SSブログ

グローバル資本主義のゆくえ──ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』を読む(4) [商品世界論ノート]

img20210802_05433751.jpg
 人を喜ばせること、相手に親切にすること、他者のニーズを知ること、身分で人を差別しないこと、お金がトラブルを解決してくれることなど、資本主義には明るい面がいくつもあると著者はいう。
 また資本家が労働者にきちんと賃金を払い、余剰所得の大半を投資にまわすかぎり、資本家の禁欲精神はむしろ社会的に評価されていたという。
 ところが、現在のグローバル資本主義のもとでは、宗教的ともいえるこうした資本家の禁欲ぶりはまるでみられなくなった、と著者はいう。
 いまでは貪欲さこそが美徳と称えられるほどだ。抑制という内部メカニズムははたらかない。そのため法律や規則だけが強化され、その抜け道を探す行為が横行することになる。カネが支配するこの社会で生き残るためには、どんな汚い手を使ってもいいという風潮が蔓延する。
 それはどこかまちがっている。いまのビジネスがすべてという社会に代わる別のシステムを模索すべきではないかという意見がでてくるのはとうぜんだ。しかし、著者は資本主義の代わりになるものはないと断言する。
 だれもがいっさい働くのをやめて、余暇を楽しむ道を選択できるわけではない。所得はずっと減るけれども、週の労働時間を一律15時間にするという提案に、生活の不安を覚えない人はいないだろう。
 けっきょく資本主義社会が嫌なら、人里離れたコミュニティに隠遁するか、貧しい自給自足経済体制をつくるほかない。現代人ははたしてそれに耐えられるだろうか、と著者は問う。

 現代の資本主義には、原子化と商品化という、メダルの裏表のような性格がまとわりついている、と著者はいう。
 原子化とは、人間が個々ばらばらになることだといってもよい。大家族が分解するだけでなく、家庭すら必要ではなくなるかもしれない。

〈デイストピア的な結論に従えば、この世界は一人で暮らし、たいてい一人で仕事をする個人(子育て中の期間を除けば)で構成され、彼らは他者とどんな長続きする関係も持たないし、必要なものはすべて市場から手に入る。……自分たちで皿を洗い、食事の支度をせねばならない理由もとくにない。〉

 原子化は極限まで行けば、家庭に終焉をもたらす。いままでは外の世界から家族を守るのが家庭の役割だった。ところが、どんなサービスでもお金で買えるようになる豊かな社会では、家族の利点がどんどん失われていく。
 資本主義の時代になると、家庭生活と賃金労働とが完全に分離された。しかし、超資本主義の時代になると、新たなモノやサービスが、次々と新たな領域にはいりこみ、最後の砦ともいうべき家庭までをも資本主義的生産様式に取りこんでいくのだ、と著者はいう。
 そして、原子化というコインの裏側には商品化がある。

〈原子化では、市場で他者から買ったもので自分のニーズをすべて満たすことができるので、人は一人になっていく。かたや完全に商品化された状況では、私たちがその他者になる。私たちは自分の持てるもの[能力]を最大限に商品化することで人びとのニーズを満たすのだが、そこには自分の自由な時間も含まれる[自分の多くの時間が商品化労働のために費やされる]。〉

 原子化と商品化はセットになっている。
 家庭では掃除や料理、庭仕事、子育て、学習もアウトソーシングできるようになった。しかし、それはいっぽうで、アウトソーシングを担うサービスの仕事が増えていることを意味している。資本主義が日常化しているといってもよい。
 ギグエコノミーという言い方があるらしい。インターネットで注文を受け、単発で仕事をしてカネを稼ぐやり方だ。最近はやりのウーバーイーツ、自宅やガレージを空いているときに人に貸す商売などもそのひとつだろう。
 商品化は農業からはじまり、産業をへて、ついにサービスや時間にまで到達した。「以前は商品でなかったものが商品化されたことで、誰もが多くの仕事に就くことが増えたし、自宅の部屋を貸すなどして彼らを日常的な資本家に変えることも増えてきた」
 自由に好きなように働けるという点では、労働市場がフレクシブルになったという言い方もできる。だが、そこに問題がないわけではない。
 人間関係はすべて金銭で割り切られ、家庭は空洞化するだろう。道徳観念などというものはなくなってしまう。
 資本主義の究極の成功は、自分自身が企業になること、損得の計算機になることだ、と著者はいう。「私的領域の商品化とは、超商業化資本主義の最高点である」
 だが、その行きつく先は、「富のユートピアと同時に対人関係のディストピアとなるだろう」。
 資本主義は経済的成功を収めた。これに代わるものは見えていない。喧伝されるのは、資本主義のもたらす豊かさである。しかし、その反面の害毒はひそかに溜まって、個を通じて暴発するようになるのだ。

