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網野善彦『日本社会の歴史』を読む(2) [歴史]

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 人間の経済生活は、大きく分けて、狩猟採集生活、農耕生活、商品生活の3段階をたどったというのが、ぼくの考えだ。もちろん、それは画然とした区別ではなく、重層的ではあるのだが、あくまでも中心がどこにあるかというのにすぎない。
 縄文時代にくらべると、弥生時代はずっと短い。しかし、この時代に、経済生活の中心は狩猟採集から農耕へと移行する。弥生時代が日本の歴史でも大きな曲がり角だったことがわかる。
 網野によれば、中国から朝鮮半島に稲作技術がもたらされたのは紀元前1000年以前とされる。紀元前3世紀には、九州北部ではじめて弥生土器が登場している。だが、それ以前から稲作はおこなわれていた。
 弥生土器は穀物に欠かせない土器として、九州一円から四国南部にまで急速に広がった。このころの遺跡からは石斧や石包丁も出土する。織布もおこなわれ、鉄器も用いられていた。
 弥生文化の流入を支えたのは、朝鮮半島南部、北九州、瀬戸内海をむすぶ海で活躍した海民だった、と網野はいう。そして、東北、南九州をのぞく、列島各地では、弥生時代から古墳時代中期にかけ約800年のあいだ、首長制の社会が展開されることになる。
 弥生前期の200年間、列島の東部では依然として稲作への抵抗が強く、縄文文化がつづいていた。いっぽう、西部では朝鮮半島からの流入を含め、急速に人口が増えていく。
 紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけての弥生中期になると、稲作は関東から東北南部まで広がっていた。水田は低湿地だけではなく谷間にもひらかれる。用水・排水用の溝が掘られ、田植えもおこなわれるようになった。収穫や脱穀のための道具もつくられている。種籾は神聖なものとして高床式の倉庫に保存されていた。
 農耕に神事や協働作業は欠かせない。それを指揮するようになったのが、共同体の首長である。
 弥生時代につくられたのはコメだけではない。ムギ、アワ、ヒエ、マメ、ソバ、イモなどの穀物のほか、根菜や蔬菜、果実なども栽培されていた。焼畑がおこなわれていたかもしれない、と網野はいう。
織物用として、苧麻(カラムシ)や蚕のための桑も植えられていた。漆やキノコも採集されていた。狩猟や漁撈、海藻や貝の採取も盛んだった。本格的な製塩もおこなわれていた。
 こうしてみると、弥生時代には現代の生活の基本となる要素がほとんど出そろっている。
 弥生文化にはひとつの大きな特徴がある。
「弥生文化は単に稲作文化というだけでなく、強烈な海洋的特色を持っていた」と網野はいうのだ。
 弥生時代は、大陸や半島との交流のなかでつくられていった。ぼくなど、それはイギリス史でいう民族大移動の時代に匹敵するのではないかと勝手に思うほどだ。
 近畿や北九州などで有力な首長があらわれる。『後漢書』には、倭の奴国王が漢に使いを送り、光武帝から印綬を授けられたという記述がみられる。
 弥生中期の列島西部では、沖積平野の中央部や台地のうえに、かなり大きな集落がつくられていたことがわかっている。その周囲は溝や濠によって囲まれていた。
 瀬戸内海沿岸から大阪湾にかけては、二、三百メートルの高台に土塁や空堀をめぐらせた集落もあらわれた。このことは、この地方に何らかの軍事的緊張があったことを推測させるという。
『魏志』は、2世紀の後半、「倭国が大きく乱れ、長期にわたって戦いが続いたと記述する。その大乱は卑弥呼が邪馬台国の女王として立つことによって収まったとされる。邪馬台国の所在については、北九州説と大和説があって、いまだに結論がでていない。
『魏志』の伝える倭人社会は、現代の日本の民俗や韓国の習俗とどこか似ている、と網野はいう。それは「決して稲作一色の農耕社会ではなく、農耕とともに漁撈をはじめとするさまざまな生業に支えられ、呪術に支配されたマジカルな色彩の強い社会であった」。
 そこでは「大人」といわれる首長の一族と平民の「下戸」とがはっきりと分かれており、「生口」と呼ばれる奴隷もいた。
 邪馬台国はすでに立派な国である。中央には大きな邸閣があり、地方の国々には租税と課役が課されている。国々の産物を交易する市庭(いちば)も設けられている。支配下にある伊都国には役人を置き、中国や朝鮮との交易を取り締まっている。
 卑弥呼の宮室には千人の婢がはべり、武装した兵士が警備を怠らず、男はひとり弟のみが出入りを許されていたという。
 238年に卑弥呼は魏に多くの贈り物と使いを送り、「親魏倭王」の称号を得ている。247年には戦乱がおこり、そのかんに卑弥呼が死んだ。男王があとを継いだが、首長たちはこれに服することをこばみ、卑弥呼の宗女、壱与(イヨ、あるいは台与=トヨ)が位について、ようやく戦乱がおさまったとされる。
 266年、邪馬台国は魏の後続王朝、晋に使いを送っている。しかし、中国の史書では、それ以降約150年間、日本列島に関する記述はなくなる。
 網野によると、倭国の大乱は、近畿・瀬戸内海の首長連合と北九州の首長連合とが統合される過程で発生したものではないかという。ただし、どちらがどちらを統合したかについては、まだ結論がでていない。
 中国の史書によると、そのころ日本列島西部では青銅製の祭器を用いた祭祀が盛んになっていた。また朝鮮から輸入された鉄によって、鉄製の武器や工具もつくられるようになっていた。土器や木製の道具も大量に生産されている。
 社会的分業が進み、市庭(いちば)での交易も日常化している。網野は市庭を現代の市場概念とはっきり区別しているように思われる。弥生時代の市庭とは、はたしてどのようなものだったのだろうか。
 4世紀前半、中国大陸は動乱の時代を迎える。朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の三国時代がはじまった。かといって、日本と朝鮮との関係が途絶えたわけではない。新羅に倭人がしばしば侵入したという記録が残っている。
 このころ近畿から瀬戸内にかけて、大きな前方後円墳がつくられるようになる。埋葬者を収めた木棺のなかには、鏡・玉・剣の副葬品セットが添えられた。
 4世紀後半から5世紀にかけ、前方後円墳は東北南部から九州南部まで広がった。古墳に埋葬された首長たちは、近畿の勢力と同盟関係を結びながら、それぞれの地域を支配していた。
 とはいえ、列島の東と西では、かなり生活様式が異なっていた。「列島の各地域の個性は、前方後円墳の拡大にもかかわらず、なお失われることなく、その差異はさらに著しくなった」と、網野は書いている。
 4世紀後半、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の抗争が激しくなっていた。百済は新羅や倭と同盟関係を結んで、高句麗に対抗しようとした。367年には倭に使いを送り、372年には倭王に七支刀を贈っている。いっぽう新羅も402年に倭と通交している。
 倭と朝鮮半島との関係は密接だった。朝鮮半島からはさまざまな職能をもつ人びとが倭に移住してきた。一説では、弥生時代から古墳時代にかけて、100万人から150万人が列島西部にやってきたといわれる。それにより、鵜飼のような漁法、絹や布の織り方や縫い方、製紙、製鉄や鍛冶・鋳造、土器や陶器の製造、土木建築技術、漢字、芸能などがもたらされた。半島からは馬具や鉄の原料なども輸入されている。
 5世紀になると、河内に巨大な前方後円墳がつくられるようになった。誉田山(こんだやま)古墳[応神天皇陵?]や大山(だいせん)古墳[仁徳天皇陵?]がよく知られている。古墳の周りには人物や動物をかたどった埴輪が並べられていた。
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[大山古墳。ウィキペディアより]
 こうした巨大古墳を建設するまでにいたった首長を大王と呼んでもよいだろう、と網野はいう。
 このころ中国は南北朝の分裂時代にはいっていたが、南朝の宋の史書には、5人の倭王が479年から502年にかけて、宋に使者を送ってきたことが記録されている。
 とはいえ、網野によれば、河内の大王は列島全体に権力をおよぼしているわけでなかった。吉備には大きな勢力をもつ大首長がいた。有明海沿岸や出雲、北陸の首長たちも、独自に半島や大陸との通交ルートをもち、みずからの勢力圏を築いていた。
 半島や大陸からは先進的な製鉄技術や農業技術がもたらされ、それらが各地に広がろうとしている。
 しかし、民衆の生活は竪穴式住居に住み、素朴な貫頭衣をまとうというものだったという。その日々は稲作にまつわる祭や先祖崇拝、自然崇拝、ミソギやはらい、呪術によっていろどられていた。
 5世紀末から6世紀にかけて、大転換がはじまる。大和の大王が、東国、四国、九州へと、支配を広げていく。
 つづきはまた。

