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キッシンジャー回想録『中国』を読む(1) [われらの時代]

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 キッシンジャー回顧録『中国』が岩波現代文庫で出たので、読んでみることにした。
 大著なので全部読む自信はない。下巻を中心に。といっても、米中和解のはじまりははずせないから、上巻の最後の2章からはじめよう。
 少しずつしか読めないので、長い読書メモになりそうだ。中国とつきあうのは体力がいる。はたして、最後まで読み通せるか、はなはだこころもとない。

 アメリカと中国が接近するのは、両国がともに困難な状況をかかえたときだった、とキッシンジャーは書いている。アメリカはベトナム戦争、中国は文化大革命で苦しんでいた。
 両国はこの苦しみから逃れるために接近をこころみた。毛沢東は遠交近攻策に思いを馳せ、ニクソンは対話をはじめようと決意した。だが、両国のあいだには、それまでの深い溝が横たわっていた。
 1965年に毛沢東は『中国の赤い星』の著者エドガー・スノーに、過去15年間、アメリカと中国がまったく意思疎通できなかったのを残念に思うと語っていた。だが、ジョンソン政権はこの記事を無視し、ハノイ政権の背後には中国がいると考え、中国敵視政策をつづけていた。
 1969年にニクソン政権が発足すると、毛沢東はさらに一歩踏みこむ。就任演説にアメリカ側の意思疎通意欲を感じたからだ。とはいえ、両国の接触は容易ではなかった。
 3月、中ソ国境のウスリー川で、中国とソ連の衝突が発生した。軍事委員会副主席の葉剣英は『三国志演義』に触れながら、蜀が強力な魏と退行するために呉と連携したように、中国はソ連に対抗するため、アメリカと手を組んだらどうかという策を毛沢東に提言した。
 いっぽうニクソンはベトナムからの段階的撤退を模索していた。ニクソンはベトナム戦争を終わらせるつもりだったが、かといって単純に敗北を認めるつもりはなかった。新たな国際秩序を構築するため、中国を引きこむことができれば、全体としての社会主義圏の力を弱めることになる。ベトナムで敗れても、冷戦で勝ったことになるのだ。
 両国の歩み寄りがはじまる。「毛沢東は関係改善を戦略的責務と受け止め、ニクソンは外交政策と国際的リーダーシップに関する米国のアプローチを再定義する機会ととらえた」と、キッシンジャーは書いている。
 国境紛争をきっかけに1969年夏、中ソ関係は緊張していた。中ソ戦争が勃発し、ソ連が中国の核施設に先制攻撃をかける可能性も考えられた。とりあえず衝突は回避された。だが、その後も両国間の緊張はつづいた。
 1969年11月から70年2月にかけ、米中の外交官はポーランドのワルシャワで何度も接触をこころみた。しかし、原則論をぶつけあうだけで、その先は一歩も進まない。
 対話はなかなか進展せず、1970年5月に途絶えた。そのかんニクソンはベトナムからの米軍の段階的撤退を模索しながらも、カンボジアまで戦闘領域を広げていた。
 ニクソンとキッシンジャーは、パキスタン、ルーマニア、フランスのルートを通じて、米中のハイレベルの会談をはたらきかけた。中国側から思わしい返事はなかった。
 1970年10月に、毛沢東はエドガー・スノーと新たなインタビューをおこなった。毛沢東は、観光客としてでも、大統領としてでもかまわないから、ニクソンの中国訪問を歓迎したいと語っていた。
 雑誌に掲載される前に、毛沢東のインタビュー内容はアメリカ側にも知らされていた。国務省はそれを無視する。1970年12月8日、大統領特別補佐官のキッシンジャーのもとに、周恩来から1通の書簡が届いた。それを届けたのはパキスタン大使だった。その後、ルーマニア経由でも同じメッセージが伝えられた。
 周恩来はアメリカ側に、台湾問題について話しあうため、北京に特使を派遣してほしいと提案していた。キッシンジャーは同意する。ただし、その目的は米中間の広範な問題を話しあうためだと返事をだした。
 それから3カ月返事がなかったのは、アメリカがラオス南部のホーチミン・ルートにまで攻撃範囲を広げたためである。1971年4月になって、ようやく中国側が反応を示した。
 日本で開かれた世界卓球選手権に参加した中国のチームが、アメリカのチームを中国に招待したのだ。いわゆるピンポン外交である。アメリカの選手たちは迎賓館で周恩来に迎えられ、度肝を抜かれたという。
 4月末、ふたたびキッシンジャーのもとに、周恩来から訪中をうながすメッセージが届いた。これをオープンにするのは危険だった。複雑な手続きが必要になることに加え、喧々囂々の議論が巻き起こり、すべてが台無しになりかねなかった。キッシンジャーはニクソンと相談し、国務省には知らせないことにした。「ニクソンは北京とのチャンネルをホワイトハウスに限定することを決断した」と書いている。
 5月10日、ホワイトハウスは周恩来によるニクソン招待を受諾する。だが、首脳会談を準備するため、事前にキッシンジャーを大統領名代として送る旨、中国に伝えた。こうしてキッシンジャーの中国秘密訪問が実現する。
 7月9日、キッシンジャーとそのスタッフは、パキスタン経由で秘密裏に北京に到着した。緊張は感じられず、中国側のもてなしは丁重だった。周恩来との会談は、到着した日とその翌日の2回、迎賓館おこなわれた。1回目が7時間、2回目が6時間だったという。
周恩来について、キッシンジャーはこう書いている。

〈およそ六〇年間にわたる公人としての生活の中で、私は周恩来よりも人の心をつかんで離さない人物に会ったことはない。彼は小柄で気品があり、聡明な目をした印象的な顔立ちで、相対する人物の心の中の見えない部分をも直感する、けた外れの知性と能力によって他を圧倒した。〉

 毛沢東と周恩来は補完関係にあった。だが、地位は毛沢東が圧倒的に上で、毛沢東の前では周恩来は異常なまでに慇懃に振る舞った。文革中は自分の意に沿わないことでも、毛沢東にしたがって、淡々と行政手腕を発揮した。ともかくも粛清をまぬかれたのはそのためだ、とキッシンジャーは書いている。
 キッシンジャーと周恩来のあいだでは、たがいの考え方や価値観は別として、米中の相互信頼と相互尊重を醸成するため、じっくりと率直な話し合いがなされた。焦点となったのは、台湾とベトナムである。
 この時点で、アメリカの中国大使は台北に駐在している。アメリカの外交官はだれひとりとして北京にはいなかった。
 北京は「一つの中国」の原則をアメリカが受諾することを求めた。これにたいし、アメリカはその原則を話しあう前に、中国が台湾問題の平和的解決を誓約するよう求めた。
 キッシンジャーと周恩来は台湾問題が一挙に片づくとは思っていなかった。棚上げにするほかない。結論は歴史の流れを待つのみ。

〈米国にとっての問題は、「一つの中国」の原則に同意することではなく、統一中国の首都としての北京を承認することを、米国の国内事情に合った時間枠で実現することだった。秘密訪問は、米国が「一つの中国」という概念を段階的に受け入れ、中国がその実行時期については極めて柔軟な姿勢を示すという、デリケートなプロセスをスタートさせることになった。〉

