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中世史(1)──宮崎市定『中国史』を読む(5) [歴史]

 220年、曹操の子、曹丕(そうひ)は漢の献帝に迫って、帝位を禅譲せしめ、魏の文帝となった。事実上の王位簒奪だった。
 これにたいし、蜀の劉備はみずからの正統性を主張して成都で帝位につき、つづいて呉の孫権が天子の位についた。こうして中国には一時、3皇帝が出現した。
 のちに司馬光は魏を正統とし、朱子は蜀こそが正統だとした。しかし劉備が漢の一族だというのは疑わしく、歴史学の立場では司馬光のほうが筋がとおっている、と宮崎はいう。
 三国時代以降は、中世の特徴が顕著になってきた。
 経済は停滞した。黄金が流出し、貨幣量が不足したため、布帛や穀物が貨幣代わりとなった。商業は衰え、農業の重要性が見直される。
 この時代には荘園が発達した。荘園で働く賎民は、唐にいたって部曲と総称されるようになる。
「部曲なるものの代表的な性質は、飢饉などの際に捨て児となり、主人に拾い育てられた者で、その恩義があるから主人の許を離れられない下僕のことであった」と宮崎はいう。
 後漢末は、各地に戦乱が勃発し、飢餓にさらされた窮民が増大した。
 そんな時代に、曹操は常時戒厳令をしいて天下を治めようとした。軍による統制が優先され、官尊民卑の風潮が濃厚になった。
 漢から三国に移るさいには、大きな社会変動がみられた。農民は城壁をめぐらせた郷や亭を離れて、耕地と一体となった村落で暮らすようになった。そして、その周辺には、ちいさな要塞がつくられた。
 都市もまた変わった。農民は都市から締めだされ、都市はもっぱら官吏、軍隊、商工業者の居住する場所となった。
 軍は膨張しつづけたが、そのなかには異民族出身者が数多く混じっていた。こうした軍隊を維持するために、魏は屯田をおこない、大規模な耕地を造成した。
 屯田は政府の荘園にほかならなかった、と宮崎は書いている。兵は戦うだけではなく、みずからを養うため耕作にも従事したのである。
 曹操はこのあやうい綱渡りを、戒厳令を発することで持続させようとした。
 三国のなかでは、魏がもっとも勢力が強かった。魏、呉、蜀の実力は6対2対1くらいか、と宮崎はみている。劣勢にたつ呉と蜀は攻守同盟を結び、魏と対抗した。だが、次第に魏の優位が顕著になってくる。
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[三国時代の地図]
 蜀は劉備の子、劉禅の時代に魏に降った(263年)。そのころ、魏を牛耳っていたのは将軍司馬懿(しばい)の息子、司馬昭だった。曹操から5代目にあたる魏王は司馬昭を倒そうとしてクーデターを起こすが、逆に殺され、5年後、魏は滅亡する。
 司馬昭の子、司馬炎が晋王朝を創建し、武帝となった(265年)。
 晋は280年に呉を滅ぼし、天下をふたたび統一した。しかし、その前途には大きな困難が待ち受けていた。
 モンゴル系の匈奴、チベット系の羌(きょう)や氐(てい)、モンゴル系ともトルコ系ともいわれる鮮卑(せんぴ)などの遊牧民族のなかから内地に住む者が多くなり、漢民族と摩擦をおこすようになっていた。
 それ以上に問題だったのは、王族内部の内訌である。武帝の死後、「八王の乱」が発生する。
「武帝が王室を強化しようとして一族諸王を封建して、これに兵権を授けた結果は、みじめな失敗に終った」と宮崎は書いている。
 政権を取るまで結束していた司馬氏の一族が政権を取った途端に、反目し憎悪しあうようになった。加えて、宮廷では、貴族化と奢侈化が進行していた。
武帝の子、恵帝が東海王の越によって殺されると、内地の匈奴、氐、鮮卑が叛乱を起こし、収拾がつかなくなった。
