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近世史(1)北宋時代──宮崎市定『中国史』を読む(7) [歴史]

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[北宋時代の地図]
 宋(北宋960〜1127、南宋1127〜1279)の太祖趙匡胤の弟、太宗の時代に中国は再統一された(979年)。ただし、現在の北京や大同を含む燕雲十六州は契丹民族の遼に割譲されたままだった。
 太祖は中央に財政を集中し、塩を独占販売することで、大きな財政収入を挙げていた。それによって強固な陸海軍をつくり、中国の再統一を果たすことができたのである。
 ただ強力な騎馬部隊をもつ北方の遼を打破するにはいたらなかった。北宋は遼と和睦を結び、毎年、遼に無償の経済援助をおこなうことで、たがいに国境を侵犯しないことを約束した。
 太宗以降、北宋、南宋を含め、宋時代の320年間は、天子の相続は安定し、簒奪がなされることはなかった。天子独裁権が確立されていたのだ。
 統治の原則は権力分立だったといってよいだろう。軍を統制するのは文官である。全国は20ほどの路にわけられ、路の下に州があり、特別扱いの州が府と呼ばれ、州の下に県があった。
 地方行政機関では中央政府から派遣された文官が長となり、重要なポストは科挙出身の官僚が占め、その末端に政府から俸給を受けない胥吏(しょり)がいた。
 州の長官は知州と呼ばれたが、実権をもっているのは中央から任命された次官の通判だった。路には名目的な長官すらおらず、経済担当の転運使、司法担当の提点刑獄、軍事担当の経略安撫使が州を監督する役割を担っていた。この三者は監司と呼ばれた。
 中央政府には最高機関として中書(宰相府)と枢密院があり、天子は座長として、国家の最高政策を決定した。
「要するに宋代の政治機構は、軍人というものは革命を起したがるもの、文官というものは汚職をしたがるもの、という基本認識に立って、その弊害を防止することに重点が置かれている」と宮崎はいう。
自由な言論が認められていたことも宋代の特徴だった。
 宋時代は貨幣経済が発展し、いわゆる中国のルネサンスがおこった。大量の宋銭(銅銭)がつくられていた。しかし、銅銭は少額貨幣であるため、大きな取引には金や銀、とりわけ銀が用いられた。銅と金銀の交換比率は、外国にくらべ、金が安く、銀が高かった。そのため金が流出し、外国から銀が流入し、明代になると中国では銀が本位貨幣となっていく。
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[北宋の銅銭。ウィキペディア]
 四川の富豪が有価証券(交子)を発行した。しかし、交子が投機対象となり、取りつけにあって破産する者もでてきたことから、政府は民間の交子発行を禁止し、政府の責任において自ら交子を発行するようになった(1023年)。これが世界における紙幣のはじまりだという。
 手形や為替などもあった。それらが金属貨幣とあいまって、宋時代の交換経済を円滑にしていた、と宮崎はいう。
 物資の流通は大運河によって支えられていた。大運河は、北端の雄州から黄河との交錯地点、都の開封を通って、楚州、揚州をへて江南まで南北につらなっている。国内の交通は、この大運河を幹線とし、これにつながる大小の河川を中心に発展した。
 運河網は1058年にはさらに拡張され、北方の国境から南海に面する広東まで、水路だけで旅行できるようになった。
「宋代の社会は農村の隅々に至るまでが、貨幣経済の渦中に捲きこまれていたいた」と宮崎は書いている。
 その中心となったのが国都開封(西京の洛陽にたいし東京[とうけい]と呼ばれた)だった。城内は商店や出店、芝居小屋、食堂、酒屋などでにぎわっていた。その中央には相国寺があって、毎月5回、市が立った。
この時代には印刷術が発展し、儒教の経書をはじめ、さまざまな本が売られるようになっていた。
 こうした活気ある社会のなかから、宋学という新哲学が生まれてくる。宋学の祖、周敦頤(しゅうとんい)は太極図説をあらわし、宇宙論、人性論を説いた。宋学は二程子(程氏兄弟)を経て、南宋の朱子に継承され大成される。
 王安石、蘇東坡などの名文家も登場した。
 宋が繁栄したのは4代目の仁宗(在位1022〜63)中期までだ、と宮崎はいう。そのころになると、国内では官僚機構が硬直化し、貧富の格差が拡大していた。西北では、チベット系のタングート民族が独立して、西夏が建国されていた(1002年)。
 宋では貿易が盛んだった。タクラマカン砂漠周辺のオアシス都市国家には、トルコ系遊牧民のウイグル人が進出し、東西をつなぐ交易に従事していた。
 そのあいだに割り込むようにして西夏が勢力を拡げた。
 宋はこれを押さえようとして、西夏軍と戦ったが、勝利できず、和約を結んだ。宋からは歳賜として、毎年、絹13万匹、銀5万両、茶2万斤が夏夏に贈られることになった。西夏は自国領を通る商品に重い関税を課した。従来の通商路を失った宋は、新たなルートの開発をこころみざるをえなくなる。
 宋では100年以上にわたり平和がつづいた。だが、科挙出身の文官官僚による政治の硬直化と軍の膨張、さまざまな社会、経済のゆがみが次第に顕在化してくる。財政も逼迫した。政府は増税に走る。いちばん安直な方法は、専売の食塩を値上げすることである。すると闇商売が繁盛し、それを取り仕切る秘密結社が興隆する。
 仁宗が54歳で没すると、いとこの子、英宗が位を継いだ。英宗の4年間は、朝廷の紛糾に終始した。エリート意識の強い科挙官僚が、論争を果てしないものにしていた。
 英宗を継いだ神宗(在位1067〜85)は、政府の中心に新進の王安石(1021〜86)を登用した。
 王安石の人となりについて、宮崎はこう記している。

