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応仁の乱から戦国時代へ──網野善彦『日本社会の歴史』を読む(10) [歴史]

 室町幕府が京都の室町にいわば本社を置いていたとすれば、鎌倉府はいわば室町幕府の支社にあたる。鎌倉府の公方には、足利尊氏の子孫が任じられていた。
 15世紀にはいると、室町幕府と鎌倉府のあいだに深い溝が生まれはじめたというところから、網野は筆をおこしている。
 14世紀末に鎌倉府は陸奥・出羽を支配下においた。鎌倉公方の足利満兼は、弟の満直、満貞を奥羽に下した。ふたりはのちに笹川公方、稲村公方と呼ばれるようになる。陸奥や出羽の公方たちに、伊達氏が逆らい、叛乱をおこした背景には、室町公方(将軍)の支持があったといわれる。
 1416年にも上杉氏憲が鎌倉公方持氏にたいし叛乱をおこした。直接の原因は、氏憲が関東管領を罷免されたことにある。だが、このときは室町将軍義持が鎌倉の持氏を支持したため、乱は鎮圧されている。
 だが、この乱を収めたことにより、鎌倉の持氏は専制的な姿勢をあらわにし、東国支配を強めた。これにたいし室町方は鎌倉方を牽制する姿勢を示した。そのため、室町と鎌倉は対立を深めた。まるで二つの政府が生まれたようだった、と網野は書いている。
 1423年、足利義持は嫡子の義量(よしかず)に将軍職を譲った。だが、義量は2年後に18歳で亡くなる。1428年に義持も後継者を指名しないまま世を去った。重臣たちは議論の末、やむなくくじで将軍を選ぶこととし、出家していた義円が選出された。
 義円は還俗し、義教(よしのり)を名乗る。この年、天皇家も称光が亡くなり、後花園が即位していた。
 そのころ畿内では土一揆(つちいっき)が巻き起こっていた。南朝の系譜をひく小倉宮が叛乱をおこし、伊勢にはいった。
 将軍義教は重臣の有力守護たちを押さえ、将軍専制を確立しようとして、みずからの回りに腹心をそろえた。自分に刃向かう者にたいしては、強硬な姿勢で臨んでいる。それは鎌倉公方にたいしても同じだった。
 1438年、義教は後花園天皇の綸旨を取りつけ、東国に軍を送った。鎌倉の持氏は自殺に追いこまれる。その息子たちを結城氏朝がかくまうと、義教は上杉憲実にこれを攻めさせ、結城氏もろともに殺した。これにより鎌倉府は壊滅する。
 義教の政治姿勢は苛烈で、公卿、神官、僧侶、女官はじめ、多くの人びとが恐怖におちいっていた。そのひとりに播磨国守護の赤松満祐(みつすけ)がいる。1441年6月、満祐は義教を酒宴に招き、その最中に義教を斬殺した。播磨に戻った満祐は3カ月後、重臣の細川氏、山名氏に討たれた。
 京都周辺では、徳政を求める土一揆が巻き起こっていた。負債をかかえて困窮した馬借や土倉、国人、地侍、惣百姓などが、寺院に籠もって幕府に抵抗した。幕府は徳政令を出さざるを得なくなる。
 関東では、管領の上杉憲実が自分の蔵書を足利学校に寄進し、諸国遍歴の旅に出てしまった。不安にかられた室町幕府は、足利持氏の遺子、成氏(しげうじ)を鎌倉公方とし、1449年に鎌倉府を再建した。
 だが、成氏は次第に管領の上杉氏と対立するようになる。両者は1454年に全面衝突、翌年、鎌倉は炎上した。
 東国は動乱の時代にはいった。足利成氏は古河に移り、古河公方と称されるようになる。
 京都では義教の死後、1442年に幼い義勝が将軍になった。だが、義勝は翌年亡くなり、弟の義政が跡を継いだ。だが、重臣どうしの争いが激しく、政治は停滞する。そこに義政の妻、日野富子が介入してくる。政府内はめちゃくちゃになり、政治どころではなくなる。
 将軍家でも、義政の弟、義視(よしみ)と子の義尚(よしひさ)の主導権争いが激しくなり、それに重臣たちがからむという構図が生まれていた。なかでも、深刻さを増したのが、細川勝元と山名持豊(もちとよ)の対立だった。
 1467年、細川と山名の軍は、東軍と西軍に分かれ、京都で激突、これにより京都の大半が焼失した。応仁の乱が発生したのだ。動乱は西国全体におよぶことになる。
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[応仁の乱。ウィキペディアより]
 1473年に山名持豊と細川勝元が相次いで死ぬ。1477年に畠山義就(よしひろ)が京都を撤収すると、京都の戦乱はいちおう収まった。この動乱のさいちゅう、将軍義政は東山に通称、銀閣寺と呼ばれる山荘を造営した。
