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東国政権の成立──網野善彦『日本社会の歴史』を読む(7) [歴史]

 1156年7月2日に鳥羽上皇が死ぬと、朝廷は後白河天皇側と崇徳上皇側に分裂し、一触即発状態となった。後白河には、関白忠通、信西(藤原道憲)、源義朝、平清盛がつき、崇徳には藤原忠実、頼長、源為義、平忠正がついた。7月11日、両者は激突し、後白河側が圧勝する(保元の乱)。崇徳側についた武士は処刑され、崇徳も讃岐に流された。
 その後、後白河の朝廷は信西を中心に動いていく。すぐに新制(保元新制)が発せられた。全国土は天皇の支配下にあると宣言され、新たな荘園整理令が発された。認められた荘園以外は公領とみなされた。
 荘園を所有するのは、院や摂関家、大寺社などだった。これを本家という。だが、実際にそれを管理しているのは地元の有力者で、預所(あずかりどころ)や領家と呼ばれる。さらに、実際の徴税や夫役の指示をするのが、公文や田所である。上級者が下級者に年貢や公事(徭役や夫役)を請け負わせる仕組みになっている。
 いっぽう公領には知行国主(国司[国守])が任じられ、それを補任する目代(もくだい)が朝廷に納める税や納物を請け負うことになっていた。
 1158年、後白河は子に譲位して上皇となり、二条天皇が誕生した。しかし、英明な二条は後白河の意のままにならず、朝廷は分裂の様相を呈する。
 天皇派に藤原信頼、源義朝がつき、上皇派の信西、平清盛と対立する。信頼と義朝は、清盛が一族とともに熊野に詣でている隙に信西を襲い、殺した。
 帰京した清盛は上皇ばかりか天皇をも抱きこみ、義朝を討った(平治の乱)。義朝は殺され、清盛が政治の中心に踊りでる。二条が退位し、六条が天皇になると、後白河院政のもと、1167年に清盛は太政大臣に昇進した。
 清盛は娘の盛子を関白藤原基実の妻としていたが、1166年に基実が死ぬと、その所領を事実上、自分のものとしてしまう。摂関家の権威は失墜し、政治の実権はますます清盛の手に集中した。だが、そのころから、後白河と清盛の関係があやしくなりはじめる。
 1168年、清盛は重い病にかかり、出家する。その間、天皇は六条から高倉に代わっている。京都における平家一族の勢力は揺るぎない。
 出家後、清盛は摂津の福原に居を構え、大輪田の泊の修築に力を注いでいた。宋から九州にくる商船をこの泊まで引き入れたいと思っていたのだ。
 1171年には娘の徳子が高倉天皇の中宮となり、清盛の権力はさらに強まった。だが、平家一門への反発は次第に増していく。後白河の近臣が僧俊寛らとともに平氏打倒の陰謀を企てる。これを察知した清盛は陰謀をつぶすとともに、後白河自身を政治から排除した。
 1178年に徳子が高倉天皇の子を産むと、清盛はただちにこれを皇太子に立てた。
 1179年には異常な物価騰貴が生じ、京都の民衆が苦しんだ。宋銭があまりに大量に流入したことが原因だった。
 後白河は関白基房と手を結び、反撃に転じる。だが、清盛の軍勢に屋敷を取り囲まれ、別荘の鳥羽殿に幽閉された。院政は停止され、清盛が政治権力を完全に掌握した。
 1180年、高倉は退位し、清盛の外孫で3歳の皇太子が位を継ぐ(安徳天皇)。反平氏の気運は増すばかりだった。後白河の次男、以仁(もちひと)王が諸国の武士に平氏追討を呼びかける。しかし、計画はすぐに察知され、以仁王と源頼政は宇治で敗死する。
 ここで清盛は突然、上皇や天皇を引き連れて、福原への遷都を強行した。
 東国では以仁王の呼びかけに応えて、源頼朝が挙兵、続いて頼朝のいとこにあたる義仲が立ち上がった。頼朝は相模の石橋山で平氏軍に完敗する。頼朝はいったん海路で安房に逃げ、そこで態勢を立て直し、武蔵に攻め込み、鎌倉を拠点にした。
