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小榑雅章『闘う商人 中内功』を読む(3) [われらの時代]

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 小榑雅章によると、中内には、おれは中内功だ、天下の中内功だという気持ちが常にあったという。それは虚勢にもつながるが、中内が社会的貢献への強い意欲をもっていたことも示している。
 多忙な中内が、中曽根内閣のもとで臨時教育審議会(臨教審)委員を引き受けたのもそのためかもしれない。任期は3年だった。臨教審の審議は1984年9月からはじまり、1987年3月に最終答申が出されて終了した。その会議に中内は130回出席している。
 臨教審には4つの部会が設けられていたが、中内が加わったのは「21世紀を展望した教育の在り方を考える」という第一部会である。
 中内は、教育の画一性、硬直性、閉鎖性の打破を唱えて、教育界の壁を切り崩そうとした。だが、小榑によると、自民党と文部省は、あくまでも自由化と個性主義に抵抗した。中内の唱えた9月入学案もあっさりと葬り去られてしまう。教育環境の人間化というテーマも、生煮えのままで終わってしまった。
 次に中内が向かったのが経団連である。経団連にはいろうとしたのは、経済界に第3次産業の重要性を思い知らせようとしたためだったという。中内には第3次産業こそが国を支えているのだという自負があった。
 とはいえ、経団連は財閥系の企業が中心の秩序ある集団で、中内のような野人は平会員になれても、それ以上は認めてもらえない。しかし、努力の末、1988年に中内は広報委員長の座を勝ちとる。
 だが、と小榑はいう。
「中内さんは、臨教審が終わる1987年から経団連の事業や会議に注力するようになり、1988年から広報委員長に就任し、ダイエー丸の舵取りは疎かになっていった」
 それでも、まだ当時はバブル経済のさなかで、ダイエーは順調に発展しているように思えた。そのころ、中内はダイエーの天皇になっていた。
 1988年4月、中内は私財30億円を投じて、神戸市西区の学園都市に流通科学大学を開学した。実現まで構想から9年かかっている。
 前評判はよかった。優秀な教授陣もそろった。しかし、資金繰りをし、学生を募集し、寄付を集め、大学が軌道に乗るまで、事務局長を務めた小榑の苦労は並大抵のものではなかった。だが、そのかいあって、流通科学大学は現在も「産業界に開かれた大学」として存続している。
 中内は新幹線・新神戸駅周辺の新神戸オリエンタルシティ建設にもかかわた。それはダイエー・グループが、新神戸駅周辺に新神戸ホテル(SKH)、オリエンタル・パーク・アベニュー(OPA〔ショッピングモール〕)、さらには神戸オリエンタル劇場までつくろうという巨大計画で、1986年に着工し、88年に完成した。
 だが、大失敗に終わった。
「『よい品をどんどん安く、より豊かな社会を』のダイエー憲法では、オリエンタルシティの経営はむずかしい。私は手を出してはいけない世界だと思った」、と中内の身近にいた小榑は書いている。
 さらにダイエーはプロ野球にも手をだし、南海ホークスを買収した。
 中内は野球に関心が深かったわけではなかった。ショートとサードの区別もわからなかったほどだという。
 それでも南海ホークスを買収したのは時の勢いというものだろう。1972年に西鉄がライオンズを手放して以来、九州にプロ野球球団の拠点球場はなくなっていた。
 中内がホークスを買収し、福岡に拠点をおこうとしたのは、九州にプロ野球球団を復活させようとしたこともあるが、中内が手薄な九州にダイエーの店を展開したいと考えていたためでもある。
 南海ホークスは1988年に福岡ダイエーホークスと名前を変え、福岡に拠点を移した。1993年には博多湾に面する福岡市百道(ももち)に開閉式のドーム球場が完成し、大規模な複合施設とホテルもつくられた。
 だが、この大きな買い物のつけは、ダイエーグループのうえに重くのしかかった、と小榑は書いている。
 1990年に経団連副会長に就任したのもつかのま、94年夏に、中内は経団連をやめると言いだす。
バブル崩壊の影響が目に見えて大きくなっていた。いっぽう、経済のIT化、ソフト化が進展していた。それなのに財界は相変わらず重厚長大産業と、輸出最優先に走っている。そのことが中内には気に入らなかった。
 バブルがはじけたのは1990年1月のことである。
その直前、ダイエーの株価は1985年9月の3倍、3万8957円に達していた。しかし、それをピークにして株価の大幅下落がはじまる。
 バブル崩壊は、土地資産の暴落をともなった。
 日本の土地資産は1990年末には2456兆円に達した。それが2006年末の1228兆円と半分になった。土地価格高騰の背景には銀行の過剰な貸出があったが、その貸出はまさにあぶく銭と化した、と小榑は記している。
 多角経営を進めるダイエーは、神戸のオリエンタルシティでも福岡のツインドーム建設でも、銀行から多額の借金をしていた。しかし、本体の利益がでていたことから、バブルが崩壊しても、借金も何とかなるだろうとたかをくくっていた。
 ダイエーの事業はチェーンストアを増やすことで成り立っている。店舗増によって売上が増え、購入した土地の代金も上昇し、その土地を担保にして、銀行から資金を借りて、また新規出店をめざすという拡大循環がダイエーの成長を支えてきた。