 東海王の越は匈奴(漢を称していた)の討伐に向かうが、陣中で病死する。すると、匈奴の武将、石勒(せきろく)が洛陽を落とし、晋の懐帝を捕らえて、死に処した。それからまもなく長安が陥落し、西晋は滅亡する(316年)。
 いっぽう、晋の一族で瑯邪王(ろうじゃおう[瑯邪は現在の山東省から江蘇省にかけての郡])の司馬睿(しばえい)は、華北に見切りをつけ、呉の旧都、建業[現南京]で自立をはかり、長安陥落後、天子の座についた。東晋の元帝である(318年)。
 淮水(わいすい[現在では淮河と呼ばれる])と揚子江(長江)は、北方からの侵入軍を防ぐ天険の役割を果たした。そのため、東晋政権は立ち直りの時間を稼ぐことができた。北方では五胡と呼ばれる異民族が覇権を争いながら、収奪と虐殺をくり返していた。
 南北朝時代がはじまろうとしている。
 華北では後秦と後燕が盛んだったが、やがて鮮卑族拓跋(たくばつ)氏の北魏が長城の南に建国し、軍事的な成功を収めていく。その都は最初、平城(現大同)に置かれた。
 439年、黄河一帯の中原を統一した北魏は、敦煌にいたるまでの国々を平定した。「北魏が覇を制するに至った原因は、長城外に同じ遊牧民族の集団があり、そこから絶えず人員馬匹の補給を受ける便があったためである」と、宮崎はいう。
 だが、鮮卑族が内地に移住すると、こんどは北方に新民族、柔然が勢力を増し、北魏はその脅威にさらされるようになった。493年に北魏の孝文帝は、都を洛陽に移した。その後、北魏は急速に中国風文化を取り入れたため、本来の素朴剛健な気風を失っていくことになる。
 江南では東晋王朝が衰亡に向かいつつあった。宮崎によれば、「東晋はもともと西晋王家の一派が華北から官僚、軍隊を引率して、江南の新天地に流れこみ、いつかは中原の失地を恢復することを理想として、一時的に住みついたものである」。
 したがって、南の人びとから不満が出るのはとうぜんだった。それを東晋の朝廷は無視する。やがて不満が爆発し、それを押さえるために軍人が台頭した。
 そうした軍人のひとりが劉裕だった。劉裕の関心は、東晋王朝を簒奪して、新王朝を建てることにあった。そこで、東晋の安帝を殺し、恭帝をいったん位につけてから、禅譲によって帝位を譲り受けるかたちをとった。
 こうして420年に宋の武帝が登場する。その3年後、華北では、北魏の太武帝が即位した。
 北の北魏と南の宋が並立する時代になったのだ。そのため、この時代を南北朝時代という。
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[南北朝時代。「世界の歴史まっぷ」から]
 581年に隋が成立するまでの南北朝時代の歴史は複雑である。
 宋の武帝は土断(戸籍調査)を実施したものの、北部出身の貴族たちには手をつけることがなかった。その代わり、武帝は政治的な決定を側近のみ(中書と呼ばれる)とおこない、貴族を骨抜きにするよう努めた。中書には、優れた才能をもちながら家柄の低い寒士が選ばれた。
 秘密側近政治の欠陥は、ブレーキがきかず武断におちいりやすいことだ、と宮崎は指摘する。とくに昏愚な天子が位についたときは、宮中が暴威にさらされやすかった。そのせいか、宋は治世60年にして、その大臣、蕭道成(しょうどうせい)によって滅ぼされることになる(479年)。
 そのあと斉が建国されるが、斉も502年に滅んだ。
「斉王朝もまた前代の宋と同じ失敗の跡を辿ったわけで、天子が平気で大臣を殺し、一族がまた互いに殺しあい、最後に大臣が天子を廃して殺す結果になる」と、宮崎は解説する。