 肥後や熊野、尾張、美濃でも叛乱が広がる。平氏は頼朝を討つため大軍を送りこむ。だが、富士川の戦いで頼朝軍に敗れた。頼朝はそのまま上洛せず、いったん鎌倉に戻って東国を固めることにした。
 清盛はわずか6カ月で、福原を捨てて、平安京に戻った。そして後白河の院政復活を認めることで、危機をしのごうとした。東国との戦争に備えるため、畿内と西国は軍政下に置かれた。だが清盛は1181年閏2月に急死する。そのあと、しばらく源平が対峙する状態が続いた。
 事態が動いたのは1183年になってからである。北陸まで勢力を伸ばしていた源(木曽)義仲は、砺波山の倶利伽羅(くりから)峠で平氏軍を撃破し、その勢いで京都に進攻した。平氏一族は京都を捨て、安徳天皇を擁し西国に向かった。
 義仲は京都を占拠した。後白河上皇は安徳に代わる天皇として、4歳になるその弟を後鳥羽天皇として即位させた。同時に東国の独立性を認める宣旨を頼朝に送った。
 義仲は孤立した。1184年正月、義仲は頼朝が派遣した義経・範頼の大軍と戦い、近江の粟津で敗死した。義経らの軍はその勢いで、平氏を追撃、一ノ谷で平氏を海に追い落とした。義経は屋島の合戦のあと、長門の壇ノ浦で平氏一門を滅亡させる。1185年2月のことである。
 だが、頼朝は後白河に接近する義経に疑惑をいだくようになった。両者の対立が激しくなってくる。頼朝は義経を暗殺しようとしたが失敗。これにたいし、義経は後白河から宣旨を得て、西国で頼朝と戦おうとした。だが、これもうまく行かず、けっきょく奥州の藤原秀衡のもとに身を寄せることになった。
 頼朝はみずから軍を率いて京に向かい、使者を送って、後白河の裏切りを糾弾し、義経追討に向かった。後白河の周辺は頼朝に近い九条兼実(かねざね)らの公卿によって固められ、朝廷を監視する京都守護が置かれた。
 1187年に藤原秀衡(ひでひら)が死ぬと、その子、泰衡は義経を討って、その首を頼朝に送った。だが、頼朝はそれに満足せず、1189年に大軍を送って、平泉の奥州藤原氏を滅ぼした。頼朝は東北に奥州惣奉行、九州に鎮西奉行を置いて、全国にわたる軍事的支配を広げていった。
 1190年、頼朝は上洛、後白河から権大納言、右大将に任命されるが、10日後に辞職。鎌倉に戻って、政所を通じて、御家人たちへの所領恩給をおこなった。
 1192年、後白河が死に、関白九条兼実の地位が安定し、頼朝も待望の征夷大将軍に任じられた。京都の朝廷と鎌倉の幕府の関係はきわめて円滑になった。
 1196年、兼実は失脚。源(土御門)通親(みちちか)が朝廷の実権を握った。だが、京都と鎌倉との関係は変わらない。
 1198年、通親の外孫が土御門天皇となり、後鳥羽院政がはじまる。頼朝は自分の娘を後鳥羽の後宮にいれようとしたが、うまく行かない。落馬が原因で、1199年に死んだ。通親は京都における鎌倉勢力の一掃をはかった。
 頼朝のあとは頼家が継いだ。だが、有力御家人たちを押さえることができなかった。頼家が頼みとしていた梶原景時も失脚してしまう。
 1203年、頼家は征夷大将軍に任じられる。この年、頼家の舅、比企能員(ひきよしかず)が北条時政に殺され、そのとき頼家の長子、一幡(いちまん)も死んだ。有力御家人たちは、頼家を廃して伊豆に流し、頼朝の次男、千幡(実朝)を将軍に立てた。1204年、頼家は伊豆修善寺で暗殺される。
 このころ鎌倉の実権を握っていたのは北条時政だ。時政は畠山重忠を謀反の疑いがあるとして誅殺し、さらに将軍実朝を廃して、自身の娘婿、平賀朝雅(ともまさ)を将軍に立てようとした。これを察知した北条政子(頼朝の妻で、頼家・実朝の母)は、朝雅を殺し、父時政を伊豆に流した。
 政子がにらみをきかせるなか、北条義時が執権になった。義時と対立していた和田義盛は謀反の疑いをかけられ、滅ぼされる。
 源実朝は和歌や蹴鞠を通じて、京都の朝廷に接近していた。宋にあこがれ、宋に渡航する夢さえいだいていた。
