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領主経済の発生と崩壊──ウェーバー『一般社会経済史要論』を読む(3) [商品世界論ノート]

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 空間や時間を飛び越えて、歴史を型(パターン)によってとらえていくのが、ウェーバー独特の方法だった。それは全世界を把握せずにはおかぬという、すさまじい知の火花だったともいえるが、そのめくるめく展開に時についていけぬ思いをいだくのは、ぼくだけではないだろう。
 今回の講義で、ウェーバーは、共同体のなかから、どのようにして領主の権力と財産が生じるのかを論じはじめている。
 最初に首長の権威があった。首長は仲間に土地を分配する権限をもっていた。ここから権威の世襲化が発生し、それが権力となっていったことが考えられる。首長による給付にたいしては、貢納義務(労役や軍務を含む)が生じた。
 首長はまた軍事指導者でもあった。戦いによって得られた土地は家臣に分配された。武装の強化と軍事技術の進歩が職業的戦士身分をつくりだした。かれらは首長の命にしたがって、敵を征服し、隷属させ、その支配下にあった農民を隷農とした。
 中間の非戦闘民がひとりの領主をパトロンとし、かれに仕えることで、土地の経営をゆだねられることもある。
 首長が領主として定住し、人や牛馬を多数所有して、大規模な開墾にあたるケースも生じた。開拓された土地はたいてい貸与され、それを貸与された者は貢納と奉仕の義務を負うことになった。貨幣や穀物が貸与されることもある。古代ローマには多くの債務奴隷がいた。
 しかし、首長の前身は軍事指導者ではなく、むしろ雨乞い祈禱者のような呪術的カリスマであることが少なくなかった、とウェーバーはいう。かれらはタブーをつくることもでき、それによって共同体を支配した。
 もうひとつ、首長の力を大きくした要因が対外交易の掌握である。首長は交易を管理し、商人を保護し、市場特権を与える代わりに関税を要求した。王が交易を独占する場合はエジプトのファラオのような権力が成立し、多くの貴族が商人に金融をおこなう場合は中世のヴェネツィアやジェノヴァのような貴族による都市支配が生じた。
 領主経済はふたつの方向に発展する。ひとつは王侯が官僚機構をもち、経済を中央に集中する方式である。もうひとつは王侯が従臣や官吏に身分を与え、かれらに土地の管理をゆだねるやりかたである。

 東洋と西洋では、治水耕作か森林耕作かで、王侯の役割が大きく異なっていた。
 灌漑治水には官僚機構と組織的計画経済が必要だった。世界でもっとも早く官僚制を築いたのはエジプトとメソポタミアであり、ここでは官僚は王に隷属していた。プトレマイオス朝では、官僚だけではなく、兵士も農民も、国の人口すべてが王に直属すると考えられていた。農民は国から与えられた田畑に縛りつけられ、貢納の義務をはたさない場合は、いかなる保護も受けられなかった。
 貨幣経済は王の家政(オイコス経済)から発達する、とウェーバーはみている。貨幣は王の家政に欠かせなかった。貨幣は対外交易にも必要だった。何かを生産するために労働力を動員せねばならなくなったときにも貨幣が必要となった。
 オイコス経済は枝を広げていく。エジプトのファラオは全国に穀倉をもち、そこをいわば穀物振替銀行とし、小切手を振り出していた。オイコス経済が定着すると、租税もまた貨幣でなされるようになる。対外市場だけではなく、国内市場も生まれた。