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U3

 九州北部から弥生式土器が出土しているのに、東京・本郷の弥生町から出土した土器が弥生土器と命名されたのはずっと後のことなのだろうか。というより弥生町で発見された弥生土器と、九州北部の弥生土器は同じ系譜なのだろうかと、ふと疑問に思ってしまった。
 Wikipediaによれば、九州北部の弥生土器は縄文土器の系譜だという。一方東京の本郷で発見された弥生式土器は縄文土器の系譜ではないようなのだ。
 果たして教科書に出てくる弥生土器と九州北部の弥生土器は同じ系譜なのだろうか。つまり九州から東進して関東に伝来したのが、弥生式土器なのだろうか。
 弥生土器が稲作と共に朝鮮半島から伝来したという学説があるが、古墳から発掘された稲や、日本に現存する稲のDNAを鑑定したところ、六割は朝鮮半島と稲と同系統で、後の四割は大陸系、つまり中国由来だということがハッキリと分かっている。
 弥生式土器は本当に稲作と共に朝鮮半島から渡ってきたものなのだろうか?
 それとも日本で独自に発展した土器なのだろうか。そう考えると実に面白い。
 因みに山梨県の多くの遺跡からは、江戸時代初期まで縄文土器が作られていて、弥生式土器は発見されていない。それからするとかなり地域差があるように思える。それからすると、一概にこれは縄文土器、これは弥生土器と明確に分かれていると考えるのは早計なのではないかと思えてしまう。
by U3 (2021-07-06 22:23) 

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