 1202年に源通親が死んだあと、京都では「治天の君」後鳥羽上皇の力が強くなり、文芸や武芸にも大きな影響をおよぼしていた。『新古今和歌集』が撰されたのもこのころである。
 1210年、後鳥羽は土御門を退位させ、順徳を天皇につけた。鎌倉の実朝をも自己の影響下に置き、その存在感を示しそうとしていた。
 1219年、実朝が頼家の子、公暁によって暗殺される。北条政子は後鳥羽の子を将軍に迎えようとするが、後鳥羽はこれを拒否。幕府は頼朝とわずかに血のつながっている西園寺公経(きんつね)の外孫で2歳の三寅(九条頼経)を鎌倉に迎え、東国の首長とした。
 承久の乱のきっかけは、ごくささいなものだった。後鳥羽が寵愛する白拍子亀菊の所領から地頭を排除するよう鎌倉幕府に求め、これを義時が拒否すると、後鳥羽がいきなり暴力に訴えたのが発端である。
 後鳥羽は1221年に順徳を退位させ、その幼い息子を即位させた。そのうえで、朝廷直属の武士などを集めて、京都守護を討ち、諸国に北条義時追討の命を下したのだ。
 しかし、北条政子の訴えのもと、東国の御家人たちは北条義時のもとに結集し、京都に向かった。後鳥羽軍と東国軍は木曽川で激突、後鳥羽軍は潰走し、東国軍は近江の瀬戸に引かれた防衛線も突破し、京都になだれ込んだ。
 勝利した東国軍は幼い天皇(明治になって仲恭と諡[おくりな]された)を廃し、後鳥羽を隠岐、順徳を佐渡に流し、出家していた後鳥羽の兄を還俗させて後高倉上皇とし、その子を天皇に即位させた(後堀河)。ここで天皇が廃されなかったのが不思議である。
 京都の王権は東国の監視下に置かれた。京都を占領した北条義時の子、泰時と、義時の弟、時房はそのまま京都に滞在し、六波羅に探題を設けた。
 東国の御家人たちは、地頭として補任された西国の荘園・公領で無法な振る舞いにでた。そのため幕府はそれを規制しないわけにはいかなかった。
 1224年、義時が急死し、政子が泰時を執権の地位にすえた。泰時は叔父時房を連署(執権補佐)とし、11人の評定衆を定め、合議と多数決によって、政治を運営することにした。こうして執権政治が確立する。
 1230年、未曾有の飢饉が諸国を襲った。とくに京都は惨憺たるありさまになった。幕府はさまざまな対策をとって、これを乗り越えた。
 1232年、泰時は関東の基本法として関東御成敗式目を定めた。王朝の律令格式とは別の定めがつくられたことになる。
 網野はこう書いている。

〈これはいわば関東は関東、王朝は王朝、すなわち東は東、西は西ともいうべき姿勢を、謙虚ながら確信をもって明らかにしたものであり、ここに独自な法と機構によって、おおよそ三河・信濃・能登以東の東日本に統治権を行使するとともに、従者としての御家人に支えられた鎌倉の将軍、東国の王権を頂点にもつ東国「国家」が、京都の天皇、西国の王権を頂点に西日本を統治する王朝国家と併存しつつ確立したのである。〉

 東西を二分し、京都と鎌倉に二つの王権が成立した。日本社会はそれなりに安定した軌道に入った、と網野は記している。
 この時代には荘園公領制が定着した。
 大田文(おおたぶみ)と呼ばれる田の土地台帳、畠文(はたぶみ)と呼ばれる畠の土地台帳がつくられ、荘園、公領の田や畠の広さ、平民百姓の家屋数なども把握された。
 賦課は大田文に記載された田をもとになされた。東西の王権は田地を基本としており、その意味で「農本主義」にもとづいていた、と網野はいう。
 天皇家、摂関家、上級貴族は知行国を持っていた。将軍家も東国を中心にいくつかの知行国を持ち、平氏や貴族、武士から没収した荘園や公領を支配下に置いていた。延暦寺、興福寺、伊勢、上下加茂などの大寺社も多くの荘園を抱えていたことを忘れてはならない。
 税として徴収されたのは米ばかりではない。各地の特産品が年貢として徴収された。東北では金や馬、東国では絹や綿、西国では米、油、紙、塩、鉄、牛など。畠からも麦、豆、粟、蕎麦などが徴収された。漆や栗、魚貝、わかめなどの海産物、松茸、平茸、柿、胡桃、長芋なども貢納されていた。
 網野は同じ荘園・公領でも東と西で大きな違いがあることを強調する。
「西国の荘園・公領は本家を頂点に、領家(国主)、預所(目代)、下司・公文、さらに百姓名の名主などの職が、それぞれ請負、任免の関係をもちつつ重層する『職(しき)の体系』ともいうべき体制によって支配されていた」
 東国の荘園・公領の規模は西国よりはるかに大きく、御家人が地頭となって、郡・荘を請け負い、一族や代官を各地に配置していた。西国では東国の地頭への抵抗が強かったという。
 この時代の特徴として、網野はさらに、非農業民の広がりと交易の発達をあげている。市場社会が顔をのぞかせはじめている。
 製鉄や製塩、製紙、その他数多くの手工業に携わる人びとが増えている。漁撈や水上運輸もそうだ。
米や絹、布が交換手段として用いられていた。市庭(いちば)では、鍋、釜、鎌、鋤、鍬などの鉄製品や陶磁器、小袖、帷子、直垂などの衣類、太刀や弓などの武器も並べられていた。
 13世紀前半になると、宋から流入した銭貨が広く流通するようになる。市の開かれる日には、鋳物師、油売、魚貝売、塩売、酒売、小袖売などの商人が市庭に集まってきて商売をはじめた。女性の商人も多かったという。
 職能民はもともと朝廷や官、寺社に帰属し、供御人(くごにん)や神人(じにん)、寄人(よりゅうど)などと呼ばれていた。かれらは聖なる者の分身として、各地を放浪しながら交易に従事した。
 その代表は鋳物師だが、中には神物としての銭を貸す者も登場した。海上や陸上の要衝に関を設け、関料をとる者は、海賊や山賊、悪党に早変わりした。
 13世紀はじめには、商人や金融業者の集まる多くの津や泊が町として発展しはじめる。そこに遊女たちも出入りするようになった。
 しかし、年貢物が集まったのは京都、奈良である。このころ洛中南部(下京)には、多くの職能民が住み、酒屋、針磨(はりすり)、銅細工の作業所、借上(金融業者)の仕事をするようになっている。白河には車借(運送業者)が大勢おり、その南の六波羅は武士の拠点となっていた。貴族や官人、寺院の僧侶、商工民、武士、牛飼童、博打、穢れを浄める非人、京都はまさに多くの人びとであふれていた。
 東国でも東京湾や利根川などの河川、霞ヶ浦などの湖沼を中心に海上交通が活発になっている。多くの津や泊が生まれ、東海道にはいくつも宿ができていた。こうした海陸の交通網は、鎌倉街道や和賀江の泊などを通じて、鎌倉に収斂していた。
 鎌倉には幕府があり、多くの御家人や文筆官人、職能官人が住み、職人や商人も集住していた。ここでは天照大神よりも鶴岡八幡宮、北野社が尊崇され、伊豆山、箱根、三島社、日光などに東国の神々が祭られていた。
 鎌倉では宋の文化が積極的に取り入れられていた。頼家も実朝も臨済禅の栄西を通じて、宋にただならぬ関心をいだいた。史書では慈円の『愚管抄』、歌では西行の『山家集』、随筆では鴨長明の『方丈記』が知られる。『平家物語』が生まれたのもこの時代である。
 何よりも特筆すべきは仏教界の新しい動きである。法然は山門を離脱し、念仏を唱える易行を唱えた。親鸞は法然の教えを引き継ぎ、悪人正機の思想に行きついた。道元は純粋に禅を求め、越前に永平寺を建てた。明恵上人は法然にきびしい批判を加え、戒律の復興を唱えた。
 農業中心の社会ではあったが、商業と金融、交通が発展し、人びとの交流が盛んになりはじめていた。貴族社会と武士政権がせめぎあうなかで、新たな思想や文化が登場するのが、この時代の特徴だ、と網野は論じている。

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