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グローバリゼーションのもたらすもの──ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』を読む(4) [商品世界論ノート]

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 グローバリゼーションの特徴は移動性にある、と著者のミラノヴィッチは書いている。もちろん商品は移動する。だが、それは古代からの現象だ。近年の特徴は、商品だけではなく、資本と労働が国境を越えて移動することだ。
 最初に取り上げられるのが労働の移動、すなわち移民の問題である。
 市民権(国籍)は国から与えられる一種の資産だ。大量の資本と先進技術、すぐれた制度をもつ国において、それにアクセスする権利が市民権をもつ者にかぎられるとすれば、またその人がそれによって高いフローの生涯所得を得ることができるとすれば、その市民権は一種のプレミアムをもつ、と著者はいう。逆に貧しい国の市民権はペナルティとして意識されるだろう。
 市民権は国の領土内に限定されるわけではない。グローバル時代においては、たとえ自国から切り離されたときでも市民権は存続する。国外旅行者を考えればよい。イタリアに住むアメリカ人はアメリカの市民権をもっているし、日本で働くフィリピン人はフィリピンの市民権をもっている。そして、一定の条件が揃えば、市民権の変更も可能になる。
 市民権は一種の経済資産だ、と著者はいう。A国の市民権がB国の市民権より毎年多くの所得をもたらすなら、生涯所得からみて、A国の市民権のほうがB国の市民権より価値が高いということになる。その意味で、資産としての市民権は、高齢者より若者にとって価値が高いともいえる。
 カナダやイギリス、ギリシアでは、市民権を購入することができる。その金額はかなり高く、実際にこれを買うのは金持ちにかぎられる。富裕者の3分の1、すなわち世界全体で約1000万の人が二重市民権をもっているというのは驚きである。
 サブ市民権というものもある。アメリカなら永住ビザ(グリーンカード)があり、ヨーロッパや日本にも同じようなものがある。サブ市民権をもつ者は、市民権の多様な権利や恩恵にあずかれない(たとえば投票権はなく、公務員になれないなど)が、それでも他国に住む権利を認められている。
 現在は移民の流れが変わりつつある。富裕国が移民の増加を警戒するようになり、逆に貧困国のなかに移民を呼び込もうとしている国もある。経済的にみれば、国家間の労働の移動を阻止するのは不合理でもあるし、非効率でもある。にもかかわらず、多くの国が移民の増加を抑えようとするのは、移民がさまざまな社会的摩擦を生むからだ、と著者はいう。
 著者は移民を「国家間の平均所得が不均衡な状況でグローバリゼーションが起きる場合の、一生産要素(労働力)の移動」と定義している。経済面で国際的な不均衡が存在する場合には、移民が発生する可能性は常にある。
 グローバリゼーションが避けられないとすれば、人間の自由な移動も避けられない。それでも、実際に移民が増えてくると、社会的に大きな問題が生じるのはなぜか。
 移民が規範や文化、言語、行動など、これまでの社会のあり方に大きな混乱を巻き起こすことを人びとが懸念するのは無理もない。移民が大きな経済的影響をもたらすのも事実だろう。
 ここで、著者は一見奇妙なテーゼを持ちだす。それは「移民が永久にその国にとどまり、市民権のあらゆる恩恵を受ける可能性が低ければ低いほど、自国民が移民を受け入れる可能性が高くなる」というものだ。
 このテーゼは、その国に到着次第、移民に完全な市民権が与えられるなら、自国民はそうした移民を受け入れないということを想定している。逆に、移民に多くの権利が与えられない場合──たとえば教育や社会保障、家族呼び寄せの権利が与えられず、長く滞在できず、高い税金をとられるといったような場合──にかぎって、自国民はそうした移民をより多く受け入れると仮定されている。
 この皮肉なテーゼは、いわば極論のうえに成り立っているのだが、それは最善の移民政策を探るためのアプローチだ、と著者はいう。移民には国際的にも国内的にも、さまざまなメリットがある。しかし、現実的な解決策は必要だし、「制限のあるなかで実現できそうな解決策を探すほかないのだ」。
 アメリカには不法移民も含め、さまざまな移民がいて、市民と非市民の厳格な境界はもはや維持しがたくなっている、と著者はいう。移民の非合法なルートは閉鎖しなければならないが、合法的なルートは開放しておかなければならない。
 移民の受け入れが必要なことを著者も認めている。だが、移民によって底辺層(アンダークラス)が生まれ、地域的なゲットーができ、犯罪率が高まり、かれらのあいだに疎外感が広がっていくという問題にどう対処していけばよいのか。そうした課題は残されたままだ。