 そして、まもなく山城国はじめ各地に一揆がおこりはじめる。
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[銀閣寺。ウィキペディアより]
 全国のほかの動きもみておこう。
 1442年、北奥羽の南部氏に攻撃された安藤氏は、北海道南部に移動し、松前や函館などに多くの館を築いた。1457年にはコシャマインを指導者とするアイヌと戦っている。アイヌとのあいだでは、その後、交易の縄張りについての協定がまとまった。この安藤氏にたいし、勝山館に陣取る蠣崎(かきざき)氏(のちの松前氏)が勢力を伸ばしはじめていた。
 北奥羽では南部氏が大きな勢力を誇っていたが、南奥羽では会津の蘆名(あしな)氏、16世紀にはいってからは伊達氏が台頭する。
 北関東では、常陸の佐竹、下野の宇都宮、小山、下総の結城、安房の里見などの豪族がそれぞれの地に根を張り、南関東の武蔵、相模、伊豆などでは16世紀に後北条氏が強大な領国を形成するようになる。後北条氏を創始したのは北条早雲であり、子の氏綱が勢力を拡大した。
 後北条氏に対抗して、駿河の今川氏は遠江から三河まで勢力を伸ばした。甲斐国守護の武田氏は晴信(信玄)の時代に信濃まで領土を拡大した。越後では守護代の長尾氏が守護上杉氏のもとで力をつけてくる。そして、長尾景虎(謙信)は上杉憲政から、ついに上杉の名跡と関東管領の地位を譲られることになる。
 尾張では守護代の織田氏が領国の統制に苦しんでいたが、16世紀後半になると信長が出て、領土を広げることになる。その前に、美濃では、守護代斎藤氏の家臣が守護代家を乗っ取り、やがて守護の土岐氏も倒して斎藤道三と名乗っていた。
 伊勢では北畠氏、近江の湖南では六角氏、湖北では京極氏の家臣だった浅井氏が領国を形成した。
 そうしたなか、一向一揆を背景に浄土真宗が勢力を拡大していた。その指導者蓮如は、1478年、山科に本願寺を建て、各地に真宗の道場寺院を開いた。そして、加賀では1488年の一揆により、加賀一国を支配下に置くことになった。大坂の石山にも本願寺が建てられ、大坂に自治都市が誕生する。
 そのころ、細川氏と大内氏は、瀬戸内海と勘合貿易の主導権をめぐって争っていた。和泉の堺は、まさに両者の争いの焦点だった。
 1508年、大内義興(よしおき)は堺にはいり、足利義稙(よしたね)を将軍にかついだ。
1518年に義興が帰国すると、こんどは細川高国が義稙に代わり義晴を将軍とした。義晴の弟、義維(よしつな)は堺に滞在し、三好元長らに支えられ、堺公方として、大きな力をふるった。
 1523年、中国の寧波(ニンポウ)で、大内氏の勘合貿易船を細川方の船が襲うという事件が発生する。これにより、明は海禁政策を強化し、日本と中国との公的貿易は途絶した。その結果、私貿易が活発になり、明政府は倭寇に悩まされるようになる。
 朝鮮半島でも大内氏は活発な貿易をくり広げていた。しかし、16世紀に入ると、朝鮮政府は貿易を統制するようになり、公貿易は衰え、私貿易が活発になってくる。多くの商人に交じって、山陰の尼子氏が貿易に割り込んでくる。
 中国地方では、尼子氏と大内氏が敵対するなか、毛利氏が力を伸ばした。1551年に大内義隆が重臣の陶晴賢(すえはるかた)に殺されると大内氏は滅亡する。
 これにたいし毛利元就は1555年に厳島で陶晴賢を破り、さらに尼子氏を滅ぼして、中国地方の大半を支配することになる。毛利氏は石見銀山を押さえ、大量の銀を海外に輸出することで、経済的基礎を固めた。
 四国では、細川氏の家臣、三好氏に代わって、土佐の長宗我部氏が強大になってきた。
 九州は大友氏と島津氏の二大勢力のもとに置かれていたが、肥前では松浦、龍造寺、大村、有馬などの勢力が活発に動いていた。
 16世紀にはいると、島津氏は琉球王国に接近し、琉球貿易の独占をねらうようになる。
 大友氏、松浦氏は五島列島を根拠地とする倭寇の首領、王直と交流しながら、中国大陸との交易をおこなっていた。1542年とその翌年には、この王直の乗ったポルトガル船が種子島に到着し、日本に鉄砲をもたらした。
 1549年にはフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来航し、日本にはじめてキリスト教を伝えた。ザビエルは松浦氏や大内氏、大友氏に布教を認められ、活動を開始する。まもなくガスパル・ピレラ、ルイス・フロイスなどもやってくる。大名の大村純忠はみずからキリスト教徒になり、教会領として長崎を寄進した。