〈つまり、ダイエーの出店計画は、基本的に土地が値上がりすることを前提に成り立っている。土地が値下がりすることは考えていない。もし値下がりすると、土地の価値が下がり、価格がどんどん下がるが、借入金も利息も変わらないから、実質安い土地に高い金利を払い続けることになる。借金して土地を購入すれば損が増えることになり、ダイエー全体でみると、膨大な損失になってくる。そうなると、次の出店ができなくなるから、既存店の売上げが増えないかぎり、全体の利益も停滞か減少になる。〉

 金利負担が増えていくと、ダイエーは次第にやりくりがつかなくなってくる。
 そこに1995年1月、阪神淡路大震災がやってくるのである。
「この阪神大震災でのダイエーの活動は、賞賛に値する」と小榑は書いている。中内は陣頭指揮し、迅速に必要な物資を確保し、大震災に対処した。
 しかし、この震災でダイエーの被害は大きかった。7店舗が大きく壊れ、、そのうち4店舗が全壊だった。
 ローソンを除いて、阪神間でダイエー・グループは32店を展開していた。だが、震災後2カ月たっても、12店が営業できない状況だった。直接の被害額は400億円から500億円にのぼった。
 けっきょくダイエーはそこから立ち直れなかった。
 バブル崩壊以降、国民の消費支出は前年度マイナスに転じ、それに応じるかのようにダイエーの売り上げも停滞から減少への道をたどっていた。
 必要な生活用品をすべてそろえた日本型のスーパーのかたちをつくりあげたのはダイエーだった。しかし、この日本型GMS(General Merchandising Store)が、1990年代ごろから、主にロードサイドに店を構える家電専門店、洋服や子供服の専門店、薬・化粧品の専門店、ホームセンターなどに押されるようになった。
 多くの主婦が、みずから車を運転して、少し遠くても、もっと品揃えのいい安い価格の店で買い物をするようになったのである。
 郊外のロードサイドの専門大店をカテゴリーキラーと呼ぶらしい。ダイエーなどの市街地の大規模なスーパーは、こうしたカテゴリーキラーの店に少しずつ市場を奪われていく。平日、客がはいるのは地下や1階の食料品フロアだけで、洋服や雑貨を扱う残りの2階から5階までの階はがらがらということもめずらしくなくなってくる。
 そうした状況にもかかわらず、中内はあくまでも強気で、規模の拡大をめざした。赤字となったスーパーを合併して、店舗数を増やす。各地の郊外に30店以上も、大きな倉庫のようなセルフ方式のハイパーマーケットをつくったりもした。
 だが、いずれも失敗する。安さとセルフ方式だけではもたなかった。「消費が飽和してきたときに、新たに売れる商品を開発する能力は、ダイエーには乏しかった」と、小榑は記している。
 中内功の指揮する巨大艦は、容易に方向を転じることができなかった。加えて、かれは最後まで自分のつくった会社を自分で経営することにこだわっていた。
 1998年、ダイエーは創業以来、はじめての大幅赤字を計上する。連結負債は2兆円を超えていた。ダイエーは多くのものを売って身を軽くしようとしたが、負債額はさほど減らなかった。
 1999年、中内は退任し、社長を鳥羽副社長に譲り、みずからは会長職に専念することになった。
 この年、4800億円の事業売却と3000人の人員削減が発表される。
 2000年には鳥羽社長に不明朗な株取引があったことが発覚、中内の最高顧問就任が発表されるが、もはや指導力を発揮することはない。
 翌年、中内は取締役を退任し、ダイエーから完全に離れることになった。
 ダイエーは2004年に産業再生法の適用を受け、実質的に幕を閉じた。
 中内が死去するのは2005年9月19日のことである。83歳だった。

〈中内さんは、家屋敷も家財もみんな失いました。さばさばした、元の千林に戻っただけや、と言って笑っていましたが、その無念さは計り知れません。〉

 小榑雅章は「あとがき」にそう書いている。

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