有効需要の原理──ケインズ素人の読み方(2) [経済学]
「古典派理論の公準は特殊ケースにだけあてはまり、一般の場合にはあてはまらない」とケインズは書いている。
たとえば、古典派は雇用を考える場合に、常に完全雇用を想定する。
かれらの労働市場の公準は、次の2つからなる、とケインズはいう。
(1)賃金は労働の限界生産に等しい。
(2)ある種の労働が雇用されたときの賃金の効用は、その量の雇用による限界的な負の効用と等しい。
ややこしい。早くもつまずきそうになる。深入りを避けて、できるだけ簡単にすませよう。
素人からみれば、(1)は事業者側の理屈であり、(2)は労働者側の理屈である。つまり事業者は賃金を払って利益が出るなら労働者を追加で雇うし、労働者はあまりに安い賃金だと働きにでないという仮説が立てられている。
この仮説からは、さらに次のような推論が導かれる。すなわち、労働市場にも需要と供給の法則がはたらき、いまその需要曲線と供給曲線を頭にえがくと、右下がりの需要曲線と右上がりの供給曲線の交わるところで、実質賃金と雇用量が決定される。
細かい理屈や前提を抜きにすると、これが古典派の基本的な考え方だといってよいだろう。ここからは企業の生産活動に応じて、一定の賃金のもと、必要な労働力はすべて雇われるという原則が導かれる。
だとすれば、1930年代前半の時点で、これほど多くの失業が生まれているのはどうしてなのか、とケインズは問う。
古典派は失業を例外的事態としかとらえていない。失業は、企業に思わぬ変化があったり、本人が仕事を変えたりするとき、あるいは本人がはたらきたくなったときに、たまたま生じるだけだと考えられている。
こうした失業をへらすには、職業紹介所を充実したり、労働環境を改善したりすることに加えて、消費財(賃金財)産業に力を入れたり、金持ちがもっと贅沢品を買ったりすることで雇用を増やすほかない。そんなふうに古典派は考えているが、現在の失業問題は、そんなとってつけたような対策では、とても解決できない、とケインズはいう。
そのうえ古典派は暗黙のうちに、いまの名目賃金(貨幣賃金)で労働者がはたらきたがらないことが失業の原因だとさえ思っている。もし労働者が名目賃金の引き下げに合意するなら、働き口はもっとあるというわけだ。
たしかに労働者が問題にするのは名目賃金だ。物価との関連で決まる実質賃金はさほど問題としない。物価が下がって実質賃金が上がるなら、名目賃金が下がってもいいはずなのに、労働者たちは頑強に名目賃金の引き下げに抵抗する。
古典派は労働者が最低限の実質賃金を受け入れるなら、摩擦失業や自発失業はともかく、非自発失業は生じないと考えているが、それはまったくばかげた想定だ、とケインズはいう。
さらにケインズは実質賃金が事業者と労働者の交渉によって決まるかのように想定しているが、それもまちがっているという。交渉で決まるのはあくまでも名目賃金だ。労働者は実質賃金を決められるわけではない。
にもかかわらず、古典派は実質賃金が下がると、労働者がそれを受け入れず、労働者の供給を減らすのが問題であり、それが失業を生むのだ、ととんでもない考えちがいをしている。実際には、名目賃金はそのままでも物価の上昇によって実質賃金が下がることもあるが、だからといって、労働者が仕事をやめることなどありえない。
名目賃金と実質賃金の議論はややこしいが、名目賃金と実質賃金はかならずしも、比例するわけではない。名目賃金が上がれば、実質賃金が下がることもあるし、名目賃金が下がっても実質賃金が上がることもある。
重要なのは、ここでは労働市場とは別の物価要因がはたらいていることだ、とケインズはいう。これは言い換えれば、雇用の水準が労働市場だけでは決まらないことを意味している。実質賃金の全体的な水準は、経済システムのなかの別の力に左右される、とケインズは書いている。
ここでケインズは古典派が想定しない、「非自発」失業の可能性に言及する。
「賃金財の価格が名目賃金に比べてちょっと上がったとき、現在の名目賃金で働きたがる労働者の総供給と、それに対する総需要が、既存の雇用量よりも高くなる場合に、人は非自発的に失業している」
これが、「非自発」失業にたいするケインズの悪名高い定義である。
さっぱりわからない。要は古典派の図式では、世界大恐慌以来発生している大量失業の問題は解けないことを、しかつめらしく述べたにすぎない、と理解しておく。
失業の問題を把握するには、古典派の労働市場の図式だけみていてはだめだ。そこでは、事業者は必要なだけ労働者を雇い、労働者は賃金に応じて労働力を提供するとしか論じられていないのだから。
古典派理論は完全雇用下の分配を想定する特殊理論にほかならず、失業を例外的事態としかとらえていない、とケインズは断言する。
ここで失業問題を理解するために、ケインズが持ちだすのが有効需要の原理である。