 九州各地ではポルトガル船との交易が盛んになった。16世紀後半にはスペインがフィリピン征服に乗り出していた。多くの日本人が東南アジアに渡航し、各地に日本人町が生まれた。

 アイヌは北海道を拠点として、広く交易をおこない、チャシと呼ばれる砦(聖地)を築いていた。叙事詩『ユーカラ』がまとめられた。
 琉球王国では、按司(あじ)と呼ばれる首長が丘の上にグスク(城)を築き、ウタキではノロたちが神事をおこなっていた。
 日本列島でも、15世紀から16世紀にかけて、多くの城が築かれた。それは砦であると同時に、民衆が戦乱を避けて籠もる場所でもあった。
 村や町は領主への年貢や公事を請け負いながら、高度な自治を築いていた。こうした自治体は惣中(そうちゅう)や老若(ろうにゃく)、公界(くがい)と呼ばれ、町や村での犯罪は「自検断」、すなわち自治体みずからの責任で裁かれていた。
 無縁所と呼ばれる大寺院があらわれるのもこのころである。無縁所は世俗の領主とかかわらない寺院で、土地を持たず、金融や勧進、事業によって運営されていた。こうした寺院はしばしば避難所(アジール)や駆込寺としての役割をはたした。
 堺や山崎(山城)、大湊(伊勢)、宇治山田などの多くの自治都市は「十楽之津」と呼ばれ、都市自体がアジールの性格をもっていた、と網野はいう。
 海や湖では、廻船人や海運業者、商人たちが縄張りをつくって、それを管理していた。そこには独自の慣習が生まれ、そこを通るには礼銭や関銭を払わねばならないこともあった。瀬戸内海ではいくつかの島に海賊の拠点があり、かれらは海上交通の安全を保障するとともに、通過する船から礼銭や関銭を取っていた。
 16世紀には、石見や佐渡、生野、院内などから採掘された銀が活発な国際貿易を支えていた。朝鮮半島から輸入されていた木綿は国内でも広く栽培されるようになった。タバコも流入し、喫煙習慣がはじまっている。中国大陸からはいった大鋸(おおが)が製材に革命をもたらした。
 化粧品から食品まで、多くの商品に即して商人も分化・専業化してきた。信用経済が定着し、各地に両替屋が生まれている。「十六世紀の列島社会は、『経済社会』ともいうべき状況になってきたといってよかろう」と、網野は書いている。
 経済社会の進展に対応して、戦国大名は自治的な都市の自由な市場取引を公認し、楽市を促進することで、みずからの立場を強化した。さらに戦国大名は、村を支配する国人や地侍などを取り込むことによって、地域全体の支配者としての立場を鮮明にしていった。
 とはいえ、16世紀半ばになると、戦国大名の公儀化、すなわち権力集中が進んでいったこともまちがいない。「戦国大名は自らの居館、城を中心とした城下町をつくり、できるだけそこに国人たちを集住させ、公儀の一元化をはかった」と網野はいう。官僚組織が生まれ、税制や財政、軍役体制が整備されていった。
 ここで、網野は東と西のちがいを強調している。
 西と東では貨幣がことなっていた。中国では銀が活発に流通し、銭の役割が低下していた。それを反映して、西国でも銀が流通しはじめるようになったが、銭の信用は下落するいっぽうだった。そのため、米がふたたび貨幣としての役割を果たすようになったという。西国大名のなかでは石高制を採用する者が多くなった。
 これにたいし東国では、明の永楽銭が基準通貨となっていた。また陸奥や甲斐で金が採掘され、金が貨幣として用いられはじめた。
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[甲州一分金。ウィキペディアより]
 こうした東西のちがいは、戦国大名の国制にも大きな違いをもたらす。西国大名が概して石高制を採用したのにたいし、東国大名は武田氏にしても伊達氏にしても貫高制を守っていた。貨幣や税制だけではない。暦や計量尺度、社会意識、政治体制も西と東では大きなちがいがあった。だが、東西のちがいを越えて、人とモノの流れは列島全域、いや列島を越えて、ますます活発になっていった。それが戦国時代の終わりをもたらすことになる。
 長々と書いてきたが、次回はいよいよ最終回だ。

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