 次に論じられるのは資本の移動についてである。モノや人に加えて、資本が国境を越えて移動するのがグローバリゼーション時代の特徴だといえる。
 グローバリゼーション時代の組織的イノベーションは、グローバル・バリューチェーンが確立されたことだといわれる。こうしたイノベーションによって、企業は何千キロも離れた遠隔地の生産・流通ラインを管理できるようになった。その前提として、資本が移動がしやすくなったのは、所有権のグローバルな保護が進展したためだということも認識しておくべきだろう。
 かつては、開発途上国は先進国によって搾取されつづけるという考え方が強かった。しかし、グローバル・バリューチェーンが不可欠になったことにより、こうした考え方は減りつつある、と著者はいう。「今日、ある国が発展するには、富裕国との関係を断ち切る努力をするよりも、西側のサプライチェーンに入れてもらうことが必要だ」
 現実に、中国、韓国、インド、インドネシア、タイ、ポーランドなど、グローバル・バリューチェーンにはいることのできた国だけが、経済発展を遂げることができている。さらにこのリストには、今後、バングラデシュ、エチオピア、ミャンマー、ベトナム、ルーマニアなどが加わってきそうだ。
 現在のグローバリゼーションのもとでおきているのは、経済のアンバンドリング(切り離し)現象だ、と著者はいう。
 企業は「こちら」(国内)で管理と調整をおこない、「あちら」(海外)で実際のモノを生産する。企業は中心から工程を設計・管理し、世界中に散らばる下請業者に生産を分散し、時に製品を組み立てることができるようになった。
 これが可能になったのは、IT革命により、情報伝達コストが空間的にも時間的にも削減されたためである。さらに、いまでは技術の所有者ができるかぎり多くの技術をオフショア(海外)拠点に移そうとする傾向さえでてきている(それがいっぽうでは中心の空洞化を引き起こすのだが)。
 1990年代以降のグローバル化によって、これまでの経済発展の図式は大きく変化した、と著者はいう。
「開発途上国が成功するのに不可欠なのは、もはや自国の経済政策を用いて、事前に決められたさまざまな段階を経て発展していくことではなく、中心(グローバル・ノース)が組織するグローバル・サプライチェーンの一翼を担うことだ」
 さらに、著者はいう。

〈その反対に、[北への従属から離脱するのではなく、むしろ北と]つながることでアジアは絶対的貧困から中所得の状態へと驚くべき短期間で移行できたのだ。この技術的・制度的つながりが起点となって、資本主義が世界に広がり、今日の世界をあまねく支配することにつながった。〉

 世界が平準化していくならば、貧困国の住民が移民に駆り立てられることもなくなっていくだろう。だが、はたしてそんな時代がやってくるのだろうか。今の段階では、著者もそれは夢物語だと考えているようにみえる。

 グローバリゼーションは、福祉国家のあり方に大きな問題を投げかける。
市民権が一種の資産と見られるとすれば、「長い目で見れば福祉国家の存在は、労働の自由な移動を含む完全なグローバリゼーションとは相容れない」と著者はいう。
 ヨーロッパでは一部の左派政党が、資本の流出にも移民にも反対しているが、それはかれらの支持基盤となっている労働者が、資本と労働双方のさらなる自由な移動によって、その仕事を脅かされているからだ。その点、左派の主張はますます右派政党と似かよったものになりつつある、と著者は指摘する。
 国内の不平等とちがって、国際的な不平等は往々にして見逃されがちだ。「グローバルな機会の不平等は、たいていは万人の問題として検討されないし、まして解決の必要な問題として検討されることはもっと少ない」。過去の時代ならともかく、今日では、グローバルな機会の不平等についても、検討がなされるべきだ、と著者は書く。福祉国家を維持するために、移民を禁止せよという発想はとっていない。

 グローバリゼーションが腐敗を拡大することも触れている。
 30年前にくらべ、大半の国では腐敗が進んだ、と著者はいう。それを実際の数値で表すのはむずかしいけれど、タックスヘイブンに保管されている額や、政界とのつながりで獲得されたと推定される額、その他不正な操作によって得られた額は明らかに増えているという。
 人が金儲けをするのはとうぜんとみなされ、経済的成功があらゆる目的に優先される社会では、道徳観念が薄れ、どんな方法で金を手に入れても、それは腐敗とみなされなくなっている。
 たとえば、毛沢東時代の中国は国際資本主義経済から隔絶していたために、役人がたとえ現金を手に入れても、それを海外に移す手立てさえなかった。だが、いまでは不正に稼いだ金を簡単に海外に移すことができるようになった。中国人だけではない。ロシア人もインド人も、あたりまえのように不正な資金を海外に移転している。
 移転先はタックスヘイブンだけではない。ロンドンやニューヨーク、シンガポールの巨大金融センターも、グローバルな規模の腐敗を助けている。腐敗した金が政治資金や海外のシンクタンク、大学や美術館に流れていることもたしかだ。「法の支配が十分にある地域が、世界じゅうの腐敗を可能にする最大の立役者になっているのは皮肉なことだ」と著者はいう。
 グローバリゼーションにより、人びとは遠く離れた場所での暮らしぶりを以前より知るようになった。とりわけ外国との接触が多い貧困国の政府関係者が、外国人とのちがいを知って、不条理な思いをいだき、賄賂をとるのをやましいと思わなくなる心理はわからないわけではない。
 このとき市民権は一種のペナルティとしてはたらいているのであって、そのペナルティをプレミアムに変えようとして、腐敗行為が発生するのだ、と著者はいう。
 グローバル資本主義がすすむなかで、腐敗がなくなることはない、と著者は考えているようだ。「富裕国の多くの人間が腐敗の恩恵に浴しているし、今日私たちが経験するグローバリゼーションが、それを不可避のものとしているのだから」
 こうしたさまざまな現象を生みだすグローバル資本主義が、これからどうなっていくのだろうというのが最後の課題である。

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