 いつの時代も困難なのは、安定した租税を確保することである。権力者は租税を徴収するためのさまざまな方策を考えだした。
 たとえばインドでは、ジャギルダールと呼ばれる業者(地主)が徴税や新兵補充を請け負っていた。中国のように官吏が租税徴収権を専有する場合(もちろんその一部は官吏の収入になった)もあった。トルコのように租税の徴収を軍に委譲するのは、王が兵に給料を支払えない場合だった。こうしたやり方はアジア特有の方式だった、とウェーバーはいう。
 これにたいしローマ帝国では、首長または荘園領主に徴税を請け負わせる方式がとられた。支配者はそれによって徴税のための行政機関つくる煩雑さを省くことができた。
 植民地の場合は特殊である。経済面でいえば、植民地を築くのは、征服者が租税と産物を原住民に課するためだったといってよい。そうした収奪は、たとえばオランダやイギリスの東インド会社などを通じておこなわれた。
 現地の首長は徴税に連帯責任を負い、荘園領主として、農民を隷属させることになった。スペイン領南アメリカでは、地域のインディオに貢納と賦役を課するエンコミエンダの権利がスペイン人入植者に与えられていた。

 アジアでは財政面においても国家による専制がおこなわれていたが、ヨーロッパでは封土(レーエン)にもとづく封建制が成立した。封土を与えられた領主は契約にもとづいて君主に仕え、貢納と軍役の義務を負った。
 一般に領主の封土は世襲された。
 同じ封建制でも、トルコの場合、与えられる封土は、軍功にともなう授封(フリュンデ)にとどまり、一代限りだった。日本の制度は、当初トルコの制度に近いものだったが、次第にヨーロッパに近いものとなった、とウェーバーは述べている。
 もっとも純粋に封建制度を発達させたのは中世ヨーロッパである。その素地は、ローマ帝国末期の荘園制度にあった。荘園は開墾によっても征服によっても発展した。そこに田畑を失った農民が、経済的強者の庇護を求めてなだれこんだ結果、荘園はさらに拡大することになった。
 教会にたいしても、さかんに土地の寄進がおこなわれた。こうした荘園をベースにして、ヨーロッパでは封建制が成立していく。
荘園領主は国家権力から相対的に独立して、荘園の土地、人民、裁判権を保有することに努めた、とウェーバーは述べている。
 13世紀になると、荘園領主と荘民との関係を定めた荘園法が広く適用されるようになった。領主と荘民の義務と権利が定めた荘園法によって、領主と荘民の融和が進むようになった。農民への需要が増えたため、かつての不自由民は次第に有利な条件を得るようになり、それにより農奴の観念は薄れていったという。
 領主は次第に農民を労働力ではなく貢納者とみなすようになった。貢納の内訳は、作物の貢納や土地の変更にたいする手数料、相続のさいの税、結婚許可料、森林や牧地の使用料などである。ただし、農民には運送賦役や道路橋梁の建設作業なども課せられていた。
 領主は全土に散在する所有地をもっていた。そうした領地には荘司が派遣され、荘園の管理がおこなわれていた。
 そのいっぽう、中世においても自由農民の土地がなかったわけではない、とウェーバーはいう。もちろん、こうした自由農民も領主にたいする貢納義務を負っていた。

