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加藤典洋『戦後入門』を読んでみる(2) [われらの時代]

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 いくらにっくき敗戦国とはいえ、無条件降伏は民主主義になじまない。それなのにアメリカがドイツや日本に無条件降伏を押しつけたのはなぜか。そこには原子爆弾がからんでいた、と加藤は推測する。
 戦争末期、アメリカは原子爆弾の開発に成功するところだった。その可能性がみえてきたことが、ルーズヴェルトに強気の無条件降伏をとらせる悪魔の誘惑になっていたのだという。
 ルーズヴェルト死後、政権を引き継いだトルーマンは、前大統領の無条件降伏政策を継承すると宣言した。原爆製造計画が最終段階を迎えたことを知らされていた。
 原爆は1945年8月6日に長崎に、ついで8月9日に長崎に投下された。アメリカでそのことが発表されたとき、原爆投下は軍事基地を対象にしたものであると強調されていた(広島、長崎は軍事基地ではなかった)。原爆が無辜(むこ)の市民を無差別に殺戮したことも注意深く隠蔽されていた。
 トルーマンは日本がポツダム宣言を受けいれなかったため、やむなく日本に原爆を投下したのだと説明した。戦争を早く終わらせ「何千何万もの米国青年の命を救うため」という理由もつけ加えられていた。日本人は卑劣で無法な者たちだという罵詈(ばり)も発せられていた。
 その後、トルーマン政権のなかからは、原爆投下にたいする悔恨をもらす閣僚も出てくる。だが、トルーマンはアメリカによる核独占の強気姿勢を崩さず、1947年からソ連封じ込め政策に舵を切っていく。こうして東西冷戦時代がはじまる。
 日本がポツダム宣言を受諾し、ふいの勝利が訪れたあと、アメリカ人は歓喜し、そのあと奥深い部分から原爆投下に関する良心の呵責が生まれた。それに反論するかたちで、前陸軍長官のスティムソンは、原爆使用を正当化する。日本上陸作戦を回避し、米軍兵士の100万以上の生命を救うには、原爆使用が選択肢のなかでは「もっとも嫌悪感の少ないものだった」と述べたのだ。そして、この見解が、原爆やむなしというアメリカ人の標準的な理解となっていく。
 いっぽう、原爆を投下された日本のほうはどうだったか。日本政府は原爆投下直後、それが戦時国際法に違反するものだという抗議声明を発した。その5日後、ポツダム宣言を受諾し、敗北を認めた。
 江藤淳によれば、それは無条件降伏ではなく、統治権はあくまでも日本にあると認められていたはずだという。ところが、アメリカは日本占領をいつのまにかマッカーサーのもとでの直接支配に切り替えていった。すなわち、日本はアメリカに無条件降伏したと解釈したのだ。これによって原爆投下への批判、非難はシャットアウトされることになった。
 メディアは言論統制される。アメリカへの批判的報道は認められず、GHQの意向に沿うものへと変わっていく。各都市の大空襲や広島、長崎への原爆投下、占領軍兵士の不法行為についても報道が禁じられた。
 加藤によれば、アメリカは原爆投下に後ろめたさをおぼえていた。そのため、アメリカが建前としている民主主義、自由と正義の原則に批判がでてくるのも抑えようとしたのだという。
 日本が敗戦国になったのは、まちがいなかった。戦前の価値観はもはや通用しなかった。忠義と戦争と国家主義に代わって、自由と平和と民主主義が戦後の基本的理念となっていく。
 原爆投下にたいしアメリカに憎悪を感じた日本人は不思議に少なかった。その無力と沈黙は何に由来するのか。それを象徴するのが、広島平和公園の原爆死没者慰霊碑に刻まれた「安らかに眠って下さい 過ちはく返しませぬから」ということばだった、と加藤はいう。
 国民を無茶な戦争に巻きこんだ軍への嫌悪感もあったのかもしれない。だが、そこにはアメリカを批判できないという無力感、ないしはアメリカへの抵抗の放棄が示され、ひたすら未来の平和創造に向けての思いだけがこめられていた。
 アメリカが原爆を投下した事実そのものは否定しようがなかった。原爆投下はあきらかに国際法に違反している。しかし、戦後の日本政府はアメリカの立場を擁護し、代弁することに終始する。
 1955年にはソ連の原爆実権や、アメリカが前年ビキニ環礁でおこなった水爆実験が世界に衝撃を与えていた。これに抗議して出されたのがラッセル・アインシュタイン宣言である。人類に滅亡をもたらす核兵器廃絶に向け、各国が協定を結ぶよう提言していた。絶対平和主義をめざす世界連邦運動もこれを後押しした。だが、その後、この構想は現実と歯車がかみあわないまま拡散していく。
 戦後の特徴は、いやおうなくわれわれが核のもとに置かれているということである。現在の戦後国際秩序が核の抑止力のうえに成り立っていることは、まぎれもない事実だ。ふだんは意識しないけれども、核の管理に失敗すれば、人類は滅亡の淵に立たされる。
 核時代がはじまった直後、ジョージ・オーウェルは、現在は二つか三つの国家がスーパー国家になって、「お互いの間で原爆を使わないという暗黙の協定」を結んだうえで、「被搾取階級と人民からことごとく反逆の力を奪ってしまう」時代になったと論じた。
オーウェルは「われわれは、全体的壊滅に向かっているというより、古代の奴隷帝国のような、恐るべき『安定』の時代に向かっているのかもしれない」と論じ、「平和ではない平和」が無限につづく可能性に言及した。
 加藤はこのオーウェルの1945年の論説を紹介しながら、「原爆の本質は世界を変える力を人民から奪ってしまうところにある」と論じている。現実の世界は、原爆以後、それを保有する国家どうしの対立と駆け引きによって動いてきたという。
 オーウェルはいっぽうで、だれもが自転車のように簡単に原爆をつくれるようになったら、主権国家どうしのバランスは崩れ、世界は一種の野蛮状態になってしまうだろうとも述べていた。科学技術の拡散と進展は、強大国による原爆の独占をむずかしくする。
 そんな時代に、はたして諸国間、国民間の信頼関係を築くことができるのだろうか。理想的な絶対平和主義と現実的な国際主義のあいだに立って、解決策を見いだそうというのが加藤の考え方とみてよい。

