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古代ギリシアの経済──ポランニー『人間の経済』を読む(6) [商品世界論ノート]

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 アッティカ(アテナイ、すなわち古代アテネとその周辺地域)の土壌はオリーブ油とワインをつくるのに適していた。だが、農耕地が決定的に不足していたため、アテナイ人は穀物の確保に最大限の努力を払わなければならなかった。
 紀元前5世紀から4世紀にかけてのアッティカの人口は20万から30万人ほどである。疫病がはやるたびにその人口は増えたり減ったりした。全人口のうち、市民の割合は半分たらず。奴隷が4割ほどで、残りは居留外国人だった。
 奴隷と居留外国人が地元産の大麦を食べていたのにたいし、市民は小麦を食糧としていた。その小麦はほとんどすべてを輸入に頼っていた。もっとも魚はよくとれたはずである。
 穀物供給への関心がアテナイの対外政策を支配した、とポランニーは書いている。アテナイはどういうやり方で穀物を確保したのだろうか。
 ソロン(前639〜559)は穀物の輸出を禁止した。アテナイの住民はアテナイ以外のどこにも穀物を輸送することを認められず、違反した場合には厳しい罰が科せられた。
 そのころ、アテナイが穀倉としていたのは、トラキア(ヨーロッパ寄りの黒海入り口)と黒海沿岸だった。
 ペイシストラトスはこの地域の穀物を確保するために軍を送った。黒海の周辺地域がアテナイの統制下にはいるのは紀元前5世紀になってからである。そのころまで、岬の沖や海峡は航行に危険があるため、穀物輸送には陸路で交易港にでるルートが使われていた。
 そんなとき重要性を増してきたのが、紀元前7世紀に建設されたビュザンティオン(現イスタンブール)だった。前512年、ペルシア戦争でビュザンティオンはペルシア軍によって焼かれたが、前479年に奪還され、復活を遂げる。
 前478年、ペルシア帝国に対抗するため、アテナイを盟主とし260の都市国家がデロス同盟を結成した。そのころ、トラキアでは、オドリューサイ族が帝国を築き、アテナイのトラキアへの伸張をはばんでいた。
 オドリューサイ帝国はプロポンティス(マルマラ海)に向かって勢力を広げ、やがてビュザンティオンを征服する勢いとなった。ペリクレスはギリシア人を保護し、交易路を確保するため、軍を率いてプロポンティスに向かった。
 前447年、アテナイはエウボイア(ギリシア北西部)の反乱を鎮圧した。その港が黒海方面から穀物の届く拠点になっていたためである。
 そのころ、アテナイはヘレスポントス(ダーダネルス海峡)からエーゲ海をへてギリシアにいたる航路を保全するため、途中の島々に移住市民団を送りこんでいる。
 ペリクレスは黒海地域のギリシア都市をアテナイの支配下に置き、前437年から436年にかけ、大艦隊を率いて黒海に乗り入れた。
 すべてはアテナイの穀物を確保するための軍事的制圧だった。ビュザンティオンはその結節点となった。
 穀物は黒海のアテナイ植民地で集められ、ビザンティウムを経て、海軍力に守られ、特定の交易路に沿って、ギリシアに運ばれていた。
 ペロポネソス戦争(前431〜404)でスパルタに敗れたあと、一時、アテナイは穀物貿易の支配権を失う。それはまもなく回復される。だが、黒海は、いまや強大な勢力となったボスポロス帝国によって掌握されていた。
 紀元前4世紀には、アテナイはボスポロス帝国から最恵国の待遇を得て、黒海の港から穀物を積み出すようになった。前世紀にもっていた独占をもはや享受できなくなったのだ。
 このころの交易は都市国家による管理交易だったといえる。穀物の供給は条約を通じて確保された。アテナイは黒海の西側半分の統制権を確保しようとするが、それは成功しない。
 まもなくマケドニアが勃興し、エーゲ海帝国の建設に乗り出す。アレクサンドロスの父、ピリッポスはアテナイの穀物補給ルートを締めつけるため、トラキアに進攻するとともに、ビュザンティオンを自己の陣営に引きこんだ。
 紀元前336年にアレクサンドロスが王位につくと、黒海からアテナイへの穀物ルートは完全に断ちきられ、アッティカは最悪の飢饉に見舞われた。ペリクレスの政治的天稟によって築かれたアテナイの交易は、事実上、終わりを告げた。
 ペリクレスが黒海方面に穀物供給ルートを切り開かざるをえなかったのは、ペルシアとシラクサの勢力が、穀物の豊富なエジプトとシチリアをそれぞれ押さえているためだった。アテナイによるエジプトとシチリアの攻略は成功を収めなかった。

