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近世史(3)元──宮崎市定『中国史』を読む(9) [歴史]

 元の時代はそう長くない(1279〜1368)。
 はじめに宮崎はこう書いている。

〈元王朝は世祖[フビライ]が南宋を滅ぼして天下を統一してから、中国に君臨すること約九十年に及んだが、但しそれ以前に、チンギス汗が蒙古族を統一してから以後の約七十年の前史がある。だから世祖は決して創業の君主でなく、むしろ守勢期、拡大期の君主と言うべきである。〉

 フビライ(1215〜94)は統一モンゴル民族の力でまず華北を制した。華北にはすでに北方から移住してきた契丹人や女真人が多数住んでおり、かれらは総称して「漢人」と呼ばれていた。フビライはこの漢人を動員して、1279年に南宋を滅ぼしたのである。
 そして、「南人」と呼ばれた旧南宋の住民は、日本攻略に利用されることになる。だが、南宋が滅亡する前に、すでに高麗がモンゴルに服属していた。そのため、文永の役(1274年)では、日本侵攻の主力は高麗兵となり、弘安の役(1281年)では、北路から高麗兵、南路から南宋の降兵が送られた。このあたり、なぜモンゴルが世界帝国を築くことができたかのか、その秘密をうかがうことができる。
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[『蒙古襲来絵詞』より]
 フビライは日本侵攻に失敗し、日本を属領化することをあきらめた。しかし、金の故領である華北と、征服した南宋の故領を一体化して、新たな中華帝国をつくる大事業が残っていた。
 フビライはまず中央の直轄地(黄河以北)と、地方の行省を置いた。中央の行政機関である中書省は天子に直属するものとした。中書省の役割は、中央と地方から上がってきた案件を処理し、最後に天子の聖旨を伝えることである。
 宮崎によれば、「天子の聖旨は先ず天子が蒙古語で語り、これを直訳体の漢文にして降下する」ことになっていた。その文書のやりとりが、けっこう煩雑だったという。
 モンゴル人にとって領土は略奪品にほかならなかった。フビライは計数にすぐれた色目人のなかからペルシア人のアフマッド、つづいてウイグル人のサンガを登用して、さかんに税を取り立てた。そのあまりの苛酷さに、ふたりは怨嗟の的となり、けっきょく死に追いこまれることになった。
 元の税制は西方的色彩を帯びていたという。これまでの税制は土地財産を主な対象としていた。これにたいし、元では「戸数割、人頭割を主とする外(ほか)、銀、生糸を徴収するなど、新しい方法が採用された」。ただし、江南では住民の反発を恐れて、新税制は適用されなかった。
税制は南北で異なっていた。しかし、貨幣に交鈔(こうしょう)という紙幣が用いられたのは全国共通だった。銀塊や銅銭は補助としての地位しか認められなかった。
 不思議とインフレはおきていない。紙幣は発行されると同時に回収されていたからである。だからといって、生活が楽だったかというと、まったくそうではなく、人びとは塩をはじめとして重税に苦しんでいた。
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[交鈔。ウィキペディアより]
 大帝国の出現により、市場が拡大し、好景気がもたらされたのは事実である。マルコ・ポーロもこの時代に、中国にやってきている。
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[マルコ・ポーロの肖像。ウィキペディア]
 世祖フビライの政治は矛盾だらけだった、と宮崎はいう。フビライがモンゴルの大汗と中国の皇帝の二役を演じなければならなかったからである。
 中国の文化を取り入れ、法令を公開し、人びとに守るべき行動基準を示したのは、中国の皇帝らしい側面だった。そのいっぽう、フビライは儒教を宗教ととらえ、それを道教、仏教、キリスト教と同列におき、自身はとりわけチベットのラマ教に心酔していた。
 同時にフビライは大汗としてモンゴル民族間の内紛に巻きこまれていた。オゴタイハン国を中心とした三汗国との対立が激しくなっていた。帝国内の内戦が収まるのに、フビライの死後まで実に40年を要している(1304年に終息)。
 そのかん、元朝の中国化が進んだ。ほんらいモンゴルの大汗はクリルタイ(部族の最高決定機関)で選出されねばならなかった。ところが、フビライはみずからの意志で皇太子を指名した。そのことが三汗国の反発を呼んでいたのだ。
 フビライの選んだ皇太子はフビライに先だって病死した。フビライは次の立太子をあきらめる。だが、フビライのあとにはフビライの意向により孫の成宗(ティムール)が即位する(1294年)。クリルタイは開かれることなく、中国流に相続がなされたのである。
 成宗は在位13年で亡くなる。そのあとは皇位継承をめぐって、未曾有の混乱がつづいた。その原因のひとつは、成宗が立てた皇太子が、またも成宗に先だって亡くなったことにある。成宗のあと、武力によって武宗が皇帝となり、武宗が死んで、弟の仁宗が即位した(1311年)。
 仁宗の9年間は例外的に安定した政治がおこなわれた時期だったという。科挙も再開されたが、その目的はモンゴル人に漢学の勉強を奨励するためだった、と宮崎はいう。だが、それは狙いどおりにはならない。モンゴル人は勉学に励まなくても高い地位を得られたからである。
 仁宗のあとは子の英宗が位につくが、すぐに殺され、秦定帝が擁立される。秦定帝は世祖の皇太子の嫡孫だった。だが、在位4年で死に(1328年)、9歳の皇太子が天順帝となる。するとトプテムルによる叛乱がおこり。その兄明宗が位につくものの、なぜか頓死し、トプテムルが文宗として即位する。文宗の3年間、宮中ではラマ教が尊信されていた。
 文宗のあとは、ふたたび皇位継承が問題となり、明宗の次子が寧宗として即位するが、在位わずか2カ月で亡くなりる。そして、その兄が順帝として元王朝最後の天子となった。
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[順帝。ウィキペディア]
 順帝(ドゴン・テムル)の在位は35年におよんだが、その統治はいっこうにかわりばえしなかった、と宮崎はいう。
 順帝が即位したとき、朝廷で権力をふるっていたのは大臣のエンティムール(燕帖木児)だった。エンティムール死後も権勢をふるったその一族は、順帝が21歳のときにクーデターを起こそうとする。
 それを防いだ順帝は宮中の反対派一族を粛清し、側近のバヤン(伯顔)を取り立てて、政治を任せた。だが、その専横があまりに度を超すものだったので、バヤンは失脚し、こんどは弟の子トト(トクトとも、脱脱)が政局をになうことになった。
 順帝はラマ教を尊信していた。ただし、そのラマ教は淫祠邪教(いんしじゃきょう)のラマ教であって、宮中の生活は乱れに乱れていた、と宮崎はいう。
 順帝の在位15年ころから、長江流域の各地で次々と叛乱が起こりはじめる。さらに1351年には黄河が氾濫した。
 黄河の氾濫で、大運河が麻痺し、華北は食糧不足におちいった。兵民17万人が動員され、5カ月の工事で、ようやく河道が修復された。
 工事の完成後、多くの失業者が生じた。正規の職業はなかなかみつからない。そこで、闇商売が盛んになり秘密結社が生まれる。そのあとは、お定まりの叛乱となる。
 浙江や河南、湖北では、すでにそれ以前から叛乱が広がっていた。その原動力のひとつとなったのが、韓山童のつくった白蓮会である。白蓮会は河南の劉福通とともに兵を挙げ、紅巾の賊と呼ばれた。
 そのころ、朱元璋は淮水(わいすい)沿いの濠州から兵を挙げた郭子興の部下として活躍しはじめる。朱元璋は郭子興の娘をめとって、郭子興の死後、その部隊とともに南京を占拠することになる。
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[晩年の朱元璋]
 いっぽう韓山童の子、韓林児を宗主とする紅巾の賊は、宋の旧都、開封をおとしいれ、ここを都とした。そして北伐をこころみるが、政府の討伐を受け、敗走し、さらに、蘇州に根拠を構えるもうひとつの叛乱指導者、張士誠の軍によって滅ぼされた。張士誠はもともと塩の密売人で、江蘇から浙江にかけ、周という国をつくった。
 朱元璋は元の政府軍との正面衝突を避け、南に向かって長江を渡った。これは賢明な策だった、と宮崎は評する。江南は食糧の生産地である。南方からの補給を受けなければ、華北の政権を維持するのはむずかしいのだ。
 南京の朱元璋はさまざまな反政府勢力に取り囲まれていた。しかし、張士誠と好みを通じ、次第に勢力を拡大し、最後に張士誠を倒した。これにより朱元璋の勢力は長江の中下流一帯を制するにいたった。
朱元璋は皇帝の位につき、国を大明と称し、年を洪武と改元した。そして、北伐の軍をおこし、元の都、大都(北京)を攻略した。
 元の順帝は大都を逃れ、上都(内モンゴルの開平府)に逃げたが、明軍はさらに上都をおとし、順帝は外モンゴルの根拠地に逃れた。これによって元は滅びる(1368年)。
 宮崎は元王朝について、こう論じている。

〈破竹の勢いを以て欧亜を征服し、空前の大帝国を建設した蒙古民族も、世祖が元朝の皇帝として南宋を滅ぼし、中国を統一してから後、九十三年で支配を終った。近世の王朝としては比較的短い方であり、結局これは中国の統治に失敗したことを物語る。その武力の強大であっただけ、物足らないような感じを受けるが、実はあまりに武力が強すぎたことが、中国統治失敗の原因となったとも言える。〉

 モンゴル人至上主義と、土地人民は征服者の私有物と考える発想、皇位継承に際しての仮借なき闘争。モンゴル人は戦闘民族の論理から抜けだすことができなかった。
「こんな種類の政権の下に、人民のための政治など期待できる筈(はず)がない。蒙古の中国支配の成績は最低であったのである」
 宮崎はそう断言する。
 それにしても、モンゴル人があっというまに世界帝国を築いたことには、驚くほかない。

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