 次はベトナム問題である。
 周恩来は、中国がベトナムを支援しているのは歴史的な由来があるとしながらも、今後ベトナムに関して、外交面、軍事面でアメリカに圧力をかけたりはしないことを約束した。
 2日目の会議で、周恩来はとつぜん文化大革命のことを話しはじめた。文革は共産党を浄化し、官僚機構を打破するため、毛沢東が指示した運動であり、一時的な混乱はあったものの、いまは秩序が回復されたと、周恩来は説明した。この発言をキッシンジャーは「中国が混乱を克服し、それゆえ信頼が置ける国家であること」を示したものと受け止めたという。
 周恩来は中国が「ソ連の脅威に対抗する潜在的なパートナー」となりうることをアメリカ側に示した、とキッシンジャーは受け止めた。巧妙なやり方だった。中国がアメリカからの支援を求めたわけではない。中国はあくまでも「自立自存」をつらぬく。ただ周恩来は、両国が共通の利害をもつことを示すことによって、戦略的協力が得られることを示唆したのである。
 最後にニクソン訪中についての打ち合わせがおこなわれた。米大統領の訪中希望を知った中国側が招待を表明し、アメリカ側がこれを喜んで受諾するというかたちをとることが確認された。
こうして1971年7月15日、北京とロサンゼルスから同時に、ニクソン訪中が決まったという電撃的発表がなされるのである。
 1972年2月21日、ニクソンは底冷えのする北京に到着した。それは静かな訪問で、祝賀ムードとは無縁だったという。中国にとっては同盟国ベトナムを刺激するわけにはいかなかったからである。
 ニクソンは中南海にある毛沢東の自宅で、この歴史的人物と会見した。毛沢東はどこに向かうかも知れぬとりとめのない談論をくりだしながら、ニクソンとの間合いをはかり、時に鋭く斬りこんできた。
 ニクソンはソ連の話をもちだしたが、毛沢東はとりあわなかった。台湾問題も聞き流してしまう。ただ、ニクソンを歓迎している様子ははっきりとみてとれた。
 毛沢東は米中両国間に「戦争状態は存在しない」と話し、「あなた方は自らの部隊の一部を本国に撤退させたいし、われわれの部隊は外国には行かない」と発言した。
 さらに毛沢東は、中国にもアメリカと接触することに反対する反動派グループがいたが、やつらは飛行機に乗り、外国に行こうとして墜落したと話した。林彪事件があったことを認めたのだ。
 米中関係を実務レベルで促進することがだいじだとも述べた。さらに毛沢東はいささかシニカルな調子で、ニクソンに個人的な好意を示した。「私は右派が好きだ。あなたは右翼だと言われているし、共和党は右派であり、ヒース首相もまた右寄りだ」といわれて、ニクソンはどう思ったのだろう。
 結論をあせる必要はないというのが毛沢東の考え方だった。「私のような人間は多くの大砲を鳴り響かせる」が、ほんとうはイデオロギーなんかどうでもよく、「この時間、この日を生きよ」だよ、とキッシンジャーに向かって話している。
 ただ、中国がアメリカと戦略的な協力関係を持ちたいと表明したことは間違いなかった。
 ニクソンの訪中は5日にわたり、このかん遊覧と対話、晩餐会がつづいた。周恩来とニクソンは毎日午後少なくとも3時間話しあった。晩餐会のあとは、実務者どうしが最終コミュニケの文言を詰めなければならなかった。
 ニクソンと周恩来が話しあったのは、米中関係のビジョンと今後の影響についてである。
 ニクソンは中国政策の重点を台北から北京に移すことをすでに決意していた。反共主義者のニクソンが中国にきたのは、中国の指導者をアメリカの原則に改宗させるためではない。両国の価値観はことなっている。しかし、たがいの国益を考えれば、米中は戦略的に協力しあえると、とニクソンは率直に周恩来に語った。
 ニクソン訪中の成果は、上海コミュニケとしてまとめられた。
 コミュニケの骨格は、1971年10月(林彪事件直後)の、キッシンジャーの二度目の訪中で、ほぼまとまっていた。アメリカ側が提示したコミュニケ草案は毛沢東によってうっちゃられ、毛沢東の指示に従って周恩来が中国側のコミュニケ草案を提示した。
 そこには強いことばで中国側の立場が述べられ、そのあとアメリカ側がみずからの立場を書くよう空白があけられていた。そして、最後に共通の立場について記す部分があった。
 キッシンジャーは驚いた。だが、この異例の方式がいいかもしれないと思い直し、ニクソンに相談しないまま、中国側の方式をのんだ。コミュニケには両国のそれぞれの価値観が表明され、最後に事実上のイデオロギー休戦が告げられることになった。
 キッシンジャーによれば、このコミュニケでもっとも重要だったのは覇権に関する条項だったという。
「いずれの側も、アジア・太平洋地域における覇権を求めるべきではなく、他のいかなる国家ないしは国家集団によるこのような覇権樹立の試みにも反対する」
 これは米中の共存をはかるとともにソ連の進出をおさえるための宣言だった。この時点では、まさか現在のような米中冷戦がはじまるとは思いもしなかっただろう。
 残った問題は台湾の扱いだった。最重要部分は土壇場になって、次のようにまとまった。

〈米国側は表明した。米国は、台湾海峡の両側のすべての中国人が、中国はただ一つであり、台湾は中国の一部であると主張していることを認める。米国政府はその立場に異議を唱えない。米国政府は中国人自身による台湾問題の平和的解決についての米国政府の関心を再確認する。かかる展望を念頭に置き、米国政府は台湾からすべての米軍と軍事施設を撤退するという最終目標を確認する。当面、米国政府はこの地域の緊張が緩和するのに従い、台湾の米軍と軍事施設を漸次減少させるであろう。〉

 アメリカは、中国(北京)政府のいう「台湾は中国の一部」という主張に賛同したわけではない。北京と台北の両方の側が、そう主張していることを認識しているというのである。しかも、中国政府が台湾問題を武力で解決することに反対するとの立場は崩していない。
 米中国交正常化には、まだもう少し時間がかかる。アメリカは日本に先を越されてしまう。
 それでもキッシンジャーは、米中国交正常化を見すえて、こう書いている。
「米中国交回復がもたらした恩恵とは、永遠に友好であるという状態でも価値観の調和でもなく、常に手をかける必要がある世界の均衡が回復されたことであり、さらには、時間が経てばおそらく価値観のより大きな調和が生み出されることである」(もう少しうまく訳せそうだが)
 キッシンジャーはいずれ中国が民主化されるだろうと期待を寄せていた。より全体主義化の道をたどるとは想像していなかったのである。

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