 機械が導入されてから、この200年のあいだ、人類は技術進歩にたいする不安をいだきつづけてきた。だが、それはたいてい杞憂に終わってきた、と著者はいう。
 現在はAIやロボット工学が進展している。このままオートメーション化が進めば、労働者が失業し、生産が過剰になり、地球の資源をくいつぶすのではないかという見方がある。しかし、それはいずれも誤りだ、と著者はいう。
 まず、失業についていうと、たしかに短期的には雇用が減るかもしれないが、「新たな技術は結局のところ新たな仕事を存分に生み、それどころが失った仕事よりも良い仕事をもっと多く生みだ」すはずだ。
 生産過剰の心配もない。人間のニーズは限られていると思われがちだが、そうではない。「私たちのニーズは無限であり、また技術の正確な動向を予想できないことから、新たなニーズがどんなかたちをとるかも私たちには予想がつかないのだ」
 地球の限界についても、著者はまったく楽観的な見方を示している。「技術が向上すれば、発見するありとあらゆるものの貯蔵量が増え、それをもっと効率的に利用できるようになる」というのだ。
 技術進歩を止めることはできない。新たな技術導入によって、仕事がなくなることはない。それは新たな生産システム、新たなニーズ、新たな資源、新たな雇用、新たな生活スタイルを生みだすという見方をとっている。

 ベーシックインカムについては、著者は慎重な態度をとっている。
 ベーシックインカムは、市民一人ひとりに無条件に継続して基礎的な所得を与えるというものだ。これが実施されれば、富裕層にそれなりに税金が課せられ、所得の不平等や貧困問題が多少なりとも改善されると期待されている。
 だが、著者は懐疑的だ。ひとつは、それがほとんどためされていないこと、もうひとつは、そのコストがはっきり見通せないこと、さらに、だれにでも与えられるベーシックインカムが社会保障の理念をすっかり変えてしまうこと、またベーシックインカムが導入されることによって社会がどう変わるか予想がつかないことである。そのため、著者はベーシックインカムに性急に移行するのは危険だという考え方を示している。

 これから世界はどうなっていくのだろう。
 万一、グローバル核戦争が起こるとすれば、その原因がグローバル資本主義にあるのはまちがいない、と著者はいう。資本主義は平和が基本だといわれようと、資本主義が戦争に強いつながりがあることは、20世紀のふたつの世界大戦をみても明らかだ。
 21世紀にひとたび戦争がおこれば、その犠牲者は膨大な数にのぼるだろう。資本主義の内なるメカニズムがこうした衝突を招く可能性を無視するわけにはいかない、と著者はいう。それでも、核戦争によって人類が半減したとしても、技術的な知識が地上から消え去ることはないだろうとも述べている。
 そして、この先数十年、もしグローバルな戦争が起きなかったとしたら、グローバル資本主義はどういう方向をたどるかを、著者は予想する。
 リベラル資本主義と政治的資本主義を比べてみよう。リベラル民主主義の利点は何といっても民主主義である。これにたいし政治的資本主義は経済の管理と高度成長を約束する。だが、政治的資本主義はリベラル資本主義にくらべ悪政や腐敗を生みやすい。
 はたして、これからの世界は新自由主義の方向と権威主義の方向とどちらを選ぶのだろうか。あるいはまったく別のタイプの資本主義(新たな社会主義)が生まれるのだろうか。
 これとは別に、現在、見過ごすことができないのがアジアの再興である。
 これからもアジアの経済発展がつづくなら、中国につづいてタイやインドネシア、ベトナム、インドなどの所得水準が上昇し、欧米諸国の水準に近づくことが予想される。それは世界に画期的な変化をもたらすはずだ、と、著者はいう。
 予測できないのが、アフリカがどうなるかだ。とりわけ世界人口の14%を占める(2040年には20%になると予想される)サハラ以南のアフリカのゆくえがわからない。だからこそ、アフリカの経済発展に果たす中国の役割に注目しなければならない、と著者はいう。
 そうした中国の動きがはたして世界の不平等を緩和し、破滅的な世界戦争のリスクを減らすことにつながっていくか。注目すべきはその点だ。

 資本主義のありうべき方向として、著者は民衆資本主義、さらには平等主義的資本主義というふたつのモデルを示している。
 民衆資本主義においては、だれもがほぼ等しい割合で資本所得と労働所得を得る。それでも所得には差があるが、不平等の増加は抑えられる。医療と教育は無償で提供される。
 いっぽう平等主義的資本主義においては、誰もがほぼ同じ量の資本所得と労働所得を得る。個人間の不平等は少ない。機会の均等が保障され、国は再分配によって社会保障を実現する。
 長期的にみれば、そうした目標に移行するのは、わりあい簡単だと著者は断言する。
 富裕層への富の集中を減らすこと(中間層に税制優遇措置をもうけ、富裕層に累進課税や高い相続税を課すこと)、公教育の予算を増やし、教育の質を改善すること、「軽い市民権」を導入し、移民を認めること、政治活動への資金提供を厳しく制限すること、などである。
 だが、逆に現在の新自由主義的な資本主義が、金権政治、さらには政治的資本主義に向かう可能性がないわけではない、と著者はいう。
 エリート層がますます政治的領域を支配し、富と権力を結びつけていくことも、じゅうぶんに考えられる。
 人びとが民主主義的プロセスに希望を失い、政治的無関心が広がってくなら、有能な官僚が国を能率的にコントロールするなかで、腐敗とごまかし、不平等がはびこる社会がますます広がっていくだろう、と著者はみている。
 大いに論議されるべき本である。

nice!(11)  コメント(0) 

nice! 11

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント