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後醍醐・尊氏時代の混沌──網野善彦『日本社会の歴史』を読む(9) [歴史]

 1333年5月、後醍醐は京都に帰還し、六波羅攻略の功労者、足利尊氏を鎮守府将軍に、子の護良(もりよし)親王を征夷大将軍に任じた。新政権の初仕事は朝敵の所領没収である。だが、幕府御家人の所領をすべて奪うわけにもいかなかった。没収は北条氏一門とその与党の所領に限らざるを得なかった。多くの守護の所領はそのまま認められたが、戦功のあった者や腹心が、あらたな守護や国司に任じられた。
 しかし、まもなく尊氏と護良の対立が激しくなりはじめる。護良派の北畠親房は奥州に陸奥将軍府を置くことを提案、いっぽう尊氏も鎌倉に鎌倉将軍府を置くことを提案した。これはともに認められ、陸奥将軍府には親房の子顕家(あきいえ)が、鎌倉将軍府には尊氏の弟、直義(ただよし)がおもむくことになった。どちらの将軍府も将軍には後醍醐の子が奉じられていた。
 1334年、後醍醐は子の恒良(つねよし)を皇太子に立て、年号を建武とした。大内裏を造営し、銅銭を新たに鋳造し、紙幣を発行することも計画されていた。
 後醍醐は中国にならい、天皇専制体制の樹立を目指していた、と網野はいう。諸国の検地をおこない、収穫を銭(貫高)で評価し、その20分の1を天皇直属の倉に納税させる方式を実施しようとしていた。
 だが、武家政権時代の契約や慣習の破棄を前提とする政策は、猛烈な反発を生んだ。国中に混乱が広がっていく。1334年10月には護良による後醍醐打倒計画が発覚し、護良は排除された。
 1335年、かつて関東申次を務めていた西園寺公宗(きんむね)が後醍醐を暗殺しようとして失敗し、処刑される。北条高時の子、時行が信濃で叛乱をおこし、鎌倉を占領した。
 鎌倉将軍府の足利直義は、幽閉されていた護良を殺し、三河に脱出した。直義を助けるため京都から駆けつけた兄の尊氏は、ただちに鎌倉を奪回し、後醍醐の帰京命令にしたがわず鎌倉にとどまった。そのため、後醍醐はこれを明確な謀反と断定し、新田義貞の軍を鎌倉に送った。だが、新田軍は足利軍に敗れる。
 1336年、足利軍は敗走する新田軍を追って、京都に突入した。しかし、足利軍は楠木正成や名和長年らの組織する「悪党」の軍に翻弄され、さらに奥州から参戦した北畠顕家の軍にも攻撃されて、京都を逃げだし、兵庫から船に乗って、九州に向かった。
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[『融通念仏縁起絵巻』に描かれた異形の人びと]
 九州に向かう途中、足利尊氏は後醍醐に没収された武士の所領を返還することを約束し、みずからが幕府の継承者であることを鮮明にした。後醍醐によって天皇位を奪われた持明院統の光厳天皇の院宣も得ている。
 九州で軍を整えた尊氏は、ふたたび京都に向かった。兵庫の湊川では楠木正成を撃破し、京都を攻略すると、光厳の弟、光明を天皇に立てた。後醍醐は延暦寺を頼って、しばらく戦ったが、形勢はますます不利となるいっぽうだった。そこで後醍醐は尊氏にいったん降伏し、その後、京都を脱出して、吉野山にはいり、あらたな朝廷を開いた。
 こうして、京都と吉野にふたつの政府が生まれる。京都では、持明院統の天皇をいだく、足利氏を中心とする幕府ができ、吉野では大覚寺統の天皇が朝廷を開いたことになる。京都は北朝、吉野は南朝と呼ばれるが、その実体は武家と公家の二つの王権だった、と網野はいう。
 室町幕府には、最初から尊氏と直義の路線対立があった。尊氏と直義の二頭政治はその後、深刻な混乱をもたらすことになる。
 二つの政府のあいだで激戦がくり広げられた。吉野側は熊野海賊を引き入れ、瀬戸内海に勢力を広げた。
 東国では、武家勢に攻められた北畠顕家が多賀城を放棄し、大軍を率いて鎌倉にはいった。そして、そのまま東海道を進んで、美濃の青野ヶ原で幕府軍と戦った。敗れた顕家は、それでも伊賀から奈良に向かい、最後は1338年に和泉堺の戦いで敗死することになる。
