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網野善彦『日本社会の歴史』を読む(4) [歴史]

 推古の死後、蘇我蝦夷は厩戸の子山背大兄を退けて、孫の田村王子(舒明)を大王につけ、その大后に宝王女(のちの皇極・斉明)を選んだ。
 630年、舒明は唐に使者を送る。そのころ、唐は新羅と組んで、高句麗や百済に圧力を加えていた。
 ヤマトは唐の外交政策に同調するわけにはいかない。新羅が任那(加羅)を滅ぼした仇敵だからである。とはいえ、唐に正面切って反対するわけにもいかない。何といっても唐は大国であり、ヤマトよりはるかに文明の進んだ国だった。
 そのころ、20年前に遣唐使として派遣された留学生や留学僧が唐から戻ってくる。かれらは「ヤマト政権の首脳部、とくに舒明の子中大兄や中臣鎌足(のち藤原鎌足)などの若い世代に強烈な刺激と影響を与えた」と、網野は書いている。
 641年に大王舒明は死に、大后宝王女が皇極女王として即位した。643年、皇極は飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)を建て、そこに移った。
 飛鳥では蘇我蝦夷・入鹿の親子が権勢をふるっていた。有力な大王候補と目されていた山背大兄は殺害される。蘇我氏の専横に宮中では反発が強まっていたと思われる。
 645年、大化のクーデターが実行に移される。中大兄と鎌足は宮中で入鹿を斬り、蝦夷を自刃に追いこんだ。
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[江戸時代に描かれた絵。『多武峰縁起絵巻』。ウィキペディア]
 皇極は退位し、中大兄に大王の地位を譲ろうとした。だが、中大兄は固辞し、皇極の弟軽王子が孝徳大王として即位する。中大兄や鎌足が権力の実権を握っていたことはいうまでもない。
「本格的な中国風の国家の確立に向かって、ヤマト政権はここに間違いなく重大な一歩を踏み出した」と、網野は記している。
 新政府は東国をはじめ各地に使者を派遣し、ヤマトの支配を強化しようとした。蘇我氏から次期大王と目されていた古人大兄は、逃亡先の吉野で殺された。
 都を難波に移した新政府は、646年にあらたな詔(みことのり)を発した。大王を頂点として、首長たちを官人として組織し、地域ごとに人民を支配する本格的な国家体制をの確立することが宣言された。
 しかし、首長たちの反発は強く、新政府への統合はうまく進まない。政権内部の対立も表面化してきた。孝徳大王と中大兄の関係も険悪になるが、中大兄は孝徳を排除して、独裁色を強めていった。
 それでも中大兄は大王になろうとしない。退位した母の皇極をふたたび大王の座につけ、斉明とした。
 独裁をはかる中大兄への反発が強まっていく。658年、孝徳の子、有間王子は叛乱を計画するが、事前に発覚し、死罪に処された。
 この年、唐が高句麗への攻撃を開始する。そうしたなか、ヤマト政権は東北に軍を派遣し、東北の蝦夷(えみし)を制圧した。
 高句麗で苦戦した唐は660年に新羅と同盟を結び、まず百済を攻撃する。百済からの救援要請を受けたヤマト政権は新羅を討つことを決意する。
 661年、斉明女王をはじめ、中大兄、大海人王子、中臣鎌足らが軍を率いて難波を発った。だが、斉明女王は筑紫で急死する。
 663年、ヤマトの水軍は白村江で唐と新羅の連合軍と戦い、壊滅的な敗北を喫する。唐と新羅からの攻撃を恐れた政府は、対馬、壱岐、筑紫、長門に山城を築き、その攻撃に備えた。そのいっぽう、唐に使節を送って外交関係の修復をはかろうとした。
 白村江での敗北により、ヤマト政権は朝鮮から手を引き、朝鮮海峡がヤマトと新羅の国境となった。まもなく朝鮮では、新羅が統一国家をつくる。
 次は「日本」ができる番である。だが、その前に一波乱がおこる。
 斉明の死後、大和政権では7年にわたって大王が不在という異常事態が生じていた。しかし、668年にいたってついに中大兄が近江の大津宮で即位し、天智大王となった。
 669年に藤原鎌足が死ぬと、天智と弟の大海人の関係がぎくしゃくしはじめる。大海人は危険を察知して、吉野に逃げた。671年、天智は子の大友王子にすべてを托して、世を去った。
