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『三島由紀夫VS東大全共闘』をDVDで見る(1) [われらの時代]

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 全共闘は身体の叛乱であると同時にことばの氾濫でもあった。猛烈な勢いであふれる、そのことばは容易に理解しがたく、気がつけばいつのまにか、それに流され、おぼれてしまっている。そんなことばの氾濫を前に、三島由紀夫はおくせず立ち向かった。1969年5月13日、東京・駒場の東大教養学部900番教室(講堂)で開かれた討論会でのことである。
 この催しを企画したのは東大全共闘駒場共闘焚祭委員会と称する団体だった。団体といっても昔からあった団体ではない。三島との討論会を企画するために急遽つくられた。東大全共闘という名称も、だれでも名乗れたから、それを拝借したにすぎない。
 そのため、あれは東大全共闘ではないとか、三島と討論するならもっとまともなやつを出せというような陰の声も聞かれた。しかし、だいじなのは、あのとき全共闘を称するノンセクトの若者たちが三島に討論を呼びかけ、三島もそれを無視せず若者との討論に応じたことなのである。
 単行本の『三島由紀夫vs東大全共闘』(藤原書店)によると、最初、三島に電話をかけたのは、1947年生まれの東大教養学部学生、木村修だった。三島を呼んでシンポジウムをやろうという話は、すでに同学部の芥正彦(のち演劇家)や小阪修平(のち評論家)などとしていた。三島は「右翼に呼ばれて駒場に行くのは嫌だ、君たちの方が良い」とあっさり了承したという。
 そのときはあくまでも少人数のシンポジウムを考えていたが、実際にふたをあけてみると、900番教室には1000人以上が集まって、2階の座席が抜けるのではないかと心配するほどの盛況だった。
 東大焚祭委員会という名称をつくったのは小阪修平である。安田砦は陥落したが、全共闘運動は終わっていない、芸術、思想面での戦いをつづけるのだという気分が強かった。焚祭には古い思想を燃やす祝祭であると同時に、虚偽に満ちた大学を粉砕するという意味もこめられていた。
 1月19日に本郷の安田講堂(安田砦)が陥落したあと、駒場キャンパスもしばらくロックアウトされ、全共闘の学生は学内から排除された。4月、5月になり、授業が再開されても、駒場寮近辺は民青系によって支配され、全共闘系の学生は近寄れなくなっていた。しかし、正門から左側はその支配がゆるやかで、900番教室(講堂)にはいることができた。そのため、全共闘を名乗る若者たちは、勝手にここを会場にした。
 その会場に三島はやってきた。案内のビラをすべて民青がはがしたらしく、会場を探すのに少し手間取った。このとき、三島は44歳。
 集会はすでに30分ほど前からはじまっていた。黒のポロシャツを着た三島は壇上に立つと、すぐに力強く話しはじめた。

〈今、私を壇上に立たせるのは反動的だという意見があったそうで、まあ反動が反動的なのは不思議がございませんので、立たしていただきましたが、私は男子一度門を出ずれば七人の敵ありというんで、きょうは七人じゃきかないようで、大変な気概を持って参りました。〉

 このときの討論の様子が映像に残されている。
 のちに三島自身がまとめているところによると、この日の討論で、三島は次のようなことを話そうとしていたという。

一は暴力否定が正しいかどうかといふことである。
二は時間は連続するものかといふことである。
三は三派全学連はいかなる病気にかかってゐるかといふことである。
四は政治と文学との関係である。
五は天皇の問題である。

 討論会では、これらの五点がじゅうぶんに討議できたわけではない。全学連批判はおざなりだった。政治と文学との関係もさほど論じられていない。それでもその一端に触れている。なお三島が全共闘のことを最初、三派全学連と認識していたことも指摘しておかなければならない。
 そして、その討論会は全共闘流の言い方をすれば、人を消耗させるものだった。三島も、このようなディスカッションはもう二度としたくないと書いている。

