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近世史(2)南宋、金の時代──宮崎市定『中国史』を読む(8) [歴史]

 経済面では北宋が滅びる理由はなかった。政治のやりようによっては、なお永続する可能性があった、と宮崎は書いている。
 宋の王族、官僚は徽宗、欣宗を含め3000人が捕虜となり、北方に連れ去られた。ただ、欣宗の弟、康王だけが残っていた。そこで、群臣が康王を河南の南京応天符(現在の商丘市)に迎えて、皇帝の位に推戴し、高宗とした(1127年)。
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[南宋と金。「世界の歴史まっぷ」]
 これを知った金は大軍をおこして、ふたたび南下した。高宗は河北、山東を持ちこたえられず、長江を渡って逃げ惑い、最後に杭州臨安府に身を落ち着けた。金軍がそれ以上に攻撃を続行できなかったのは、中国人が一斉に抵抗したためだ、と宮崎はいう。
 そこで、金は方針を転換し、宋と和解することにした。宋もまた北進して金と大決戦するのは無理だと悟った。大臣の秦檜(しんかい)は高宗に和議を説いた。
 1147年、南宋は金と和約を結んだ。その条件は、宋が毎年、金に銀25万両、絹25万匹の歳幣を贈るとともに、宋皇帝が金皇帝にたいし臣礼をとるという屈辱的なものだった(その後の和約で、その条件は緩和される)。
 戦争が終わったあとには荒廃が残されていた。急ごしらえの南宋政府は官僚をそろえるのがやっとだった。それでも金にたいする軍備をおろそかにするわけにはいかなかった。
 財政困難は最初からつきまとっていた。そのため南宋政府は紙幣を濫発する。それが物価の騰貴を招いた。
 高宗は56歳のときに遠縁で太祖の血をひく孝宗に位を譲った(1162年)。その孝宗は、在位27年のうちに南宋の政治を立てなおした。紙幣(会子)の発行額を抑え、政府支出を切り詰め、経済の健全化をはかった。
 このころ南宋に朱熹(1130〜1200)があらわれる。朱熹は道学の系譜を継いで、朱子学を創始した。
 孝宗は63歳のときに、位を子の光宗に譲り、その5年後、光宗は子の寧宗に位を引き継いだ。南宋では3代にわたって上皇がつづいた。
 寧宗の時代に朝廷の権力を握ったのが、名門貴族で皇帝の外戚にもあたる韓侂冑(かんたくちゅう)である。韓侂冑は朝廷内の道学派を排除するため、1196年に偽学の禁を発布し、思想統制をはかった。だが、外交政策を誤り、自滅することになる。
 当時、外モンゴルではモンゴル人が勢いを増していた。そこで金が滅亡に瀕しているとみた韓侂冑は、偽学の禁を緩和し、朝廷一体となって、金の討伐に向かった(1206年)。
だが、たちまち反撃に遭い、ふたたび金と和議を結んだ。そのさい、宋が韓侂冑の首を送ったので、金の側はかえって当惑したという。
 金がモンゴルに苦しめられているのは事実だった。1206年にはテムジンが全モンゴルを統一し、チンギスハンと名乗るようになっていた。金ではその後、内紛が起こり、次第に国力が失われていく。
 宋の寧宗は暗愚で、外戚や官僚によって操られていた。その寧宗が死ぬと、遠縁の理宗が帝位につく。
朝廷では実務派の官僚、史彌遠(しびえん)が道学派をしりぞけて実権を握っていた。しかし、理宗自身は道学が好みで、史彌遠が死ぬと、さっそく道学派の新人を抜擢して、政治の刷新をこころみた。これを端平の更化という(1234年)。
 だが、インフレは昂進し、経済はいっこうに改善されなかった。
 満洲を拠点とする女真人は遊牧民族ではなく、定着的な狩猟民族だった。そのため遼のように砂漠や草原に興味を持つことがなかった。チンギスハンはその砂漠や草原に興起し、大帝国を築くことになる。
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[チンギスハン。ウィキペディアより]
 外モンゴルを統一したチンギスハン(中国流には元の太祖)は南に下りて、まず西夏をくだした。ついで金に向かい、華北を蹂躙した。女真人に土地を奪われていた中国人民はそれにかこつけて蜂起し、女真人を殺戮した。
 先に遼が滅んだとき、その一族は西域に向かい、西遼を建国していた。西遼には、チンギスハンの旧敵ナイマン部の残党が逃げ込んでいた。そのため、チンギスハンは次に西征の途につく。まずナイマンの勢力を一掃し、さらにトルコ系のホラズム王国を攻略してから、インド北部に侵攻、東西トルキスタンを制した。このときの領土がチャガタイハン国となる。
