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中世史(2)──宮崎市定『中国史』を読む(6) [歴史]

 楊堅は北周を乗っ取り、同じ武川鎮軍閥(北魏守備部隊)の宇文一族をことごとく殺して、隋の文帝として即位した(581年)。
 文帝は南朝の陳を滅ぼし、中国再統一の偉業を成し遂げ、在位24年で亡くなる。科挙をはじめたのも文帝である。
 その子、煬帝は豪奢を好み、しきりに土木工事をおこして、民力を疲弊させた。かれの最大の事業は白河から黄河、淮水、揚子江を経て銭塘江にいたる南北の大運河を開いたことである。
 だが、3回にわたる高句麗侵攻の失敗が命取りになった。各地で叛乱が勃発したため、大運河沿いに揚州まで南下したところを、煬帝は近衛軍によって殺された(618年)。
 このとき、武川鎮軍閥の李淵は、その子、李世民とともに都の長安にはいり、煬帝の子、恭帝を立てた。だが、すぐに禅譲によって天子の位についた(618年)。これが唐の高祖である。
 宮崎によれば、李氏は「異民族気質を濃厚に受けた、いわゆる漢胡混淆の血統」だったという。
 唐代は約300年にわたってつづいた(618〜907)。
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[唐地図。ウィキペディア]
 高祖、太宗、高宗と3代つづいたあと、則天武后の簒奪にあう。だが、玄宗が唐を中興した。それ以降は後期の混乱期となる。
 唐といえば律令制といわれるが、律令は漢魏の時代からあったもので、注目すべきは均田法だろう、と宮崎はいう。
 均田法は華北中原を中心におこなわれた土地制度である。人民は政府から土地の分配を受け、課戸と称された。課戸は毎年、田租を収め、力役、雑徭にあたらねばならない(いわゆる租庸調)。
 すべての土地を政府が所有しているわけではなかった。王侯貴族高級官には、永業田や賜田が与えられていた。また市街地に住む商工業者は原則として土地の配分を受けなかった。また揚子江以南の地方は、均田法からはずされていたという。
 高祖は在位7年のうちに統一を完成し、軍功の大きかった次男の李世民に位を譲った(626年)。これが太宗である。
 太宗が在位した貞観の23年は太平の時代だったといわれる。東西交易がふたたび盛んになった。太宗はトルコ系遊牧民の突厥を撃破し、ペルシアにいたる交通路を確保した。西方からは絹の代価として銀が流入し、経済をうるおした。
 事態が急変するのは、その次の時代である。
「太宗の子高宗は即位の後、太宗の妾で尼となっていた武氏を連れ戻して寵愛し、秘書として用いるうちに、武氏は宮中に勢力を張り出した」と宮崎は書いている。だが、武氏は尼にはなっていなかったらしい。
 武氏は高宗に代わって次第に宮中の実権を握り、高宗の死後に即位した中宗を廃して、みずから天子となった。武則天(則天武后)である。このとき、国号は周と改められた(690年)。
 この奪権には無理があった。武則天は唐の宗室や功臣の家などを取り潰し、その一族を殺した。しかし、16年後、みずからも反対勢力によって幽閉され、中宗が帝位につく。このときの対応が不徹底だったため、またも武氏が盛り返し、中宗の皇后韋が実権を握る。中宗は毒殺された。
 中宗の弟で睿宗の子の李隆基が兵を挙げて、韋皇后と側近、ならびに武氏の残存勢力をことごとく殺し、睿宗を位につけた。その3年後、李隆基は父から位を譲られ、皇帝となる。すなわち玄宗である(712年)。
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[玄宗。ウィキペディア]
 玄宗時代に唐は栄えた。漢の五銖銭以来中断していた貨幣制度が復活して、開通元宝が鋳造され、経済は好景気を迎えた。
 アラビアではムハンマドがあらわれ、イスラム帝国が生まれた。ササン朝ペルシアは滅亡し、ゾロアスター教を信じるペルシア人はアラブ人に追われ、シルクロードを経て、中国にやってきた。これにつづき、大食人、すなわちアラブ人が海路で渡来し、広州、泉州、揚州などに拠点をつくった。こうして、世界的な大循環交通路ができあがり、国際交易がにぎわった。玄宗は国境の警備と貿易の保護に力をいれた。
 だが、繁栄は弊害も生んだ。「玄宗と楊貴妃との逸楽生活は、官僚、軍隊の紀綱を解体せしめた」と、宮崎は記している。そこに異民族色の強い河北の軍閥、安禄山と史思明が立ち上がり、叛乱をおこした(755年)。
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[楊貴妃。ウィキペディア]
 玄宗は蜀に逃れ、その子の粛宗は、いわゆる安史の乱の鎮圧に5年を費やした。その後、唐はすっかり変わってしまう。中央政府の権力は次第に衰えていった。
 それでもまだ統一は保たれていた。新たな税制が導入されたためである。粛宗は財政を確たるものにするため、塩の専売法を実施した。塩だけではない。酒や茶、鉱物、川渡しにいたるまで、あらゆる物品に税がかけられるようになった。
 粛宗のあと、代宗から徳宗の時代になると、均田法が廃止される。農民は土地所有を認められ、従来の租庸調に代わって、春と秋に銭で税を納めることになった。しかし、多くの農民は実際には現金収入を持たないため、絹と穀物で納税することも認められていた。
 宮崎はこう書いている。