 貨幣経済が発展すると、荘園制度にも資本主義的要素がはいりこんでくる。それはふたつの形態をとってあらわれた。ひとつはプランテーション(プランターゲ)、もうひとつは大規模農地経営(グーツヴィルトシャフト)だ、とウェーバーは述べている。
 プランテーションは強制労働にもとづき農産物を販売することを目的とする経営だ。古代においてはプランテーションでワインやオリーブオイルがつくられ、近世ではサトウキビ、タバコ、コーヒー、綿花などがつくられていた。
 古代のプランテーションはカルタゴが発祥で、いつでも市場で奴隷が買えることがプランテーションの前提になっていた。プランテーションはローマにももちこまれ、所領の農園では零細小作人(コローネ)と奴隷(セルヴィー)が、厳格な軍隊的規律のもとではたらかされていた。だが、奴隷市場の縮小とともに、この方式は徐々に無理がでてくる。
 合衆国南部のプランテーションは、綿花産業の大発明により綿花の需要が急増したことからはじまった。アフリカ大陸から大勢の黒人奴隷がつれてこられた。しかし、19世紀にはいり奴隷の輸入が禁止され、利用可能な土地が欠乏してくると、南部では奴隷を養成する方策がとられるようになった。
 南北戦争の結果、奴隷は解放された。だが、その後に採用されたのは、奴隷経済を新たな搾取体制である分益小作制に組み替えていくことにほかならなかった。黒人には投票権が与えられず、カースト的差別のもとに置かれたままで、移動の自由さえままならなかった。
 貨幣経済の進展にともなう荘園のもうひとつの方向は、荘園を商品販売に適合する資本主義的大経営に改編することだった、とウェーバーはいう。それがグーツヴィルトシャフトと呼ばれる大規模農地経営にほかならない。大規模経営には、牧畜と農耕、さらには両者混合のパターンがみられた。
 まず牧畜についていうと、南アメリカのパンパスでは、小規模資本による大規模牧畜がはじまった。
 スコットランドでは1746年のカロデンの戦い以降、スコットランドの独立が失われてから、新たな動きが生じた。領主たちは氏族の小作人たちを追いだし、その土地を牧羊地に変えていったのだ。背景には14世紀以来のイングランド羊毛工業の発達がある。イングランドでは早くから農民を土地から追いだす囲い込み運動がはじまっていた。
 囲い込み運動の目的は大規模な牧地経営により羊毛を確保することだったが、穀物を大量生産することにも重点が置かれていたといってよいだろう。1846年の穀物関税撤廃にいたるまでの150年間、イギリスでは穀物にたいする保護関税のもと、小農民が土地を奪われ、大規模農業化が進展していたのだ。
 ロシアでは農民は土地に縛りつけられ、租税簿に登録されていた。領主は農民(農奴といってよい)にたいし無制限な権力を振るっていた。領主は不従順な農民をシベリアに追放する権利をもち、いつでも農民の財産を没収することができた。農民は年貢源として、あるいは労働力として領主から利用され、この状態は19世紀半ばまでつづいた。
 ドイツの西部・南部と東部では、荘園の形態がずいぶんちがう。西部・南部では荘園は分散し、農民は年貢を取り立てられるだけなのに、東部のフロンホーフ(荘園)では貴族の大領地が存在していた。大領地農場経営が進展したのは東部においてである。ここでは領地に付属する世襲的な農業労働者(インストマン)が農場を支えていた。

 次の大きなテーマは、こうした荘園制度がなぜ崩壊するにいたったかである。荘園の崩壊は、農民や農業労働者の人格的解放と移動の自由、荘園の土地の解放をもたらした。それだけではない。荘園制の崩壊は、領主の特権や封建的束縛を奪うことになった。
 荘園制度崩壊のかたちは一様ではない、とウェーバーはいう。
 イギリスのように農民から土地が収奪された場合、農民は自由になったが、土地を失った。フランスのように荘園領主から土地が収奪された場合は、領主が土地を失ったのにたいし、農民は自由と土地を得た。領主と農民の妥協により、農民が土地の一部を得た場合もあった。
 荘園制の崩壊をもたらした内的な要因は、貨幣経済の進展により農産物市場が拡大し、領主も農民もその生産物を売る機会に敏感になったことである。だが、それだけならば、むしろ領主による農民収奪と大規模経営を強めただけで終わったかもしれない。
 重要なのは、むしろ外的な要因だった、とウェーバーはいう。
 都市のブルジョワ層が、荘園制度を市場の障害とみるようになったのだ。農民が荘園に縛りつけられているかぎり、労働力の供給はおぼつかないし、また商品の購買力もかぎられてしまう。こうして、都市のブルジョワ階級は農場領主の支配に敵対するようになった、とウェーバーは論じる。
 初期の資本主義産業は、ツンフト(職人ギルド)の支配を避けて、直接地方の労働力を利用したいと考えていた。自由な労働力を確保するためには荘園の存在が大きな障害となった。
 土地自体にたいする営利的関心も、封建的束縛から土地を解放することを求めていた。さらに国家自体も、荘園の崩壊によって、かえって農村の租税収入が増えると期待するようになった。
 ウェーバーは荘園崩壊をもたらしたさまざまな要因を挙げている。しかし、その崩壊のかたちは多岐にわたるとして、各国の状況をこと細かに分析することを怠らなかった。そのいくつかをごく簡単に紹介しておこう。
 イギリスでは法律による農民解放はおこなわれなかった。荘園を崩壊させたのは、まさに市場の力だった。
 ウェーバーはいう。