   *

 戦後日本は平和憲法にもとづいて運営されてきた。とりわけ憲法9条には、戦争の放棄、軍隊の不保持、交戦権の否定が明記されている。
 加藤によると、新憲法制定当時、日本側はまさかアメリカから戦争の放棄を求められるとは思っていなかったという。
 連合国側は勝者の立場から、懲罰として、旧枢軸国の武装解除・非軍事化を推進した。そして、その安全保障を、将来生まれる国連の世界警察軍のようなものに委ねようとした、と加藤は解する。
 マッカーサーが憲法草案に、日本は紛争解決手段としての戦争を放棄するだけでなく、「自国の安全を維持する手段としての戦争をも放棄」し、「その防衛と保全とを、いまや世界をうごかしつつある崇高な理想に委ねる」と記したのには、国連軍創設の意味合いが隠されていた。
「憲法九条の戦争放棄の規定は、同時進行していた国連の理想実現への努力[すなわち世界警察軍の創設と核の国際共同管理]と、わかちがたく結びついていた」と、加藤はいう。
 日本の支配層は戦争放棄条項の押しつけに憮然とした。だが、世論は圧倒的に戦争放棄を歓迎した。それはこれまでつらい戦争を体験しつづけてきた民衆の願いだったからである。
 その後、日本は再軍備と憲法改正への動きを経験する。とはいえ、戦後日本の政治を引っぱった基本路線は、吉田茂のいわゆる吉田ドクトリンだった。すなわち「親米・軽武装・経済中心主義」路線である。
 ここで加藤は久野収が天皇制の分析に用いた顕教、密教という概念をもちだす。
 吉田ドクトリンには、日本は憲法9条をいだく平和主義の独立国家だという「顕教」の顔がある。そのいっぽうで、日本は対米従属のもと軍事負担を最小限にとどめながらら経済大国をめざすという「密教」の顔もあった。日本の戦後政治は、この顕教と密教を使い分けながら、平和主義をかかげ経済繁栄の道を歩んできたというのだ。
 だが、そこには内的な矛盾があった。自民党はもともと憲法改正によって日本の交戦権を回復したいという願いをもっていた。吉田茂はそれを封印して、経済ナショナリズムの方向に舵を切った。だが、対米従属をどうするかというのは、いつか浮上してくる課題だった。
 吉田が採用したのは、憲法9条を表看板としながら、なし崩しに再軍備を進めていく方向である。それによって、アメリカの要求をいれつつ、自衛隊を発足させ、経済発展の道を追いつづけた。
「吉田政治は経済の発展によってナショナリズムを追求するという新しい手法を見つけだすことで、いわば戦後の懸案である『主権回復』という政治的課題への政治的なアプローチを“凍結”し、先送りすることを通じ、高度成長期の安定と繁栄を実現した」
 しかし、日本の経済繁栄がアメリカとの経済摩擦を生むようになると、日本はアメリカの経済的要求にも応えなくてはならなくなり、「対米従属」の問題がふたたび顔をのぞかせるようになった。日本はいつまでもアメリカのいいなりになっていていいのか、という問いかけが生まれてくる。
 対米独立を実現しようとすれば、戦前の政治姿勢が強くなり、アメリカとの対立を招く恐れがあるというジレンマを吉田政治は回避した。だが、その深刻な内的矛盾は、次第に抑えきれなくなってくる。
 1990年代にはいると、社会党が壊滅し、自民党のハト派が衰退していく。その後、自民党のタカ派が政権を握った。かれらは憲法改正をかかげながらも、実際には日米同盟強化の名のもと、対米従属を強め、ますます矛盾した政策を進めるようになった。
 それが日本社会をますますうっとうしく不安なものにしている。