〈王安石は詩人であり、同時に哲学者である。但しその哲学はイデオロギーで武装した論理思想ではなく、一見して物事の真相を解析的に把握する直観主義の哲学である。……だから彼の政治上の改革は、遠い将来に空虚な影像を画いてそれに吸引されるのではなく、どこまでも現実を直視して、そこにある歪みを突きとめ、不合理を匡正して合理化の軌道にのせる、というやり方であった。〉

 王安石はまず財政の合理化に着手した。当時の財政はまだ完全には貨幣化されておらず、米、絹などさまざまな現物も租税として徴収されていた。
 そこで、王安石は政府が年間に必要とする物資をあらかじめ計上させ、なるべく近いところで、またなるべく安いところで、物資を調達する原則を立てた。これが均輸法である。
 つづいて、農民に低金利の融資をおこなう青苗法をつくった。端境期に融資を希望する農民は10戸以上集まって、連帯責任をもって、抵当なしに官から銭を借りることができるようにし、その返済は時価の穀物をもってすることとした。徴収された穀物は軍に回される。
 さらに王安石は財閥の寡占体制を匡正するために市易法を打ち出した。これは買いたたきなどを防ぐため、商品を担保に現銭を貸し出す制度で、それによって商業を円滑にすることを図った。
 当時、農村の富裕層には徭役義務が課されていた。徭役を担わされた者は、租税の管理、官物を中央に運送する手配をするだけでなく、官員の宴会の費用なども持たねばならず、万一、官物を損失すれば、それを弁済する義務まで負っていた。
 王安石はこのような不合理な役法を改革するため、募役法を導入した。徭役にかかる費用をあらかじめ計上して、それを資産に応じて郷戸から徴収し、役所が労力提供者を募集して、銭を払ってかれらをはたらかせるというものである。
 都市の商工業者に特権を与える代わりに、無制限に物資を無償で政府に提供するやり方もあらため、資産に応じて決まった税額(免行銭)を収める制度にした。
 保甲、保馬の法というのもあった。傭兵制度には多くの弊害があった。宮崎にいわせれば、「内地に叛乱が起ったような場合にも、職業軍人は身の安全を守るばかりで、郷里を守ろうとする戦意を持たないことが多かった」という。そこで王安石は、農民にたいし郷土防衛のための自警団を組織させようとした。これが保甲の法であり、あわせて有事に備えて馬を養う保馬の法を導入した。
 このように王安石は従来のしきたりをあらため、さまざまな新法を実行した。かれの改革は、あくまでも弱者の利益を擁護することに置かれていた。そのため、朝野の有力者のあいだからは不平や反対の声が挙がった。だが、理は明らかに王安石の側にあった、と宮崎はいう。
 しばらく役職を務めたあと、王安石は隠栖し、その薫陶を受けた神宗による親政がはじまった。中央政府の機構が整備されるとともに、王安石の新法によって、国家財政は好転した。
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[王安石]
 だが、神宗が38歳で亡くなり、10歳の哲宗(在位1085〜1100)が位につくと、旧法派が重用され、新法そのものが廃止され、そのさなか、引退していた王安石が亡くなる。それにより、これまで抑えつけられていた大資本家がふたたび暗躍しはじめる。地方政治も混乱しはじめた。
 哲宗は親政すると新法を復活させた。朝廷では新法か旧法かのイデオロギー論争が盛んになり、政治の実態にそぐわない無駄な議論が多くなる。
 哲宗が死んで、弟の徽宗(きそう、在位1100〜26)が天子の位につくと、こんどは左右の対立を解消して、中道政治をおこなおうという気運が強くなり、旧法党のグループが復活した。だが、新旧両党の争いは収まらない。
 そのとき登場してきたのが、便宜主義者の蔡京である。一時干されていながら朝廷に戻ってきた蔡京は、宦官の童貫と手を組み、それ以降、20年近くにわたって権力の座を維持しつづけた。
 蔡京が権力を握るあいだに、宋の政治は大きく乱れた。
 宮崎は蔡京の政治を、こんなふうに論じている。

