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ポランニー『人間の経済』を読む(3) [商品世界論ノート]

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 第1部「社会における経済の位置」のB「制度」から。経済制度をめぐる論考が4本集められている。断片もある。
 市場システムが確立されるのは19世紀になってからである。それは「餓えの恐怖と利得の希望」を誘因とするシステムだった。これまでとちがい、政治や宗教、親族組織などからいちおう切り離されているところに、市場システムの独自性があった。
 しかし、経済を人の暮らしという大きな意味でとらえるなら、市場システムだけが経済ではないことがわかる。市場システム以前には、経済は、いわば「社会に埋め込まれていた」のだ、とポランニーはいう。
 近代社会は契約のうえに築かれている。これにたいし、近代以前の社会は身分を基礎としていた。身分は、家柄や家族内の地位で決められ、人は身分に応じて、それなりの権利と義務を有する。
 近代が契約社会なのにたいし、古代から封建制にいたる社会は身分社会だったということができる。テンニースは契約社会をゲゼルシャフト、身分社会をゲマインシャフトと呼んだ。
 マリノフスキは経済人類学の確立に寄与したが、とりわけ、かれの提示した互酬の概念は画期的な意義をもっている。
 現在、パプアニューギニアに属するトロブリアンド諸島では、互酬的な贈与システムが生みだされていた。
 諸島の住民間でおこなわれていたクラ交易は、いわば国際的な互酬システムだった。クラ交易は「対抗や争いを最小化し、贈物の接受の喜びを最大化するように作用した」。この気前のよい交易は、一種のポトラッチ(富の贈与)だったと理解することもできる。
 野に生きる人びとは個人主義的でも共産主義的でもなかった。ただ、市場システムとは異なる制度をもっていたのだ、とポランニーはいう。
 ここでは「物的財の生産と分配は非経済的種類の社会関係のなかに埋め込まれている」。そこには経済システムも経済的動機も存在しなかった。存在するのは社会組織であって、経済はあくまでも、そのなかに組みこまれているのだった。
 社会組織は複雑な親族関係と婚姻関係から成り立っており、そこに互酬関係が発生していた。そこでは計量的な経済関係は存在しない。
 マリノフスキは、経済的な接受関係を「純粋贈与」から商業的交易まで分類したが、彼自身も純粋贈与は特別で異例なものとみなしていた。
 贈り物には、返礼が想定されている。だが、それは交易とはほど遠い。
 村どうしでは、魚とヤムイモの儀礼的交換がなされる。その大きな目的は、互いの友好関係を確かめることだ。
 親族間の互酬は、もちろん経済的な取引ではありえない。財の生産と分配は、労働の組織化と同様、親族によって制度化されている。採集のための土地や牧草地、耕作地は親族によって管理されている。基本物資の貯蔵は、親族の協同的活動の一部である。
 そこには経済的な観念が存在しない、とポランニーは述べている。
 ポランニーは互酬を単なる原始社会の風習とはとらえていない。未来の経済を開くカギとも考えているのだ。
 経済的取引が発生するのは、アルカイックな段階、すなわち古代王国や古代帝国が登場してからである。
 アルカイックな社会と部族社会の大きなちがいは何だろう。
 ポランニーは「経済的なもの」が次第に出現するところに、そのちがいをとらえているようにみえる。すなわち、生活の一般的過程から経済活動が分離しはじめるのだ。経済的取引そのものが出現する。
 アルカイックな社会の中心には国家がある。そして、国家を中心とする再分配経済がおこなわれていた。
 シュメールの都市国家もエジプトのファラオの帝国も、みごとに再分配経済を運営していた。しかし、メソポタミアでは、基本は再分配経済でありながら、すでに経済取引が導入されていたことにポランニーは注目している。
 互酬は部族内の敵対と争いを避け、部族の連帯を助けるための統合手段だった。これにたいし、再分配は国家内部の共同体的絆を強化し、中央権力への積極的従属を促進することを目的とする。
 部族社会にしても、アルカイックな社会にしても、念頭に置かなければならないのは、こうした共同体が儀式や魔術、タブー、宗教的規範、身分などによって縛られていたことである。
 そこになぜ、経済的取引が出現するのか。
 非合理な束縛から逃れた個人が利得的なバーターに乗り出したというのは、19世紀の経済合理主義による解釈にすぎない、とポランニーはいう。
 実際には、メソポタミアでは、経済的取引は、国家の承認のもと神の代理人の名によってなされたのだ。アテネのアゴラでの取引についても、「アテネのアゴラは現代の意味での市場の自由を知っていなかった」と、ポランニーは記している。
 互酬の場合は、贈り物にたいする返礼は慣習によって定められている。再分配の場合は、税ないし義務のかたちで、財はいったん中央に集められ、そののち中央からある種の配給がなされる。
 メソポタミアでは、こうした再分配と別に、銀や小麦、油、ぶどう酒、煉瓦、銅、鉛などが取引されていた。だが、それはあくまでも緊急時を乗り切るための措置だった。
 アリストテレスによれば、「野蛮人たち」のあいだで、こうした取引がなされるのは、あくまでも自給性を回復するためだったという。それは利得ぬきの交易だった。世帯主は必需品を、最低限度を超えない範囲で隣人に頼ることを認められていた。信用貸は排除され、交換される等価物がない場合、その負債は徐々に返済されることになっていた。
 ここでは市場は存在しない。等価物は、一定量の貝が豚と交換されるというように、慣習や伝統によって定められていた。
 原始社会では食料の取引はタブーとみなされていた。禁止が解けはじめるのは、古代国家が登場してからだ、とポランニーはいう。
 バビロニアなどの灌漑帝国においては利得抜きの公正価格が定められ、それによって、労働の治水事業への動員が可能になった。それは法の定めによる取引であり、あくまでも市場への発展は回避された。交易に関しても同様である。
 これらは再分配経済のもとでの措置にほかならないが、そのことが個人の自主性を大きくしたことはまちがいない、とポランニーは論じている。なにやら、社会主義的市場経済の原型をみるようである。

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