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現代史──宮崎市定『中国史』を読む(12) [歴史]

 長々とまとめてきましたが、今回が最終回です。
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[陳舜臣『中国の歴史』最終巻の表紙から。]
 清朝末期には、すでに上海が中国の文化、経済の中心地となっていた。外国租界があり、清朝の官憲の権力がおよばなかったことが、かえって上海の安全と繁栄を保証していた。もちろん新聞や雑誌も自由に発行されていた。
 1908年、幽閉されていた光緒帝につづき、西太后が死ぬと、清朝最後の皇帝、溥儀が3歳で即位した。だが、その3年後、辛亥の年に革命がおこり、清朝は滅んだ(1912年)。
 革命を率いた孫文は身をひき、けっきょく北洋軍閥の袁世凱が中華民国大総統となる。袁世凱は次第に皇帝の座を得たいと思うようになるが、さすがに反対が多く、断念するうちに病死する(1917年)。そのあと、華北を舞台に軍閥が割拠した。
 1918年、北京大学の学長に蔡元培が就任し、陳独秀、胡適、李大釗(りだいしょう)などの新しい人材を集めた。そして、かれらが編集する雑誌『新青年』を舞台に、新文化運動がはじまる。こうした革新運動を背景に、1919年には五四運動が発生した。
 いっぽう野にあった孫文は三民主義を唱えた。三民とは民族、民権、民生を意味する。その内容は共産主義の影響を受けて、少しずつ変わっていくが、孫文が西洋思想にもとづき中国の新たな国家理念を打ちだしたことはまちがいない。
 その三民主義について、宮崎は「彼の三民主義は三民とは言うものの、それは等価値の三民が並立しているのでなく、その主体は民族主義であった」と論じている。ナショナリズムにもとづき中華の回復をはかることが問われていた。
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[孫文。ウィキペディアより]
 袁世凱が死ぬと、とりわけ南方では北方からの離反傾向が強まってきた。1917年、孫文は広東にはいり、軍政府を樹立し、大元帥となった。だが、翌年、広東の実力者に追い出され、上海に亡命する。
 このころ北京政府を牛耳っていたのは段祺瑞(だんきずい)である。孫文は2度、3度、広東で軍政府を樹立するなかで、ソ連との提携をはかり、国民党の再建をめざすことになる。1924年には連ソ容共の政策を定め、中国共産党員の国民党への入党を認めた。
 孫文はソ連の赤軍を真似て国民軍を組織するため、広東の黄埔に軍官学校を設けた。これにより、ソ連の武器で訓練された新軍がつくられ、広東の軍閥を圧倒するようになった。
 北京政府は軍閥どうしの争いによって、二転三転し、混乱をきわめるが、奉天軍閥の張作霖に支えられて、段祺瑞が何とか命脈を保っていた。その段祺瑞は事態収拾に向け、国民党党首の孫文に協議をもちかけた。国民会議を開くために北上した孫文は天津で発病し、1925年に北京で病死した。革命なおいまだ成功せずという遺嘱が残された。
 孫文の死により南北和解は絶望的になった。
 北方では、馮玉祥(ふうぎょくしょう)がクーデターによって段祺瑞政権を倒すが、すぐに張作霖によって追われた。南方では国民党が広東政府を国民政府と改称するが、党内の左右対立が激しくなるなか、軍官学校校長の蒋介石が勢力を伸ばした。
 1926年、蒋介石は国民革命軍総司令に任じられ、北伐を開始する。南京を占領したさい、一部共産党員が租界に乱入し、やっかいな国際問題を引き起こした。そこで、蒋介石は共産党との訣別を決意し、共産党員を徹底的に弾圧した。国共分裂によって、国民軍の北伐は一時足踏み状態におちいった。
 蒋介石は南京を国民政府の首都と定め、ふたたび北伐を再開した。北京の張作霖は形勢が不利なのをみると、兵をまとめて奉天に引き揚げようとした。だが、その途中、日本軍によって爆殺された(1928年)。
 蒋介石は北京にはいり、孫文の墓前に北伐の達成を報告するとともに、全国民に国民政府への忠誠を求めた。父の後を継いだ奉天の張学良は、国民政府への合流を表明した。
 第1次世界大戦後、アメリカは露骨な日本敵視政策に転じた。そのため、日本はいよいよ中国での既得権益にしがみつくようになった。1931年、満洲事変が勃発する。
「日本軍は最後の奥の手を出して武力発動に踏切り、張学良軍を追い出して全満洲を占領し」、1934年、天津で蟄居していた溥儀を「皇帝の位に即かせ、満洲帝国を造るという、時代離れのした大芝居を打った」と、宮崎は記している。
 南京の国民政府は日本軍の圧力を受けていただけではない。江西の瑞金を根拠地とする共産軍の脅威にもさらされていた。蒋介石は共産軍の包囲作戦を展開、たまりかねた共産軍は包囲を突破して湖南にでて、大長征をおこなって、陝西の延安にはいり、根拠地を構えた(1935年)。
 1937年7月7日、盧溝橋事件により日中戦争がはじまる。その前、いわゆる西安事件によって蒋介石は毛沢東と和解し、ともに日本と戦う取り決めをおこなっていた。
 日中戦争の勃発により、日本軍は長城を越えて北京や天津を占領する。杭州湾に上陸した部隊は南京を占領し、虐殺暴行をほしいままにし、諸外国から非難を受けた。さらに日本軍は武漢や広東も占領する。蒋介石は四川の重慶にしりぞいた。
 1940年、日独伊三国同盟が結ばれる。アメリカは日本にたいする石油禁輸措置に出た。この直後、日本はアメリカ、イギリス、オランダへの開戦決意を固める。
 1941年12月、日本海軍の真珠湾急襲により、太平洋戦争の幕が切って落とされた。激戦4年の末、日本は敗北する。ソ連の思いがけない参戦により、満洲ではさまざまな惨劇が起きた。ソ連軍は樺太と千島列島を占領した。
 宮崎はこう書いている。