   *

 憲法9条を手がかりとして、対米従属からの独立をはかる方途がないものだろうか。そう加藤は問いかける。
 戦後日本の占領期間が長引いたのは、「民主主義、自由、経済的諸制度の改革」に一定の時間を要したほか、冷戦というもうひとつの要素が加わったからだ、と加藤は書いている。これによって「対共産主義戦略に重点を置いた日本再建」が求められるようになった。
 1951年9月、サンフランシスコ講和条約が調印され、同時に日米安保条約が締結された。翌年2月には日米行政協定が結ばれ、これによって日本におけるアメリカ軍の地位と機能が定められた(1960年に日米地位協定と名称変更)。いまも米軍基地は常態化している。
 はたして米軍基地の撤廃は不可能なのか。
 ナショナリズムによる対米独立路線は脈がない。インターナショナリズム(国際主義)と国連中心主義が局面を打開する唯一の道だ。その最重要のカードになるのが憲法9条だ、と加藤はいう。
 加藤は、国際秩序から孤立するのではなく、国際秩序の構築に積極的に関与することで対米自立を成し遂げようと提案する。
 ロナルド・ドーアは、日本が国連改革の中心的存在となって世界に貢献すべきだと主張した。日本国憲法の草案が出された1946年2月ごろ、国連安全保障理事会では、国連常備軍のあり方が検討されていた。しかし、米ソ対立が激しくなり、議論は暗礁に乗り上げてしまった。ドーアはこの議論を再開することによって、日本も国連常備軍に加わり、積極的な国連中心外交を担うべきではないかという。
 加藤は、このドーアの考え方こそ、日本が平和国家としての誇りをもちながら、対米自立をかちとる方途だと主張する。
 安倍政権は「表向きは対米協調、従属を基調としながらも、その実、復古的で国家主義的な方向での『誇り』づくりを、第一義的にはめざしてきた」と加藤はとらえた。だが、その「誇り」は、自画自賛のもので、けっして国際社会から受けいれられるものではない。しかも、徹底従米路線をとる日本はアメリカからもかえってばかにされているとまで加藤は断言する。
 日本が誇りを取り戻すには、戦前に復古するのではなく、平和主義に立ち戻ることだ。そのためには、対米従属を脱し、完全な独立国となり、国連中心の外交を積極的に展開していく以外にない。
 ドーアは自衛隊の出動は、(1)国境内への悪意ある侵入への対処、(2)国内外の災害救援、(3)国連の平和維持活動ならびに国連直接指揮下における平和回復運動にかぎられると述べている。
 加藤はドーアの提案を受けいれる。そのうえで、あらためて戦争放棄の重要性を指摘するのだ。憲法9条は、日本が他国を侵略しないこと、また軍隊によって国民の政治行動を抑止しない(軍隊が治安出動をしない)ことを保証するものだという。
 他国からの侵略があれば国を守るのはとうぜんだ。しかし、自衛隊の役割は防衛にかぎられるのではなく、むしろ国連常備軍に加わり、国連の平和維持活動、平和回復運動に参加することだ、と加藤は考えている。自衛隊を国連待機軍と国土防衛隊に分離することも提案されている。もちろん、その前提となるのは、常備軍設立に向けて国連機能を強化することである。