 アテナイでは、穀物交易は管理されていたが、管理されていたのは穀物交易だけではない。交易全般が管理されていたのだ、とポランニーはいう。
 アテナイが管理交易をおこなっていたのは、木材、鉄、青銅、麻、蝋なども同じだった。これらの品物は、船の材料となった。
 アッティカの森林はすでに伐採しつくされていたから、木材は海外から輸入しなければならなかったのだ。マケドニアとトラキア、小アジア北部が木材その他の主な供給地だった。こうした商品を手に入れるには、供給先と条約を締結しなければならなかった。
 もうひとつ重要な貿易品が戦争捕虜だった。奴隷の売買は次第に従軍商人にゆだねられるようになる。
 アテナイでは、武器や毛織物、食料品、ワイン、椅子や寝台、絨毯や香料など、多くの奢侈品や工芸品を手に入れることができた。アテナイにこうした品物が流れこんだのは、海の支配のたまものだった、とポランニーは書いている。
 アテナイ人は対外交易の場であるエンポリウムと、地域市場とをはっきり区別していた。アテナイのエンポリウムはピレウスにあり、地域市場はアゴラにあった。そして、アテナイの政府はそのふたつをしっかりと統制していたのだ。
 アテナイのエンポリウムの最大目的は、安い穀物を確保することである。それは必要不可欠でもあった。
 帝国が没落すると、アテナイは海上路の軍事的支配を失い、外交と穀物販売者の意向に頼らざるを得なくなった。アテナイは黒海の君主国からようやく同意を勝ちとる。だが、かつてのような穀物にたいする独占権はもはや存在しなかった。そのことが、いわば市場を生むことになる、とポランニーはとらえているように思える。
 穀物の価格が高くなるのを防がねばならなかった。アテナイは、アゴラでの価格を外部の変動から分離するという方法をとった。ピレウスのエンポリウムに着いた穀物は3分の2が市によって管理され、仲買人による買い占めは禁じられた。市当局は、それによって、できるだけ価格変動を押さえようとしたのである。
 エンポリウムでの価格は上昇しがちだった。しかし、市当局は商人の公徳心に訴え、決められた「公正価格」で売るよう奨励し、それに応じた商人を顕彰した。商人の利が多くなりすぎるときには、献金が課されることもあった。
 前4世紀にマケドニアが台頭すると、伝統的な交易路は断ち切られ、アテナイは前330年から326年にかけ飢饉におちいった。アレクサンドロスの進攻により、黒海からの供給は激減した。
 その後、東地中海の穀物市場を組織したのは、プトレマイオス朝のエジプトだった。
 プトレマイオス朝は、アレクサンドロス大王の死後、ギリシア系のグレコ・マケドニア人がつくった王朝だった。このとき、新たにつくられた町、アレクサンドリアは、東地中海最高のエンポリウム、すなわち穀物取引の中心地となるよう設計されていた。
 アレクサンドリアを建設し、穀物市場を組織したのは、ナウクラティス(ナイル川デルタのギリシア植民都市)のクレオメネスだという。アレクサンドロスの信頼の厚かったクレオメネスは、プトレマイオス王朝の創始者、プトレマイオス・ソテルによって暗殺された。
 ポランニーによれば、クレオメネスこそが東地中海の世界穀物市場を創設した人物だった。その時期はギリシア世界が飢饉におちいっていた前330年前後である。
 アレクサンドリアの市場では、ギリシア、シリア、フェニキアの商人たちが活躍した。輸出される穀物はほとんど国家統制のもとに置かれており、仲買商人などは排除されていた。飢饉の時期、その固定価格は異例の高さに設定されていた。
 アテナイはこの措置に反発し、クレオメネスをあしざまにののしった。だが、この非難は額面どおり受けとるわけにはいかない、とポランニーはいう。アテナイで価格が上昇したのは、黒海方面からの供給が失われたためだった。アレクサンドリアの市場はそれを補ったのである。
 アテナイが反発した理由は、むしろアテナイではなくアレクサンドリアが、穀物市場の主導権を握ったからだろう。その後、アテナイは穀物を求めて西方に目を転じた。だが、この抵抗は失敗する運命にある。
 ポランニーはこう書いている。

〈独立と支配にたいするアテネの甘い見通しのことごとくに最終的な審判を下すことになる力は、アテネがいまや目を向けはじめた西方から出現した。ローマが胎動を開始したのである。それは、数世紀のうちに、新しい市場組織も、ギリシアの管理された交易の試みも、両方とも潰してしまった。ローマはすべての供給源──シシリー、リビア、エジプト、クリミア、小アジア──をその軍事的・政治的支配下に置くことによって、食糧供給を確保した。アテネ人の夢は、ギリシア文明を、ずっと矮小化した形でではあるが、近代に伝えることになるこの勢力のなかに実現されたのである。〉