〈日露戦争以後、国民の間に絶対の信頼を得ていた日本の陸海軍は、いざ大戦になってみると、その指導が全く問題にならない程拙劣であることが判明した。陸軍は大陸において、兵法上に最も禁忌とされる兵力の逐次増強を続けて、ずるずると戦いながら何の効果もあげなかった。一方海軍は旧式の巨艦巨砲主義に執着し、国力を挙げて武蔵、大和など無用の大戦艦を造り、しかもその使い方さえ知らず、何の役にも立てずに犬死させた。〉

 蒋介石も大局的に戦略を誤った、と宮崎はいう。対日戦で国府軍をできるだけ温存したために、実戦経験豊富な共産軍に遅れをとってしまう。さらに「アメリカ金権思想に毒せられた幹部の腐敗」もあったという。
 こうして内戦がはじまると、国府軍は連戦連敗して、ついに台湾にしりぞき、共産党は北京を首都として中華人民共和国を樹立した(1949年)。
 本書の出版は1978年である。人民共和国時代の歴史を書くのは、まだ時期尚早だ。それと同時に、現代中国史の記述に特有の困難がともなう理由について、宮崎は次のように述懐している。

〈由来中国の事象は欧米、又は日本に比べて甚だ分りにくいのが特徴であるが、人民共和国の時代に入ってから、それが一層分りにくくなってきた。それは報道がすべて厳重な統制の下におかれるようになったからである。日本が戦時中に行った、大本営発表だけが真実であるといったやり方が、少し形を変えて人民中国に再現したのである。〉

 宮崎は人民中国についても、歴史上の王朝と同様の感覚で、冷静な評価を下そうとしている。
 人民共和国の成立により、中国は久しぶりに伝統的な権威を取り戻し、毛沢東は全国民の偶像となった。だが、その指導力には次第にかげりが生じてくる。大躍進政策の失敗により、毛沢東は建国後10年にして国家主席を劉少奇にゆずり、党主席として党務に専念することになった。
 1966年に文化大革命が発生した。表向きの理由は、本来の革命路線から外れ、修正主義への道をたどろうとしている党の現状をたださねばならないというものだった。しかし、その内実は毛沢東復権のための権力闘争でもあった、と宮崎は指摘する。
 その結果、劉少奇とその一派は失脚し、後継者と目された林彪も死に追いやられた。1976年1月には周恩来が死に、9月に毛沢東が死ぬ。新たに党主席となった華国鋒は、文革を推し進めた江青らの四人組を追放した。
 宮崎によれば、中ソ対立のはじまりは、中国共産党が台湾進攻に着手しようとしたところソ連からまったをかけられたときからだという。その後の朝鮮戦争でも中国が参戦し多大の犠牲を出したのに、ソ連は手を束ねてそれを傍観するばかりだった。
 加えて外モンゴル問題があった。外モンゴルは清時代から中国領の一部になっていた。それをロシア革命のときに赤軍がはいって、モンゴル人民共和国をつくった。中ソ対立が激しくなると、モンゴルは完全にソ連の衛星国となり、中国に敵対した。民族主義の強い中国としては、我慢できない事態だった、と宮崎はいう。
 イギリスの保護を失ったチベットも独立の動きを見せていた。そこで中国は1959年に兵を出して、チベットを占領し、ダライ・ラマをインドに追い、そのあと人民の自治政府を樹立させた。そのインドがソ連寄りになり、中国と対立していることが、中国の反ソ感情をあおった。ソ連が内モンゴルや新疆に工作をしかけていることにも中国は神経をとがらせねばならなかった。
 だから、1960年代には中国の主要な敵はアメリカよりソ連だったという。中ソ論争はイデオロギー問題ではなかった。もっと現実の領土問題だった、と宮崎は指摘する。中国がアメリカに接近するのは理由があったのだ。
 本書を閉じるにあたって、宮崎はこう書いている。

〈現今の世界情勢は誠に緊迫している。戦争は東海地震のようなもので、明日起ってもおかしくない程であるが、併し何時までも起らないでいるかも知れない。我々はイデオロギーぼけにならぬよう、現実を的確に見究めて対処するよう心掛けることが必要だと思う。〉

 これはだいじな指摘だろう。

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