   *

 次は核問題である。核兵器が現代世界に暗い影を投げかけていることは何度いってもいいたりないほどだ。
 核兵器の国際管理は、アメリカ主導のもと国際原子力機関(IAEA)と核拡散防止条約(NPT)によって進められてきた。IAEAは原子力の平和利用促進と軍事への転用防止を目的として設立された。NPTは現状以上の核拡散を防止し、最終的に核兵器を廃絶することを掲げる国際条約である。
 現在、日本はNPT条約に加盟しているが、「核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持する」としており、万一の場合はNPT条約からの脱退も辞さない構えをとっている。日本は国内的には「非核三原則」を唱えつつも、現状ではアメリカの「核の傘」に安全保障を委託し、そのうえで万一の場合も想定している。核抑止政策が日本の防衛政策の基本であって、核廃絶ははるかに遠い目標といえるだろう。
 2009年にプラハで、アメリカのオバマ大統領は核兵器の存在しない社会の実現に向けて努力すると演説した。しかし、いまや核兵器の所有国は米ソ2大国からはじまって、5大国(米露中英仏)へ、さらにインド、パキスタン、北朝鮮、イスラエルまで加えた9カ国へと広がっている。さらにイランも核兵器開発を進めているとされる。核軍縮交渉は進展していない。
 加藤は人類は残念ながら、もはや「核のない世界」に戻れないという。核兵器は「廃絶」してもなくならず(それはいつでも復元できる)、原子力についても、もはやなかったことにはできないからである。好むと好まざるにかかわらず、人類は核とともに生きる道を選ばなくてはならない。
 核兵器のない世界は可能なのか。それができないとしても、「核兵器行使のない世界」を実現することはできるのではないか。
 核兵器の使用を思いとどまらせる核抑止論は、ほんらいは核戦争を防ぐための方策として考えられていた。けっして、核廃絶論と相容れないわけではなかった、と加藤はいう。
「廃絶」か「抑止」か、「完全ゼロ」か「国際管理」か、といった二者択一を前にして、核に関する議論は停滞している。
 ここで加藤はふたたびロナルド・ドーアの議論を紹介する。
 ドーアは、核抑止論は、核兵器から身を守るためには核兵器をもたねばならないという矛盾した論理を内包しているという。核保有国による核独占のもとで平和を構築しようというNPT体制は、いまやマイナス面のほうが多く、新しい体制に移行すべきだというのがドーアの主張である。
 ドーアはNPTに代わって、最終的には世界政府による核兵器の国際管理を打ち出す。ドーアが提案するのは、核不拡散ではなく核拡散にもとづく核の国際管理体制だ。
 それによると、どの国も核を保有できるが、核を保有しない国は、核を保有する少なくとも三カ国にたいし「核の傘」を求めることができる。それにより、核抑止体制はリゾーム状になり、安全保障体制が重層化されていく。そのうえでIAEAは、核兵器の監視、査察システムを強め、最終的には国連が常備配備ミサイルをもつ平和部隊をつくるというのだ。
 ドーアの構想のみそは、従来の核保有国の戦略的優位性を減衰させてしまうことにある。加藤は、日本は非核三原則の堅持するとともに、NPTに代わる新たな「国際核管理条約」を提唱すべきだという。
 核の問題はむずかしい。ドーアの案はユニークだが、はたしてそれによって核の国際管理がうまくいき、人類絶滅の危機が遠のくかどうかはわkらない。いずれにせよ、核の国際管理が人類の大きな課題であることを、加藤はあらためて示したといえるだろう。