〈安禄山の乱後、唐王朝は最早や統一国家ではなくなり、河北を始めとし、各地に軍閥勢力が割拠して、半独立の状態にあった。併(しか)し長安を都とする唐王朝は大運河の沿線を確保することによって、財政国家に変身してその命脈を保持することができた。〉

 しかし、唐でも後漢末期と同じ症状があらわれてくる。すなわち官僚の党争と宦官の専横である。何代にもわたり宮中でくり返される勢力争いは、とても細かくは紹介しきれない。そして、いつのまにか宦官が実権を握るようになった。
「併し朝廷で大臣が派閥争いし、宮中では宦官が天子を愚弄し、天子は自暴自棄となって奢侈宴楽に耽っている間に、社会には天地を驚動するような大事件が進展しつつあった」と宮崎は書く。
 すなわち、黄巣の乱が勃発するのである(875年)。
 政府が塩を専売とすると、闇商売がはやり、それを政府が取り締まると、闇商人は秘密結社を組織して対抗するという循環が生まれていた。
 山東省と河南省のの省境に近い黄河のほとりで活動していた黄巣も、そんな私塩の密売に従事していた一人だった。
 王仙芝につづき、黄巣は兵を集めて乱をおこし、秘密結社間の情報網を利用して、官軍を撃破した。黄巣の軍は長江を渡り、広州を落とし、ふたたび南北を往復して、都の長安を占領した。
 天子の僖宗は蜀に逃げ、そこで軍閥の李克用に助けを求め、賊軍から降った朱全忠とともに黄巣を追いつめ、これを殺した。
 その後、李克用と朱全忠は争い、朱全忠が中原を制する。孤立無援となった唐王朝はまもなく滅び、朱全忠が後梁の太祖となった(907年)。
 それから宋によってふたたび中国が統一されるまでを五代十国時代という。
 後梁の範囲は黄河沿岸の華北中原地帯に限られていた。それ以外の地域では、黄巣の乱から生まれた軍人集団が、それぞれ独立政権を樹立するようになった。
 浙江省一帯では呉越、その領土をおおうように江蘇、安徽、江西の南唐(呉国)、湖南省方面には楚、福建省には閩(びん)、広東省には南漢、このほか四川省には蜀、長江中流の荊州には荊南などが乱立した。
 そして、中原では、権力争いにより、後梁をはじめ五代にわたる王朝が継起した。すなわち後唐、後晋、後漢、後周である。このかん、都は汴州(べんしゅう)、すなわち開封と洛陽のあいだをいったりきたりしていた。
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[五代十国時代。「世界の歴史まっぷ」から]
 五代十国は分裂を重ねた末に統一に向かう。
 このころ北方では契丹帝国が勃興しつつあった。太祖、耶律阿保機(やりつあぼき)が渤海を滅ぼし、内外モンゴルをあわせて、アジアにおける最大の軍事国家を築いていた。
 契丹帝国は一時、中国内地に攻め入るが、内地を支配するにはいたらず、北方に引き返した。
 五代では最後の王朝、後周が誕生する。後周の太祖(郭威)は軍隊を中央に直属させ、禁軍を強化した。2代目の世宗は、後漢の残存勢力である北漢の侵入を阻止し、この戦いで功を挙げた将軍、趙匡胤(ちょうきょういん)を重用した。
 その後、後周の世宗は淮南の地に向かい、南唐を支配下においた。これによって南方の諸政権が崩壊するのは時間の問題となった。
 だが、後周の世宗は在位わずか6年で病死する。そのあと、兵乱がおこり、趙匡胤がそれを収拾して、宋の太祖として即位する。
 こうして、宋の建国により中国はまた統一された。ここから近世がはじまるというのが、宮崎説である。

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