 672年、近江の朝廷と吉野との緊張関係が高まる。近江からの攻撃を察知した大海人は吉野を脱出して、東国に逃げ、有力な首長たちを糾合し、大軍勢を率いて大友側を破り、大友を自殺に追いこんだ。勝利した大海人は飛鳥浄御原宮に移り、673年に大王天武として即位した。
 勝利した天武は、天智が宣言しただけで実現できなかった国家体制の確立に向けて一歩踏み出した。それまで首長の支配下にあった人民と土地をすべて国家のものとする「公地公民制」を実現しようとしたのである。
 公民からの租税徴収権をもつのは国家にほかならない。首長たちは国家の官人として組織され、俸禄として食封(じきふう)が与えられることになった。首長たちの抵抗は強かった。しかし、天武の宮廷は強力な軍事力を背景にこれを抑えこんだ。
 中央官制では、隋・唐にならって太政官・大弁官・六官が新設された。だが、あくまでも天武独裁の体制が貫かれた。首長たちには八色(やくさ)の姓(かばね)が与えられ、序列が定められた。朝廷の官人にも四十八階の爵位がつくられた。
 畿内を中心に、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の七道が行政区域として定められ、都から各地に向かう直線的な道路が計画された。
 天武は後継者と目した草壁王子に浄御原令(きよみはられい)の編纂を命じた。『古事記』『日本書紀』の執筆がはじまったのも、この時代である。
 天武が死ぬと、謀反の疑いをかけられた大津王子が死を賜る。だが、後継者の草壁も病死したため、やむなく太后の鸕野讃良(うののさらら)が政治を担うこととなった。
 689年、鸕野讃良は浄御原令を施行する。そこには倭に代わり日本を国号とすること、大王に代わり天皇を称号とすることが明記されていた。皇后、皇太子の名称も定められていた。
 重要なのは、ここに戸籍の作成や班田、租税の徴収、兵役義務が規定されていたことである。唐にならい、国家体制が整えられようとしていた。
 690年、鸕野讃良は即位して、持統天皇となった。太上大臣には高市皇子が任命された。
 692年には藤原京が完成し、持統は遷都する。ここに華やかな白鳳文化が花開く。
 696年に高市皇子が死ぬと、持統は15歳の孫、軽皇子(文武天皇)に位を譲り、太上天皇となった。だが、持統が政治を手放すことはない。
 701年には元号が大宝と定められ、大宝律令が発せられた。これ以降、日本では元号がつづくことになった。
 そのころ、北海道、東北北部、南九州、沖縄には、まだ日本の支配がおよんでいなかった。
 大宝律令は唐の影響を強く受けていたが、それでも日本の実情に合わせた部分もみられた、と網野は記している。大宝律令は次第に列島各地に浸透していくが、列島社会には、なお呪術的な未開の素朴さが残っていたという。
 天皇にも神聖王としての側面が残り、「大嘗祭の儀礼の一部にうかがわれるように、そこには未開な呪術的特質を色濃く認めることができる」。
 それでも大宝律令によって、天皇は国家の頂点に立つ存在へと位置づけられていった、と網野はいう。
 大宝令により、中央官庁には、太政官と八省、神祇官、弾正台(官人を査察する機関)、軍事組織が設けられることになった。日本の宮廷には中国のような宦官は存在せず、内廷は女性たちによって統轄されていた。
 全国は畿内と地方の七道に分けられ、五十戸一里(郷)を基礎とし、国、郡にそれぞれ政庁(国衙、郡衙)が設けられた。北九州は特別行政区で、太宰府が地区を統轄した。
 中央、地方の官人には、30段階の位階が定められた。
 都と七道を結ぶため、幅十数メートルの直線道路がつくられ、四里ごとに駅家(うまや)が設けられた。
 天皇によって任命される太政官は大きな権限をもっていた。しかし、「その[政府の]実質は律令制以前からの畿内の有力な氏の代表によって構成される合議機関」だったという。それが、天皇の権力を制約していた。律令制はあくまでもタテマエにすぎない。
 国家試験に合格すれば、だれでも官人になることができ、勤務評定によって、位階もあがることになっていた。しかし、五位以上の貴族には、最初から子弟をそれなりの位につける特権が与えられていたから、平民から上級の官人になる道は閉ざされていた、と網野は書いている。