 斉を倒した蕭衍(しょうえん)が梁の武帝となった。在位48年におよぶ治世の前半は、血なまぐさい南北朝時代でも、もっとも平和な時代だったといわれる。しかし、仏教に心酔した晩年は、政治的な決断力がにぶり、国家を荒廃におとしいれ、みずからも非命に倒れることになる。
 華北の北魏では、孝文帝のもと洛陽を中心に中国文化が復活していた。北魏は鮮卑族の王朝である。その上層部が貴族化すると、軍人たちは不満をいだくようになった。
 孝文帝の孫、明帝の時代に叛乱が勃発する。宮中は乱れに乱れ、うまく対処できない。叛乱を鎮圧しようとして、豪族が立ち上がるが、そのあとも混乱がつづいた。
 そうしたなか勢力を強めたのが、高歓と宇文泰だった。両者はそれぞれ魏王を立てたため、これによって北魏は分裂し、東魏と西魏とわかれた。だが、名目的な王朝はけっきょく滅んで、北斉(550年)と北周(557年)に衣替えすることになる。
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[東魏、西魏、梁の時代。ウィキペディアより]
 そこに登場するのが、侯景という人物である。侯景の乱が発生する。それによって、中国は南北ともに、さらに分裂状態となり、何が何だかわからなくなってくる。
 もともと侯景は軍功により、東魏の高歓から河南13州をまかされていた。高歓の死後、その跡継ぎ、高澄が兵を出して、侯景を攻めた。侯景は西魏に救いを求めた。だが、西魏は動かなかった。同時に、侯景は梁に服属したいと、梁の武帝にも働きかけていた。
 東魏との戦いに敗れると、侯景は部隊とともに梁に逃げこんだ。しかし、梁に帰順したわけではなかった。長江を渡って、梁の都、建康(現南京)を攻め、86歳の武帝を幽閉し、餓死させたのである(549年)。
 侯景の粗暴な振る舞いに江南人は怒り、立ち上がって、侯景を殺した。この戦いにより建康は焼け野原になってしまう。そのため、梁の元帝は都を湖北の江陵に移した。
 そのころ、東魏では高澄が暗殺されて、弟の高洋が魏帝を廃し、北斉の文宣帝となった。北斉は梁の混乱に乗じて南下し、淮南[淮河の南]の地を占拠した。
 これをみた西魏も黙っていない。丞相の宇文泰は梁の新都、江陵を攻め、梁の元帝を殺した(554年)。そのあと、梁の国名は名目だけとなり、領土の半分は西魏に奪われた。
 ところが、梁の旧都、建康では梁の将軍、陳覇先が元帝の息子をいったん帝位に就け、その位を譲らせて、陳を創始する(武帝、557年)。
 同じ年、宇文泰の息子、宇文覚は魏王から禅譲されて、北周を建国した。
 こうして、北斉、北周、陳の時代がはじまる。
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[北斉、北周、陳。ウィキペディアより]
 その後、北斉では異常性格の暴虐な帝が続出した。北斉の国政の乱れに乗じて、北周の武帝が北斉の都を落としたのは577年のことである。
 だが、華北を統一したのもつかのま、武帝の死後3年にして、北周は外戚の楊堅によって乗っ取られる。楊堅は幼帝を廃し、隋を建国し、文帝となった(581年)。
 文帝はまず江陵の後梁を取り潰してから、陸路、水路にわかれて、陳の都、建康を攻略し、陳を滅ぼした(589年)。これにより、南北に分断されていた中国がようやく最統一されることになる。
 だが、一時の統一はあっても、中世の分裂的傾向は収まらなかった、と宮崎は論じている。このつづきは次回。
 それにしても、三国時代から南北朝時代にかけては、ものすごい時代だと思わないわけにはいかない。
 一瞬の油断もならない血みどろの時代だ。しかも、ややこしい。
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