 北陸の新田義貞は越前の国府を占領し、守護の斯波高経(しばたかつね)を攻めたが、藤島城で戦死した。
 こうして、後醍醐側は、北畠顕家と新田義貞の有力武将を失うことになる。
 吉野の後醍醐は劣勢を挽回すべく、東国や遠江(とおとうみ)、四国などに子息や武将を派遣する。しかし、1339年に後醍醐は吉野で死去、息子の義良(のりよし)が後村上天皇となった。その後、南朝側は劣勢を挽回することができず、京都の幕府によって追い詰められていくことになる。
 室町幕府で実質的に政治を担っていた足利直義は、徐々に幕府の体制を強化していた。新たに地頭となった者による勝手な年貢徴収を禁止し、引付(ひきつけ、裁判機関)を拡充することで訴訟を公正・迅速におこなうことにも努めている。律宗・禅宗寺院を中心に寺院制度も整え、後醍醐の冥福を祈るため京都に天竜寺を建立した。
 ところが、直義の統治権が強化されるのをみて、尊氏配下の高師直(こうのもろなお)、さらには佐々木道誉(どうよ)や土岐氏などが勝手な振る舞いをしはじめる。直義派と師直派が生まれる。それを尊氏は傍観していた。
 そのころ、南朝方の北畠親房(顕家の子)は、常陸の小田城で『神皇正統記』を書き上げた。だが、親房は幕府軍の攻勢に耐えきれず、拠点とする城を失い、1343年に吉野に逃げ帰った。
 敗色が濃かったとはいえ、南朝側は攻撃をやめなかった。1347年には熊野水軍が堺を攻撃し、さらに薩摩にもあらわれた。四国の忽那島(くつなじま)にいた懐良(かねよし)親王は熊野水軍とともに九州にはいり、九州で勢力を拡大していく。楠木正成の子、正行(まさつら)は摂津を攻撃していた。
 これにたいし、高師直と弟、師泰の軍勢は1348年に河内の四條畷で正行を破った。その勢いで師直は吉野を攻め、後村上を麓の賀名生(あのう)に追い払った。
 幕府内で力を強めた師直らにたいし、直義は1349年に、みずからの養子(尊氏の子)直冬を中国探題に任じた。そして、幕府の人事権を掌握する尊氏に迫って、師直を執事の職から外させた。
 だが、師直はクーデターをおこし、直義を失脚させてしまう。尊氏は息子の義詮(よしあきら)を鎌倉から呼び戻し、みずからの後継者とした。
 いっぽう、直義の養子、直冬は九州に逃れ、そこで勢力を蓄えていた。これを討つため、こんどは尊氏と師直の軍が西に向かう。ところが畿内で直義党の武将が蜂起し、尊氏・師直軍を討ち、師直と弟の師泰が殺された。
 これにより直義が政権を握ったかにみえた。しかし、尊氏派の武将が京都を包囲したため、直義は北陸を経て、鎌倉に向かった。
 尊氏はいったん吉野の政府に降伏したのち、鎌倉の直義を討ち、1350年に鎌倉を占領し、直義を死に追いやった。
 室町幕府の混乱に乗じて、吉野方は1352年に京都に進軍し、北朝の上皇らを捕らえ、河内に送った。さらに、鎌倉を占領し、鎌倉から尊氏を追い出した。だが、それもつかのま、尊氏は鎌倉を回復、京都を追われた尊氏の息子、義詮もひと月足らずで京都を回復した。
 こうして、京都、吉野、九州に三つの政府が分立した。京都では連れ去られた上皇と皇太子に代わって、後光厳が天皇に立てられた。東北では足利氏一門の斯波氏と畠山氏の対立がつづいていた。九州では、鎮西探題の一色氏と対抗しながら、足利直冬がみずからの勢力を築いていた。
 吉野方は九州に懐良(かねよし)親王を送り、まず直冬を討ち、ついで一色氏を撃破した。1355年に懐良は太宰府に拠点を置き、吉野からも京都からも自立する動きを示した。
 賀名生に移っていた吉野方では1354年に北畠親房が亡くなり、強硬派と融和派の対立もあって、急速な弱体化が進んでいた。しかし、その京都でも畿内の守護どうしの対立が激化するなか、幕府の権威は地に墜ちていた。