 官人になると課役を免除され、季禄を与えられた。五位以上は貴族となる。三位以上の上級貴族には多くの特権が与えられ、その地位も代々受け継がれた。五位以上の貴族は100人〜300人だったとされる。
 人口の圧倒的部分は平民だった。各官庁に仕える良民もいた。奴婢や賎民は平民や良民から区別されていた。ただし、奴婢や賎民といっても、そのなかには、天皇の陵を守る者は神に仕える者、特異な呪力や芸能で天皇に奉仕する者もいた、と網野は指摘する。
 国家の財政と軍事を支えていたのは、人口の圧倒的部分を占める平民(公民)だった。かれらは隷属民ではなく、自由民だった。
 大宝律令によると、すべての人民には一定の口分田(6歳以上の男子には2反、女子にはその3分の2)が与えられることになっていた。口分田の売買は禁じられ、死後は収公される決まりだった。口分田は6年に1度の点検を受ける。これが班田収受の法である。
 口分田にたいしては、一反につき二束二把(のちに五把)の租が課された。税率は約3%から8%。そう高いわけではない。しかし、重要なのは、土地は国家のものだという考え方である。国家から土地を与えられた公民は、それを耕し、国家に税を納めねばならないという論理が確立された。
 口分田に配分された以外の田地は公田とされ、国司が百姓に賃貸し、収穫の5分の1を地子として徴収した。公田地子は太政官に送られ、臨時の支出などにあてられた。
 里長(郷長)は課役賦課の基本台帳となる計帳をつくらねばならなかった。そして、この計帳により、成年男子に調、庸、雑徭、軍役などが課された。調はその地方の特産品、たとえば絹や綿、塩、アワビ、海藻、鉄、油、染料、海産物、山の幸などで納められ、庸は年に10日、都に出て使役される歳役とされ、実際には特産物や米で代納されていた。それらはみずから都に運んで、政府に納めなければならないとされていたが、実際はどうだったのだろう。
 また、成年男子には、年に60日を限りとして、国司のもとでさまざまな公共的な労役に従事する雑徭も化されていた。
 租の稲は国や郡の倉に収められた。その一部を籾として貸し出す制度もあった。籾を借り受けると、秋の収穫期にそれを5割増しで返却しなければならない。これが出挙(すいこ)の制度である。さらに凶年に備えて、一定量のアワを納める義倉の決まりもあった。
 成年男子には兵役の義務が課されており、正丁(20歳すぎから60歳までの健康な男子)の3、4人に1人が、国の命じる警備や軍務に従事しなければならなかった。東国の兵士の3分の1は、防人(さきもり)として筑紫や壱岐、対馬に送られていたという。
 当時は平民のあいだでも社会的分業が進み、市庭での交易もさかんになっていた。大陸・半島から渡来した者も含め、高度な職能民は課役を免除し、品部、雑戸として扱われていた。宮廷に直属する贄人(にえびと)もいて、かれらは宮廷に魚貝や海藻、果実などの海の幸、山の幸を貢進していた。
 中央政府は都から諸国に国司を派遣し、国衙(こくが)と呼ばれる政庁で、かれらに一切の政務をゆだねていた。国司のもとには、かつての首長の雰囲気を残す郡司が任命されていて、旧豪族として一般平民を支配していた。国司による統治は郡司抜きにはありえなかった。しかし、官制のうえでは、郡司の地位は国司よりはるかに低かった。
 網野はこう書いている。

〈このように、[中国から移入した律令によって]確立した日本国の国制は最初に成立した本格的な国家の制度として、またそれを実現しようとした支配者層の強烈な意志によって、その後の列島社会に強く深い影響を与えたが、なお未開な素朴さのなかにあり、地域それぞれにきわめて多様な平民の社会生活を実際には組織しえていない早熟な国家だった。〉

 8世紀に誕生した日本国は、律令によって人民を支配する体制を整えようとしていた。そして、表向き豪族の支配から切り離された人民の多くは、新たに生まれた国家に租税や貢納、軍役、雑役を提供しながらも、自由民として生きる道を求めつづけていたといえるだろう。

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