   *

 そして、最後に米軍基地をどう撤去するかという問題がでてくる。
 日本の米軍基地は74%が沖縄に集中しており、いまも日本には約5万人の米兵が駐留している。駐留米軍にたいしては地位協定が適用され、いわば占領が永続化しているだけではない。基地問題は日本の主権にかかわるやっかいな問題なのだ、と加藤は指摘している。
 加藤は、日本が米国の世界戦略に積極的に加担、協力する近年の自民・公明連立政権の姿勢に危惧を示している。憲法9条は有名無実化されようとしている。安倍政権以降、自民党はますます復古型国家主義への傾斜を強めた。
 しかし、復古型国家主義のもと対米従属を強めるというのは、それ自体が矛盾している。めざすべきはそうした方向ではないはずだ。
 加藤は、「対米自立」して「誇りある国づくり」をおこなうため、「平和主義を基調に新たに国際社会に参入する」方向を選ぶべきだという。
 敗戦後、日本にとってはアメリカに従属する以外に選択肢はなかった。しかし、現在、日米同盟は日本の国益にとって、ほんとうに有用なのかどうかわからなくなっている、と加藤は疑問を投げかける。
 状況は変わった。冷戦が終わり、21世紀にはいると、アメリカが衰退し、中国が台頭してきた。日本経済は不振におちいり、日本人は自信を失い、漂流しはじめた。
 沖縄にとって、米軍基地の負担は限界に達している。日本にとっては、国連との関係を強化し、もっと多角的な外交を展開していくほうが政治・経済の安定につながるのではないか。
 そのためには、まず米軍基地を撤去することが先決である。その鍵となるのは憲法9条の改定だ、と加藤はいう。
 憲法9条を考えるにあたって、戦争放棄と自衛隊は矛盾しているようにみえるが、どちらかをやめる必要はない。ふたつは相互補完の関係にあるとみてよい。
 そして、いま露呈してきたのが、憲法9条はじつは米軍基地と相互補完の関係にあったという現実である。
 日本では2009年に民主党政権が成立し、米軍基地の移転をアメリカに要請した。だがアメリカはこれを拒否し、民主党政権を退陣に追いこんだ。
 もはや護憲のままでは、この憲法を制定したアメリカに立ち向かうことはできない、と加藤はいう。むしろ憲法を改正し、それを使って米軍基地の撤廃を求めるべきではないか。
 矢部宏治は憲法9条2項の改正を提言している。「必要最小限の防衛力はもつが、集団的自衛権は放棄する」ことを加え、さらに「今後は国内に外国軍事基地をおかない」と明記べきだという。加藤はこの矢部方式に賛同する。
 ただし、加藤は将来の方向として、あくまでも国連軍の創設にこだわる。日本国憲法が制定されたとき、9条2項に「戦力と交戦権の放棄」がうたわれたときのことを思いだすべきだという。あのときは、各国が交戦権を新たに創設される国連軍に移譲することが想定されていた。
 必要最小限の防衛力をもつことはだいじかもしれない。しかし、より重要なのは「国の交戦権は、これを国連に移譲する」ことだ。そのうえで、憲法に「今後、外国の軍事基地、軍隊、施設は、国内のいかなる場所においても許可しない」と追記すべきだと提案している。
 この憲法改正が実現すれば、とうぜん米軍基地は撤去される。
 自衛隊の一部は国連待機軍と位置づけられる。日本は核をもたない。そして、アメリカとは対等な友好関係を結ぶことになるだろう。
 安倍路線の問題は、復古的な日本中心主義を唱え、戦後の国際秩序から逆行していることだ、と加藤は指摘する。それでは、とても日本が国際社会のなかで「名誉ある地位」を占められそうもない。問題は、国際主義の方向に、日本人の「誇り」を作りあげていくことだ、と加藤はいう。
 現在の対米協調路線は、集団的自衛権にしても安全保障法制にしても、むしろアメリカへの従属を強めるもので、むしろ反米的なフラストレーションをためこんでしまっている。また対中敵視政策を基本としているため、常に国際的緊張を高めている。
 アベノミクスという金融緩和策も、少子高齢化や産業空洞化、財政問題を見すえていないために将来の不安に応えたものではなかった。自民党政権は、対米協調を至上命題としているために、将来をみすえた柔軟な経済政策をとれないままでいる。
 加藤は自分は平和的リアリズムの立場に立つと述べている。上から目線の平和主義ではなく、草の根の平和主義である。理念をもちながらも現実を見失わない考え方だ。
 平和的リアリズムは国家主義や軍の膨張を防ぐブレーキとしてはたらくだけではない。国際連合の強化、再編成をめざすものである。その中心に位置するのは憲法9条の平和理念だ。いまは直進の「護憲」ではなく「左折の改憲」が必要なのだ、と加藤は述べている。
 加藤の提案が実際にどこまで力をもつかはわからない。奇策と思えるものも、理想論すぎると思えるものもある。ただ、すべては構想力からはじまるのである。対米自立にしても米軍基地撤廃にしても核の管理にしても、われわれはそのことをふだん意識することはあまりない。だが、それらは現にそこにある問題なのであり、すべてはこうした問題を問題としてとらえ、それを変えていく構想力をもつことからはじまるのである。日本ははたして戦後を卒業することができるか。それが加藤の『戦後入門』が投げかけた問いだったといえる。

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