の家庭経済がどんな様子だったか、小榑はこう書いている。

〈日本の家庭の電化製品の普及率は、電気冷蔵庫は99%、掃除機は96%、洗濯機は99%、石油ストーブは92%……、つまり電化製品は日本のほとんどの家庭にすでに行き渡り、あとは買い替え需要しかないという状態になってきている。もちろん、エアコンはまだ39%で、電子レンジのように、後から出てきて、まだ普及率が34%という商品もあるが、どの家庭でも必需品というような国民的需要がある商品は、ほとんど普及した時代である。〉

 もちろん1980年代以降も次々と電気製品は出てくる。パソコンが本格的に売れるようになるのは1990年代の終わりからだ。しかし、1960年代から70年代にかけての生活革命をもたらした商品群ほど、爆発的需要を喚起したものはなかったといってもよいだろう。
 小榑によると、ダイエー創業以来8年目の1965年にいたっても、エアコンは2%、電気冷蔵庫は32%、掃除機は32%、石油ストーブは38%、早くから普及した電気洗濯機も69%の普及率にとどまっていた。それから15年のあいだに、最低限必要とされる基本的な電化製品はどの家庭にもほぼ行き渡ったのである。
 そこに第2次石油ショックがやってくる。公共料金の値上げ、増税、社会保険の増額などが重なり、可処分所得が減ると、庶民はとうぜん財布の紐を締めないわけにはいかなかった。
 大店法により、新規開店がむずかしくなるなか、ダイエーでは既存店の売上が伸びなくなっていた。加えて、核家族化やマンションの増加、ライフスタイルの変化によって、商品が多様化すると、売り場の構成も変えなくてはならず、利益が圧縮されていった。
 そんななか、ダイエーはどう対応しようとしていたのか。小榑によると、中内は売上第一主義だったという。イトーヨーカ堂の利益率が4─5%あったのにたいし、ダイエーはその半分だったといわれている。「余分の利益はお客様に還元する」というのが、中内の口癖だった。
 売上の伸びが低迷するなか、ダイエーはコングロマーチャント(複合小売業)をめざした。保険や不動産にも手をだす。スポーツ関連の専門店、ローストビーフのレストラン、倉庫型ディスカウントの食品店、書籍・ビデオレンタルの店、ホテル、ハウジング会社などを設立。フランスの百貨店と提携し、オ・プランタン・ジャパンをつくる。ハワイのショッピングセンターも買収した。しかし、どれもうまくいかなかった。
 赤字が増えていく。本体の業績もよくなかったが、赤字の大きな要因は多角化事業だった。社内のエリート幹部が集まって、再建委員会がつくられた。
 1983年から関連会社の整理統合、借入金・総資産の圧縮による財務体質の改善がはかられた。ダイエーがとりあえず赤字を脱却できたのは1986年になってからである。
 このかん、中内は再建計画にはいっさいかかわらず、むしろそっぽを向いていた。気に入らないのだな、と近くにいた小榑は感じていたという。
 そのころ中内が熱中していたのは、政府の臨教審(臨時教育審議会)の仕事であり、経団連での活動だった。
 ダイエー崩壊までの軌跡をもうすこし追ってみよう。

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