 なかなか、みごとなまとめである。

 だいじなことを書き忘れている。それは古代の貨幣についてである。
 ヘロドトスは、アナトリアのリュディア人がはじめて金貨や銀貨をつくったのは、豊富な金銀に遊びの精神が結びついたからだと考えていた。もちろん、このときヘロドトスのなかで、金貨や銀貨は市場システムと結びついてはいなかった、とポランニーは書いている。
 アリストテレスも国家運営については論じるものの、市場システムにはふれない。交換とからんで、貨幣を論じるものの、利潤の発生は想定されていない。鋳貨が必要だとされているが、あくまでも交換のさいに計算を容易にする手段としてである。
 ギリシアでは地域の貨幣と対外貨幣がはっきりと区別されていた。「小額の銀貨、そしてとくに紀元前4世紀以降は、青銅貨が地域の交易またはアゴラに利用され、スタテル貨のような大きい額面の銀貨は対外交易に利用された」とポランニーは書いている。
 これはとうぜんのことかもしれない。だいじなのは大きい額面の貨幣が地金の価値で流通したのにたいし、地域の貨幣が都市の権威によって、価値を裏づけられていたことである。地域の貨幣は地金の価値をもたず、刻印で示された計量単位(ドラクマ)をもつ代用貨幣だった。
 古い鋳貨は時折回収され、新しい鋳貨に置きかえられていた。銅貨が出されたのは、銀貨が欠乏したためである。改鋳のさいには、貨幣単位の変更もこころみられたようだ。
 地域の鋳貨と対外鋳貨は制度的には分離されていた。にもかかわらずギリシアでは、それらは相互に交換可能だった、とポランニーはいう。
 それを可能にしたのが銀行家の存在である。こうした銀行家が現れるのは紀元前400年ころからで、まずアテナイに出現し、またたくまにギリシア世界全体に広がった。かれらの役割は、大きな額面の鋳貨を小さな額面の鋳貨に、あるいは外国貨幣をアテナイ貨幣に(その逆も)取り替えることだった。
 銀行家の役割は次第に大きくなっていった。貨幣や宝石を保管するようにもなった。利子が支払われたわけではない。預け入れにさいしては、むしろ、保管料を払わねばならなかった。銀行家が預金者の代理人として、貸し付けをおこなう場合もあったという。
 銀行家が奴隷か解放奴隷、あるいは外国人だったというのは、当時の銀行家の地位の低さを物語っている。
 しかし、銀行家はやがてなくてはならないものになっていく。貸し付けもおこなっているし、質屋のような仕事もしている。預金と支払い業務もはたすようになった。だが、それはごく初歩的なものである。当時は、銀行に基礎を置くいかなる信用機構も存在しなかった。
 ここで、国家と市場の関係という話がでてくる。財政基盤を強化したり、緊急事態に対処したり、臨時の出費に対応したりするために、国家は市場を利用するようになった。これがはじまったのは紀元前5世紀ごろからだという。
 たとえば、ある都市はペロポネソス戦争の費用を捻出するために、市民に不要な奴隷の供出を命じ、集めた奴隷を売却している。
 ビュザンテイオン(コンスタンティノープル)は、食糧の供給が途絶えたとき、黒海の穀物船を拿捕し、穀物を市民に売却したうえで、その売り上げの一部を商人に賠償金として支払っている。そうした話は枚挙にいとまがない。
 ポランニーによれば、笑い話のようなものもある。
 エーゲ海中部にあるナクソス島の僭主リュグダミスは、追放した一味の没収財産が安い値でしか売れないことがわかると、その財産を亡命者自身に売りつけたという。
 ディオニュシオスはみずからの支配するシュラクサイ(シラクサ)で、だれからも貸し付けを受けられず、自分の宮殿の家具を売却し、そのあとこれを購入者から没収するという策にでた。
 いずれも国家が市場を利用するようになったことを示すエピソードだったといえるだろう。

 だが、古代ギリシア時代に生まれた、都市国家と一体の市場は長続きしなかった。
 アレクサンドロスが活躍した紀元前4世紀後半のヘレニズム期から、ローマ帝国全盛期の紀元2世紀までが古代「資本主義」の全盛期だった、とポランニーはいう。
 ギリシアのアッティカ地方は次第に交易中心地から離れ、東地中海ではアレクサンドリア、アンティオキア(シリア)などが勃興し、ロードス島やデロス島が海上交易の大集積地となった。このころプトレマイオス朝のエジプトは、信じがたいほどの富を誇っていた。
 ポランニーによれば、古代史家のロストフツェフは、古代資本主義はローマ帝国の衰退とともに衰弱したとみる。これにたいし、マックス・ウェーバーの見解は正反対で、むしろローマ帝国の勃興こそが、古代資本主義の没落を招いたととらえているらしい。
 ウェーバーは古代資本主義が近代の資本主義とはまったく異なるものだとみていた。それは都市国家を抜きにしてはありえない制度だった。基本的に再分配、実物経済のうえに成り立っていたローマ帝国では、むしろギリシア型の古代資本主義は排除されたという。ポランニーもまたこの見解に同意しているようにみえる。
 ローマの経済は、土地と人間の征服、略奪、分捕りのうえに成り立っていた。支配地域の拡大とともに奴隷や隷農が生みだされ、そこから得られた財や財宝はローマ市民のあいだに分配された。私的な事業は禁止され、公共事業と公共サービスが繁栄のあかしとなっていた。
 ここには市場的方法がはいりこむ余地はなかった。古代ローマ世界においては、交易や貨幣の使用はみられたにせよ、ギリシア時代のように市場が組織化されることはなかったというのが、ポランニーの結論のようである。
 ギリシアの衰退とともに、古代資本主義もついえた。それでもギリシアが民主主義と市場制度を後世に伝えたことは、大きな意義をもっている。

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