〈イギリスでは、市場の存在という事実が、それだけで、しかも何らかの力が外部から加わることなく、まったく内部から荘園制度を崩壊せしめたのである。これに応じて、領主に有利なように、農民からの土地収奪がおこなわれた。農民は自由をえたが、しかし土地を失った。〉

 これにたいし、フランスの場合は、1789年の革命が一挙に荘園制度を崩壊させた。国家は亡命者と教会の土地を没取して、市民と農民に売り払った。それにより、フランスはイギリスとちがって、中小農民の国になってしまった、とウェーバーはいう。
 南ドイツでは進歩的なカール・フリードリヒ辺境伯が1783年に農民解放を実施していた。バイエルンでも1808年に農民の隷属的支配が禁止され、貨幣による貢納が行き渡るようになった。
 プロイセンでは王領と私領で農民にたいする扱いがいちじるしく異なっていた。フリードリヒ大王の時代から王領では農民にたいする手厚い保護がほどこされ、近代的な労働制度が準備され、農民による土地の購入も認められていた。
 いっぽう、私領では伝統的な貴族と領地付属農の関係が持続していた。こうした状況を打ち破ったのはナポレオンの侵攻であり、これにより農民は解放された。しかし、その後、プロイセンではユンカー(土地貴族)によるゲーツヘル(直営農地)の拡大が生じ、農業労働力のプロレタリア化が進んでいくことになる。
 ロシアでは、クリミア戦争(1854〜56)の敗北後、アレクサンドル2世のもとで農民が解放された。しかし、その解放は一面的で、農民は村落の連帯責任から解放されたわけではなく、移動の自由をもたなかった。ミールによる縛りつけは、都市に出た農民にもおよんだ。
 いずれにせよ、各国それぞれの事情をともないつつ、荘園は解体され、今日の農業制度がつくられていったのである。
 農村社会においては、大地主は貴族だった。しかし、貴族層が残ったのはヨーロッパではイギリスだけだ、とウェーバーはいう。フランスでは農村から貴族が排除され、都会の金権層だけが残った。
 ドイツでも政治的な地主の力はそがれたが、東部では大規模地主のユンカーがイギリスと同様の貴族的社会層を形成していた。だが、それは「その過去の歴史に由来する封建的特徴を帯び、農業企業者として、市場利益獲得闘争場裡の経済的日常闘争のうちに巻きこまれてしまっている人々から構成された市民的農村中産階級なのである」と、ウェーバーは注記することを忘れていない。
 今回の講義を終えるにあたって、ウェーバーはこうまとめている。
 貨幣経済の進展とともに、囲い込みや分割、再編によって荘園制は崩壊し、共有地の遺物も消し去られて、土地の個人的私有制が実現した。
 家族共同体はひじょうに小さくなり、いまや妻子を有する家長が個人的私有財産の担い手となるにいたった。家族の機能は消費に局限されるようになり、家族は共産制から遠く離れて、所有財産の相続ばかりに配慮する存在となった。そうした家族の変形が、資本主義の発展と密接にかかわっていることはいうまでもない、とウェーバーは話している。
 こうして、講義のテーマは、資本主義が発展する経緯へと移っていく。
 興味があれば、またお読みください。

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