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近世史(5)清(1616〜1912)──宮崎市定『中国史』を読む(11) [歴史]

 明と清の主戦場は、万里の長城東端の山海関だった。明の主将は呉三桂、これにたいし清はドルゴン。太宗ホンタイジが在位16年で亡くなり、後を継いだ世祖順治帝はまだ幼少で、叔父のドルゴンが摂政を務めていた。
 李自成が北京を落とし、皇帝が自殺したとの悲報を聞いた呉三桂は、叛乱軍を一掃したいと奮い立った。そのために、何と敵方のドルゴンに協力を要請したしたのだ。そこで、ドルゴンは全軍を率いて、山海関にはいり、呉三桂の先導で北京に進軍した。
 清軍南下の報を受け、北京で玉座についていた李自成は、自ら軍を率いて出撃した。しかし、清軍の騎兵にたちまち打ち負かされ、北京に逃げ帰る。そして、有り金かっさらって出奔した。
 ドルゴンは清の世祖を擁して北京にはいり、ここを都と定めた(1644年)。そして李自成を追い、湖北で李自成軍を殲滅した。李自成の相方、張献忠も四川で捕殺された。こうして清は華北を制した。
 南京や福州には明の残党がいたが、これも掃討される。明太祖の末裔、魯王は浙江から海上に逃れ、鄭成功に擁立されて、台湾に根拠地を築いた(1661年)。この年、24歳の順治帝が死に、子の康熙帝が8歳で即位した。
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[若き康煕帝。ウィキペデイアより]
 清の兵力は約18万人、満洲族の人口は100万人、それが人口1億を超える中国を征服したのは、信じられないようなできごとだった。その王朝政権を維持していくのは、たいへんな仕事だった、と宮崎は書いている。
 清がいちばん最初に中国人に求めたのが弁髪である。政府は非常な決意でこれに臨み、髪をとどめるものは頭をとどめないと思えとして、僧侶と道士を除き、臣民に弁髪を強要した。頭のかたちで、清への帰服を示させたのだ。
 清の皇帝の特徴は、どの皇帝もがひとかどの文化人だったことだ、と宮崎が書いている。これは元との大きなちがいで、清は中国文化を尊重した。
 康熙帝(在位1662〜1722)は中国の古典を学び、詩や書にも通じ、武術にもたけていた。そんな康熙帝が最初に目指したのが三藩の撤廃である。雲南、広東、福建には、明朝の攻略に協力した3人の武将(そのひとりが呉三桂)がつくった独立王国があり、清はそれを藩として認めていた。
 三藩の撤廃を通達された呉三桂らは乱をおこすが、最終的に平定される(1681年)。その勢いに乗って、清朝は台湾に進攻して、鄭政権(当時は鄭成功の孫が王位についていた)をくだし、はじめて台湾を中国領とした(1683年)。
 康煕帝は次いで北方対策に着手し、内モンゴルだけではなく、外モンゴルを服属させた。
 清の歴史は元の歴史のくり返しにちがいないが、「その政治は遙かに元朝のそれよりも卓越したものがあった」と宮崎は評している。
 清は、万民を安堵せしめることこそがみずからの任務だと宣言した。そして、満洲人と中国人が協同して統治にあたる方式をとり、地方政治は中国人の自治にまかせた。その政治組織はきわめて巧妙だったといえる。最終的には、皇帝の独裁権が保たれるよう工夫されていた。
 康煕帝は台湾を平定したあと、海外貿易を許した。中国からは茶や絹、陶器などが輸出され、海外からは大量の銀が流入して、好景気となる。
 国庫もうるおいすぎるほどうるおい、たまった資産を消費するため、康煕帝は何度も南巡を重ねた。それだけではない。康熙字典の編纂を命じるなど、さまざまな文化事業もおこなっている。
 康煕帝のあとは、第4子の雍正帝が帝位を継いだ(在位1723〜35)。雍正帝は軍機処という最高機関を設け、政策決定をスピーディにした。また地方の大官に地方の実情を包み隠さず報告させ、みずからも返事を書いた。そのやりとりは膨大な量にのぼった。まれにみる勤勉な皇帝だったといえる。
 こうした仕事は「雍正帝のように精力的な勉強家で初めて出来ることであった」と、宮崎は絶賛している。
 その雍正帝が皇太子に立てたのが乾隆帝(在位1735〜1796)だった。
 乾隆帝は祖父の康煕帝以来の課題だった北西のオイラート族(モンゴル民族の一統)、ジュンガルを制した。さらに、天山北路と南路を平定し、そこを新疆省とした。
 その南の青海、チベットはすでに雍正時代に清朝に属していた。これを合わせて、清朝は最大領土を確保することになった。その範囲はほぼ現在の中国の領土と重なる(外モンゴルも台湾もはいっていた)。
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[清の全域図。「世界の歴史まっぷ」から]
 乾隆帝は康煕帝の文化事業を継承し、全国からあらゆる図書を進呈させ、四庫全書を完成した。「国庫を傾けての修書事業というようなことは、元代の蒙古人には夢にも考えられないことであった」と宮崎は評している。
 文字の取り締まりがなかったわけではない。清朝をあしざまに書いた書物は禁止され、とりわけ攘夷思想を含むものは禁書とされた。この禁書狩りは徹底しておこなわれた(文字の獄)。
 清と元の共通性は西方文化の影響を強く受けていることだと宮崎はいう。最初にそれをもたらしたのは色目人、すなわちアラブ人である。イスラム世界を通じて、かねてから中国は西方の影響を強く受けていた。さらに、イエズス会の宣教師たちが続々と到来するようになると、ヨーロッパ文化が中国に直接はいってくる。
 そして、ロシアがシベリアに進出してきた。その結果、1689年に清はロシアとネルチンスク条約、1727年にキャフタ条約を結び、ロシアとの国境を定めることになる。
 康熙帝はマカオから入国する宣教師たちを寛大に取り扱っていた。だが、雍正帝のときからキリスト教にたいする取り締まりが厳しくなり、中国人の入信が禁じられるようになった。
 乾隆帝の時代にはいると、ヨーロッパとの貿易は制限され、広東だけが貿易港に指定される。そこにイギリスが進出してくる。
 毛織物を売りたいイギリスは北方にも貿易港を開きたいと望んでいた。そこでマカートニーを派遣される。清の朝廷で、三跪九叩頭を強要されたマカートニーはこれを拒否し、片膝をついただけで謁見をすませた。それはあくまでも蛮夷の朝貢とみなされたものの、肝心の貿易交渉は目的を達することができなかった(1793年)
 イギリスは広東貿易でほとんど何も売りこめない。そこでインド産のアヘンを中国に持ちこんだ。これによって、英中間の貿易収支が逆転する。流入するアヘンにたいし、中国の銀がとめどなく流出するようになった。
 銀の流出は経済の不況を招いた。失業問題も生じて、闇商人が横行する。それが叛乱の勃発につながってくる。アヘンを扱う三合会と呼ばれる秘密結社が急激に勢力を伸ばしていた。
 1820年に嘉慶帝の25年が終わり、道光帝の時代にはいると、朝廷内の論議の中心は、もっぱらアヘン問題となった。解禁論と禁絶論が相半ばするが、けっきょく清朝は毒物が人民の健康を蝕んでいるのを無視できないという立場をとった。これにたいし、イギリスはアヘンはあくまでも商品であり、ほしい者がいるから売っているのだという狡猾な遁辞に終始した。
 道光帝は熟慮の末、林則徐を両広総督に任じ、アヘン貿易の取り締まりにあたらせた。その結果、イギリスとのあいだに阿片戦争が勃発する。清は敗れ、屈辱的な南京条約が結ばれた(1842年)。
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[阿片戦争。ウィキペディアより]
 イギリスは南京条約により、従来の広東に加え、上海、寧波、福州、厦門を開港場とし、さらに香港を割譲させた。上海の開港により、欧米諸国の対中貿易の拠点は上海へと移った。
 貿易拠点が移ったことにより、中国では大きな失業問題が生じていた。それまで広東を拠点として南北にアヘンを含む物資を運んでいた労働者の一群が不要になったためである。そうした失業者が太平天国に流れ込んでいく。
 この世にパラダイスをつくるという太平天国の表向きの首謀者は、上帝会(上帝とはGodのこと)の洪秀全だが、実際の中心人物はアヘン密売業者の楊秀清だったという。
 太平天国の乱は1851年にはじまり、以降13年にわたってつづく。太平天国軍が南京をおとしいれ、ここを天京と改称したのは1853年のことである。
 太平天国の乱を平定したのは湘軍を組織した曾国藩と、その同僚で淮軍を組織した李鴻章である。とりわけ李鴻章は上海商人の後援により、軍備の近代化に成功し、太平天国を追い詰めることになる。
 1856年にはアロー号事件がおこり、英仏連合軍が広州、つづいて天津に侵攻し、清は英仏米露と天津条約を結んだ(1858年)。ロシアは抜け目なく、愛琿(あいぐん)条約で黒竜江以北を、さらに、その後の北京条約でウスリー川以東を清国から割譲させている。
 その後も西洋列強の攻撃がつづいた。1860年には英仏艦隊が北上し、ついには両軍の陸戦隊が北京を占領する事態となり、離宮の円明園が焼かれた。清朝は各国と北京条約を結び、開港にとどまらず開国を余儀なくされることになった。
 このとき清朝は外国との交渉窓口として、新たに総理衙門(そうりがもん)を設け、咸豊帝の弟、恭親王を総理大臣に任じた。
 1864年には、南京が陥落して太平天国が滅んだ。それ以降、清では洋務派が改革にあたるが、その改革は進まず、挫折することになる。
 1874年に同治帝が19歳で死んだあと、清朝は後継者選びで紛糾し、同治帝の生母、西太后が光緒帝を擁立した。光緒帝時代に、清はロシアにバルハシ湖一帯を奪われ、フランスにベトナムを取られ、さらに日本との戦いで台湾を失った。日清戦争で清朝の弱点が露呈すると、列強はさらに中国での利権漁りに奔走した。
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[西太后。ウィキペディアより]
 こうした状況に、中国ではとうぜん国民的反感が巻き起こってくる。義和団事件はそうした反感がもたらした排外運動だった。それを清の朝廷が北京に迎え入れたために、混乱が大きくなり、8カ国連合軍による北京占領を招くことになった(1900年)。
 ナショナリズムの高揚はついに清朝打倒へと向かう。日露戦争で日本がロシアを撃破したことが、ナショナリズムをさらにあおりたてていた。
 孫文を中心に清朝を倒そうとする革命運動が力を増していくのである。

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