〈蔡京は……景気の成行に対して重大な関心を持っていた。但し彼の景気は資本家の景気、大都市の景気であって、地方の田舎に住む貧乏人はその犠牲となって放置された。彼の政策は出来るだけ地方で搾取を行って、その収入を都へ運んで浪費するにあった。こうすれば天子の膝元である都では、好景気に浮れて、人民が太平を謳歌すること請合いである。〉

 要するに、蔡京の政治は天子とそのお膝元のための政治だったといえるだろう。蔡京はみずからの権力を維持するために、知識階級である官僚たちに官位を惜しみなく与え、そのための新しいポストを次々とつくりだした。
 70歳を越えた蔡京が隠居させられると、こんどはその子の蔡攸(さいゆう)が、徽宗のお気に入りとなった。
 宮崎はいう。「不適任な天子の上に、更に不適任な大臣では当然国家が危殆な運命に曝される所へ、今度は外部的な要因として、これまで北方国境の安全を保障してきた遼の滅亡という大事件が発生した」
 北方の遼には中国文化が流れ込み、契丹貴族の中国化が進んでいた。貨幣経済も盛んになっている。
 遼が滅亡に追いこまれたのは、女真族の金が興隆したからである。
 女真族は松花江付近に住み、遼に服属していた。毎年、海東青と称される鷹を献上していたが、この地に砂金があることがわかると、遼はさらに砂金を要求するようになった。これに反発して女真族の阿骨打(アクダ)が叛乱を起こし、遼の遠征軍を打ち破って、金を建国した(1115年)。
 金はたちまち遼河以東の地を平定し、渤海湾の海岸にまで進出した。さらに遼の都、上京臨瀇符をおとしいれ、長城の南まで迫った。
 この状況をみて、宋は遼に奪い取られている燕雲十六州[現在の北京、大同周辺]を取り戻すチャンスがやってきたと判断した。そこで、宋は金と軍事同盟を結び、南北から遼を挟撃する計画を立てた。
 そのころ、宋は西北で西夏と戦っていた。西夏との戦いが一段落して、軍がいったん国都開封に集結したところで、こんどは東南の浙江で方臘(ほうろう)の乱が勃発した。ようやく方臘の乱を鎮圧したと思ったら、こんどは山東淮南に宋江(小説では水滸伝の主人公)が立ち上がり、宋軍はその捕縛に追われた。
 宋軍が手間取っているうちに、金は長城を超えて、雲州を占領してしまった。あわてた宋軍は燕州を攻めるが、かえって遼の軍に打ち破られる始末だった。宋が金に援助を求めると、金はさっさと燕京(現在の北京)を攻略した。宋は金に軍事費を払い、ようやく燕京周辺を手に入れた。
 ところが、金は雲州を宋に渡そうとしない。そこで、宋はこんどは遼に書簡を送り、ともに金にあたることを提案した。
 だが、金が遼を滅ぼすと、この陰謀が金に知られることになる。金は怒り、太祖阿骨打(アクダ)を継いだ弟の太宗が南下して、東京開封府を襲った。
 これに驚いた徽宗は息子の欣宗に位を譲り、南方に出奔した。宋が河北山西の地を割譲し、賠償金を支払うと約束したので、金はいったん北方に引き上げた(1126年)。
 ところが、宋が約束を守らなかったため、翌年、金がふたたび来襲し、北宋は滅亡した(1127年)。
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[徽宗の「芙蓉錦鶏図」]
 徽宗は申し分のない文化人で、花鳥画では素人ばなれした名人芸を発揮した。だが、政治面では暗君だったとしかいいようがない、と宮崎は評している。

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