〈パネル・ディスカッションの二時間半は、必ずしも世上伝はるやうな、楽な、なごやかな二時間半であつたとはいへない。そこには幾つかのいらいらうするやうな観念の相互模索があり、また了解不可能であることを前提にしながら最低限の了解によつてしか言葉の道が開かれないといふことから来る焦燥もあつた。その中で私は何とか努力してこの二時間半を充実したものにしたいといふ点では全共闘の諸君と同じ意志を持つてゐたと考へられるし、また、私は論争後半ののどの渇きと一種の神経的な疲労と闘はなければならなかった。〉

 東大全共闘を称する若者たちは、いったい何を言いたいのか、つかみがたいことが多かった。三島はそれをがまんして聞き、何とか理解したところに沿って、真摯(しんし )に自分の意見を述べている。
 2020年に公開されたドキュメンタリー映画と当時の討論会の記録をみると、あのころの熱気がよみがえってくる。あのころ、ぼくは三島の小説をたいして読んでもいなかったが、全共闘つながりの周辺にいたことはたしかである。文学や哲学、美とはまるで無縁の衆生だった。

 三島は快活で精悍な人物だった。その話ぶりは気迫とユーモアにみち、しかも丁寧だった。自分をたたきつぶすために企画された集会に堂々とやってきただけではなく、全共闘の若者たちをむしろ説得しようとしていた。そのため、三島のスピーチは全共闘をなぜ評価するかというところからはじまる。このあたり巧みである。
 こう話している。

〈私は右だろうが左だろうが暴力に反対したことなんか一度もない。これは、私は暴力というものの効果というものが現在非常にアイロニカルな構造を持っているから、ただ無原則、あるいは無前提に暴力否定という考えは、たまたま共産党の戦略に乗るだけだと考えているので、好きでない。東大問題は、全般を見まして、自民党と共産党が非常に接点になる時点を見まして、これなるかな、実に恐ろしい世の中だと思った。(笑)私はあの時東大問題全体を見て、暴力というものにたいして恐怖を感じたとか、暴力はいかんということは言ったつもりもない。〉

 三島は、筋や論理はどうでもいい、ともかくも秩序がたいせつだとする収拾の考え方に嫌悪を感じていた。現存の秩序がおかしければ、暴力をもってしてでも闘うのがとうぜんだと考えていた。だから、全共闘学生の暴力を必ずしも否定しない。
 さらに、三島は全共闘をさらにこう持ちあげる。

〈そしてその政治思想においては私と諸君とは正反対だということになっている。まさに正反対でありましょうが、ただ私は今までどうしても日本の知識人というものが、思想というものに力があって、知識というものに力があって、それだけで人間の上に君臨しているという形が嫌いで嫌いでたまらなかった。具体的に例をあげればいろいろな立派な先生がいる……。そういう先生方の顔を見るのが私は嫌でたまらなかった。これは自分に知識や思想がないせいかもしれないが、とにかく東大という学校全体に私はいつもそういうにおいを嗅ぎつけていたから、全学連の諸君がやったことも、全部は肯定しないけれども、ある日本の大正教養主義からきた知識人の自惚れというものの鼻を叩き割ったという功績は絶対に認めます。(拍手)〉

 三島は全共闘の「反知性主義」に喝采を送っている。東大を頂点とする日本の知性秩序に反逆をくわだてたのは、全共闘の功績だという。
 その知性秩序が「無機的な、からっぽな」戦後の民主主義日本をつくりあげてきたのだ。それに反抗した全共闘は絶対に認められるべきだ、と三島はいう。
 だが、三島と全共闘の共通点はそこまでだ。三島は天皇を中心とする日本を取り戻すことを説くために、ここにやってきた。これにたいし、全共闘はあくまでも祝祭としてのコミューンにこだわった。
 討論は対決となる。だが、その対決は意外な論戦からはじまっている。すなわち、他者とは何か、自然とは何かをめぐる、一見スコラ的な論議である。
 長くなったので、それについては、また次回ということで。

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