古典派は供給が独自の需要をつくりだすと考えてきた、とケインズはいう。いわゆるセーの法則である。つまり、財の供給が増えれば、それに応じて購買力も増え、経済規模が拡大し、供給と需要が一致するというわけだ。ここではお金の問題はすべて脇に置かれて、めでたく経済が成長していく。しかし、それが錯覚でしかないことは、現に恐慌や失業が発生していることをみればあきらかだ。
それならば、どう考えればよいのか。
長い議論の組み立てになる。
事業者が一定の資本のもと労働者を雇った場合には要素費用(労賃や人件費など)と利用者費用(原料費や設備消耗費など)がかかる。それによる産出高が、要素費用と利用者費用の合計より高ければ利潤が生まれる。
ここから得られる総所得は要素費用と利潤を合わせたものである。事業者は、収益(要素費用プラス利潤)の最大化を期待して、商品の供給量を決めていく。雇用量と供給量の関係から総供給関数をあらわすことができる。
いっぽう商品にたいする予想売上を示すのが総需要関数である。需要が供給より大きいなら、事業者は雇用を増やして供給を増やそうとする。その結果、総需要函数と総供給関数の交点(つまり事業者の利潤期待の最大値)で、雇用量が確定される。ケインズは、総需要関数と総供給関数の交点における需要の値を有効需要と名づけている。
ここで古典派のように、供給が需要をつくりだすと考えるなら、需要総額が供給総額にあわせて動くことになる。そして、雇用量は労働人口の限界にまで達し、完全雇用が実現することになる。
だが、そうなっておらず、むしろ失業が増大しているとするなら、供給は需要をつくりだすという前提そのものがまちがっていると結論づけなければならない。
だとすれば、有効需要が雇用量を決めるという法則に立ち戻って、有効需要の原理を再考する必要がある、とケインズはいう。
ケインズはここであらかじめ、みずからの理論の概要を示している。これらはのちに詳説されるものの、主な方向としては次のとおりだ。
需要は消費だけで成り立つわけではない。消費と投資を合わせたものが需要となる。所得は雇用量によって決まるが、所得はすべて消費に回るわけではない。消費性向にしたがって、一部が消費され、一部が貯蓄される。実際の投資もまた、投資の誘因に依存し、資本の限界効率と利子率によって決定される。
いずれにせよ、消費と投資によって有効需要が定まり、これによって雇用水準が決定される。だが、その水準は完全雇用を上回ることはなく、古典派が想定するような完全雇用が実現するのは特殊なケースだといえる。
古典派がいうように、雇用量は労働の限界的な負の効用によって決まるのではない、とケインズはいう。それなら労働者が名目賃金の引き下げに同意さえすれば雇用量は増え、失業問題は解決するということになる。
だが、問題はそこにはない。古典派の発想は、恐慌をさらに泥沼状態に追いこんでしまう。
問題は有効需要の不足にあるのだ。有効需要の不足が生産プロセスを阻害してしまうところに失業(非自発失業)が発生する、とケインズは考えた。
ただし、有効需要を厳密に規定するためには、消費性向の分析、資本の限界効率の定義、利子の理論を新たに打ち立てなければならない。
重要なのは総需要関数だ。これまでの古典派経済学は、総需要関数を無視してかまわないという発想に立っていた、とケインズはいう。
その例外はマルサスだが、かれは有効需要の原理を説明できなかった。マルクスは声高な主張にもかかわらず、経済学の主流とはみなされていない。
リカードの楽観論は、短期的には、さまざまの不公正や残酷さが発生しても、それは長い目でみれば進歩における不可欠なできごとにすぎないという考えのうえに成り立っていた。その楽観論は、有効需要の不足が繁栄の足を引っぱっていることを顧慮しない結果だ、とケインズは断言する。
〈古典派理論というのは、経済がこうあってほしいという願望を表しているのかもしれません。でも実際にそう機能していると想定してしまうのは、仮定によって困難を見ぬふりをするのに等しいのです。〉
古典派理論なるものへの自信に満ちた挑戦状である。
じっさいのリカードやマルクスがどうであったかを対比してみたい誘惑にかられる。だが、いまはまずは先に進むことを優先しよう。
2021-09-23 07:38
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コメント(2)
書かれていることは理解できるが、何だか頭が追いついていかない感じです。
ケインズ理論というと、私はどうしてもフランクリン・ルーズベルトのニューディール政策の骨子となった経済理論という、平板でステレオタイプなイメージしか持ち合わせていません。というよりニューディール政策の中身すら知らない愚か者です。
ご免なさい。
by U3 (2021-09-25 18:25)
いやいや、こちらこそ楽しみにブログを拝見しております。いつも鋭く情況に斬りこんでおられることに感嘆しております。私の場合は、ひまつぶしのツンドク本整理にすぎません。ご覧いだだき、感謝しております。
by だいだらぼっち (2021-10-01 07:28)