 そんななか、1358年に足利尊氏が死ぬ。そのあと、京都と吉野は一進一退の戦いをくり広げ、一時は吉野方が京都を奪回することもあった。だが、たちまち幕府方に奪還され、その後、畿内の吉野方はほとんど無力になっていく。
 足利義詮はようやく混乱を切り抜ける。1362年には一門の斯波義将(しばよしまさ)を将軍執事としている。執事職はまもなく管領と呼ばれるようになる。山陰の山名氏や山陽の大内氏が幕府に招き入れられた。管領の斯波氏は幕府財政の充実に力をそそいだが、延暦寺や興福寺の反発を招き、1366年に失脚した。
 1367年、義詮は10歳になる息子、義満に政務を譲った。管領には細川頼之が任じられた。鎌倉府では公方基氏が死に、その子、氏満が跡を継ぎ、上杉氏が管領として、これを補佐する体制が生まれた。こうして、東西にわたり、ようやく安定のきざしがみえてきた。
 1368年、元の皇帝は北方に追われ、朱元璋が明を建国した。そのころ倭寇の集団が高麗を襲い、高麗は滅亡の危機に瀕していた。明に倭寇の禁圧を求められた九州の懐良はこれに応じ、日本国王の名を与えられている。
 幕府では、管領の細川頼之が瀬戸内海の海上権を掌握しながら、寺社と守護との勢力均衡をはかるとともに、南朝を吸収する方策を練っていた。
 1371年、頼之は今川了俊を九州探題とし、懐良に対抗しようとした。京都では検非違使の権限を奪い取り、京都を将軍の直轄下におくことが課題になっていた。
1379年、斯波氏は鎌倉公方氏満と結んで、頼之排斥の動きに出た。頼之は自宅を焼いて、四国にくだった。じつは、この計画を密かに推進していたのが将軍の義満にほかならなかったとされる。
 頼之がいなくなったあと、義満は新たな管領として斯波義将(よしまさ)を迎えるが、そのときはすでにみずからの権力を振るうようになっていた。義満が将軍直轄軍(奉公衆)をおいたのも、みずからが守護の力を抑える実力をもつためだった。
 1380年、京都の室町に「花の御所」が完成した。これが室町幕府という名称の由来である。義満は後円融上皇から洛中の行政裁判権を奪い、京都における将軍の支配権を確立した。
 1385年から90年にかけ、義満は各地を巡覧し、将軍の権威を誇示した。有力守護の土岐氏や山名氏の勢力を削ぐことにも成功している。そのころ九州探題の今川了俊も懐良の死後、弱体化していた征西府を押さえこんでいる。さらに、義満は南朝の後亀山天皇に働きかけ、1392年に南北朝の合一に成功した。
 1401年には西園寺家の山荘があった北山に壮麗な邸宅を建設した。これが金閣寺である。この年、義満は明に使いを出し、翌1402年に明の皇帝により正式に日本国王に奉じられた。勘合貿易がはじまる。
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[足利義満。ウィキペディアより]
 1407年、義満の正室、日野康子は准母(じゅんぼ)となり、その子、義嗣が親王の待遇を受けた。すなわち天皇になりうる位である。だが、1408年に義満は急死、それにより天皇位奪取は未遂に終わった。
 義満の死後、貴族たちは義満に太上天皇の称号を贈ることを決定するが、重臣会議はそれを辞退し、義持を義満の後継者とし、足利家の家督とした。重臣たちは、将軍と天皇の権威が合体することで、専制的権力が出現することを恐れた、と網野は記している。
 義満の死後、義持は明の皇帝から日本国王の称号を受けることを拒否し、それにより日本と明との公式の国交、勘合貿易は一時とだえた。
 やっかいなのは倭寇の動きだった。倭寇に手を焼いた朝鮮の太宗は1419年に倭寇の根拠地、対馬を攻撃した。対馬の守護代、宗氏がこれに応戦し、朝鮮軍は引き揚げた。その後、朝鮮国王の代替わりを待って、日本と朝鮮の国交は回復する。
 13世紀以降、日本では貨幣経済が活発になり、各地の荘園・公領の年貢は市場で売却され、公事、夫役などの負担も銭に換算されるようになった。税は銭で計算されて支配者に送られていた。14世紀以降は、その銭も替銭(かえぜに)や割符(さいふ)のような手形、小切手のかたちで送られるのが普通になった。
 荘園・公領の多くは大名(たいめい)と呼ばれる守護の支配下にはいっており、実際には代官たちがそれらを請け負っていた。代官たちはすでに経営者だったといってもよい、と網野は書いている。
 代官たちは年貢の納期に商人から割府を入手して送った。請負を円滑にするため有力者や百姓たちと酒宴を開くのも、代官のだいじな仕事だった。守護が現地にやってこないようにするため、守護には一献料や酒肴料を贈っていた。
 年貢の納期になると市庭での相場を見定め、できるだけ高い値段で納入物を売るのが腕の見せ所だ。荘園の収入や経費はその都度、細かく帳簿に記入され、年末に散用状という決算書をつくって、本所(土地所有者)の決裁を受けなければならなかった。
 このころは六文子(ろくもんこ、月利六分)と呼ばれる金貸しも多くなり、有徳人(うとくじん、金持ち)もでてくる。銭自体を神仏のように崇める風潮が広がろうとしていた。
 商業や金融に携わる僧や山伏まで登場してくる。交通の要所、寺社の門前などに、町がつくられていた。15世紀には商人や問丸(倉庫業者)が中心になって、自治都市が誕生する。
 貨幣経済、信用経済の発達に伴い、村落の自治傾向も強まってくる。乙名(おとな)百姓、長(おさ)百姓、あるいは名主が、みずから村の掟を定めるようになる。つくられていたのは米だけではない。養蚕や製糸、製紙、造林、果樹栽培、鉱物採取、製塩など、村では多様な生産活動がくり広げられていた。
「荘園公領制に代わる新たな村町制がしだいにその姿をあらわしはじめた」と、網野は書いている。
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[『七十一番職人歌合』から。ウィキペディア]
 14世紀末から15世紀にかけ、諸国の守護は大名に成長していく。九州では島津、大友、四国・中国では細川、大内、山陰では山名、北陸では斯波、東海では今川などである。ほかにも一色、武田、畠山など、東西にまたがる領地をもつ守護大名もいた。東国は鎌倉府の管領、上杉氏の力が強かったが、千葉、三浦、佐竹、小山など鎌倉時代以来の氏族も残っていた。
 中国大陸との関係では、とりわけ禅僧が大きな役割をはたしていた。僧たちは詩文や庭園、水墨画、書籍出版などに貢献しただけではない。外交文書の作成や勘合貿易の実務をおこない、荘園・公領の経営を請け負ったりもしている。
 このころ中国に輸出されていたのは金、銅、太刀、扇など。いっぽう中国から輸入されていたのは銅銭、陶磁器、絹などである。海外との貿易は中国と朝鮮半島だけにとどまらず、アジア全体に広がっていた。
 1420年代には、中山王が三山を統一し、琉球王国が誕生した。北方ではアイヌの動きが活発化し、民族としてみずからを形成しつつある。津軽から道南にはいった安藤氏はアイヌとの交渉を通じて、大きな政治勢力を築こうとしていた。
 いっぽう、この時代に差別観が広がったことにも網野は注目している。村や町が自治の傾向を強めるなかで、遍歴・漂泊をつづける宗教民や芸能民、商工民への警戒が広がり、それが差別につながった、と網野は書いている。穢れもまた忌避されるようになった。聖なる者としてキヨメをおこなっていた者も賤視されるようになる。
 女性たちは金融や商工業の面でも、引きつづき活躍していたが、女性の社会的地位は低下しつつあった。かつては宮廷に出入りし、天皇や貴族に接していた遊女たちは、次第に社会から賤視されるようになった。
 だが、こうした差別される者のなかから芸能が生まれてくる。御庭者のなかからはすぐれた築庭家があらわれる。立花(華道)や茶道も、非人の流れをくむ人びとによってつくられた。観阿弥や世阿弥は猿楽と呼ばれた芸能を能に高めていった。東山文化のほとんどは被差別民と何らかのかかわりをもっていた、と網野は指摘している。

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