 西征から戻ったチンギスハンは西夏を併合し、次に金に向かおうとしたときに病没する(1127年)。その後継者を選ぶ会議クリルタイでは、チンギスハンの3子オゴタイが選ばれ、大汗の位についた(中国流には太宗)。
 宋はモンゴル軍と協力して金を滅ぼした(1234年)。その後、宋は北上して、故都、開封を手に入れようとしたが、モンゴル軍に蹴散らされ、南に逃げ帰った。しかし、それ以上、モンゴル軍は攻め込んでこなかった。ヨーロッパ侵攻をめざしていたからである。
 今回の大遠征では、チンギスハンの孫たちが指揮をとった。モンゴル軍はまずロシアを席捲してからポーランドにはいり、イタリアに迫った。だがそのとき、オゴタイの訃報が伝わったために引き返した。このとき征服した領土はキプチャクハン国となった。
 モンゴルでは、その後、クユク(グユク、中国流には定宗)、メンゲ(モンケ、憲宗)が相次いで大汗に選ばれた。メンゲは次弟のフビライに中国侵攻を、末弟のフラグ(フレグ)に西南アジア侵攻を命じる。
 フラグは、トルコ系の諸族を次々と征服しながら、バグダードを攻め落とし(1258年)、シリア地方まで平定して、イルハン国を立てた。
 フビライは南宋にはいり、四川、雲南、チベットを征服し、さらにインドシナをも平定した。これにより、南宋が滅びるのも時間の問題になってきた。
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[モンゴル帝国地図。「世界の歴史まっぷ」より]
 このころ南宋を治めていたのは理宗である。大儒を採用して親政をおこなったが、期待を裏切られる結果になった。宮崎によれば、それ以降、かれは「一転して虚無主義の遊蕩天子となった」。
 モンゴル軍がすでに南宋の地に迫っていた。大汗のメンゲ(憲宗)は四川攻略中に病没するが(1259年)、その弟フビライは現在の武漢あたりで長江を渡っていた。南宋でモンゴル軍に対峙したのが、妃の弟、賈似道(かじどう)の率いる軍である。フビライはメンゲの死を知ったため、いったん北に引き上げた。
 モンゴル軍が退却したことで、宋は自信を恢復し、賈似道は宰相となった。理宗が死に、その甥が度宗(たくそう)として位につくと、賈似道は朝廷で実権をふるい、経済安定策として公田化政策を打ち出し、新紙幣を発行した。だが、その成果をみることなく、南宋はモンゴルによって滅ぼされてしまうことになる。
 メンゲの死後、フビライは東モンゴルの開平府(現在の内モンゴル)でクリルタイを開催し、大汗に推戴された(1260年)。さらにモンゴルの大汗は同時に中国の皇帝でもあるという解釈を打ちだし、中国の都を大都(現北京)とし、そこに新政府を組織した。国号が大元と決まるのは、さらに10年後のことである。
 フビライによる強引なクリルタイ開催にはとうぜん反発をもたらした。メンゲの棺とともに外モンゴルのカラコルムに引き揚げていたメンゲの弟、アリクブハ(アリクブケ)は、みずからも大汗を名乗った。そのため、フビライはアリクブハと戦い、これを破った。だが、将来には禍根が残された。
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[フビライ。ウィキペディア]
 カラコルムを平定すると、フビライはふたたび南宋を攻めた。湖北の東北部にある襄陽の攻防戦は6年におよんだが、モンゴル軍が勝利を収めた。難攻不落とされた襄陽が陥落すると、モンゴル軍はたちまち国都、臨安(現杭州)に押し寄せた。
 南宋では度宗が死に、恭宗が即位、宰相の賈似道が追放された。大臣は一人、二人と夜逃げし、若手の文天祥が宰相を引き受けたものの、摂政の謝太后がモンゴル軍への降伏を決意する。
 その3年後、海上に逃れた宋の勢力は全滅し、南宋は滅んだ(1279年)。
 宮崎はこう評している。

〈宋は南宋百五十年、北宋と合せて三百十七年の命脈を保った。宋の歴史はその文化と共に長く後世に模範を垂れた。……宋代の文化、社会が高度に発達して、それ以後長く飛躍的な進歩が起らなかったことは事実のようである。〉

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