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資本主義はおしまい?──シュンペーターをめぐって(3) [経済学]

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 第2部「資本主義は生き延びうるか」にはいる。
 資本主義は生き延びることができるか。いや、できるとは思えない、とシュンペーターはいう。ウィットが好きな人だから、このことばにびっくりしてはいけない。
 本書の初版本が発行されたのは1942年、第2次世界大戦のさなかだった。自由主義的な資本主義は終わり、これからは社会民主主義の時代がはじまると感じていた。
 シュンペーターの社会主義は、プロレタリア独裁と官僚化と国有化の国家社会主義とはことなる。
そのことを念頭に、けっしてわかりやすいとはいえない、へそ曲がりの記述にあふれた本書を少しずつ読んでみよう。
 ここで展開されるのは、あくまでも事実と論証だ、とシュンペーターは宣言している。将来については「必然性」があるわけではない。あくまでも、こういうことが起こりうるというのにすぎない。予見には誤謬がつきものだ。それでも、事実と論証から、ひとつの太い線は描きだせるものだ。
 資本主義は失敗を重ねて崩壊するわけではない。むしろまれにみる成功を重ねた結果、不可避的に社会主義を志向せざるをえなくなるだろう、とシュンペーターはいう。
 ここで、ややこしいのは、シュンペーターが社会主義者ではないということである。自由資本主義のたそがれ、ヨーロッパのたそがれを見送ろうとしていたのだ。
 もしさらに20年生きながらえて、戦後の繁栄をみていたなら、どんな感想をいだいたかは想像するほかない。しかし、現在の21世紀はじめが、またひとつのたそがれなのだとしたら、戦時中にいだいたシュンペーターの寂寥感も、また現代に通じているとも考えられる。
 シュンペーターは資本主義のたそがれを、どうみていたのだろう。
 不思議なことに、当時アメリカでは資本主義はもう終わりだという雰囲気が広がっていたことがわかる。だが、逆にへそ曲がりのシュンペーターはむしろこれに反発している。ルーズヴェルトは大嫌いなのだ。
 経済的成果を示す概数のひとつが総生産量指数であることはまちがいないところだろう。そこでシュンペーターは、その指数を検討し、1870年から1930年までのあいだに、アメリカが年平均で2%の実質経済成長率を達成したきたことを示す。1929年には大恐慌が発生したが、それは資本主義の長期循環のひとつであって、何も特別なことではない。その後、徐々に景気は回復している、とシュンペーターはいう。
 これからもし2%の割合で経済が成長していけば、50年のあいだに一人あたりの平均所得は2倍になり、富者と貧者の格差は縮まり、貧困は解消されるだろう、とシュンペーターは予測する。
 2%という指数はあくまでも1870年から1930年のあいだの傾向から割り出されたもので、ここでは画期的な新商品の登場や、品質の改良、技術進歩、経済効率の向上といった要素は含まれていない。
 経済成長率という指数がだいじなのは、何も生産がどれだけ増えたかを示すからではなく、人びとがどれだけ満足な生活ができるようになったかをが示すからだ、とシュンペーターは書いている。
 現代の労働者は、ルイ14世が望んでも得られなかったようなもの──たとえば虫歯の治療──も手に入れているし、エリザベス1世がようやく確保した絹の靴下も数多くもっている。ごくふつうの人が、安価な衣料、靴、それに自動車さえ買えるし、電灯だって利用できるようになった(シュンペーターの時代はまだ電化製品がそれほど普及していない)。
 これらは資本主義によって実現されたものだ。
 シュンペーターは産業革命以来の資本主義の長期波動を次のようにとらえている。
 ひとつは1780年ごろに発生し、1800年ごろに最盛期を迎え、それから下降して1840年ごろの回復で終わる産業革命の波動。
 もうひとつの波動は1840年代に発生し、1857年ごろ頂点に達し、1897年に終わる。そして、その後、1911年に頂点に達し、1940年代に終わる波動がつづく。
 こうして並べると、シュンペーターは約55年を長期波動の循環サイクルととらえていることがわかる。いわゆるコンドラチェフ循環である。
 この伝でいうと、1940年代半ばから2000年にかけて(1970年代をピーク)の波動があったことになるが、はたしてあたったかどうか。
 しかし、シュンペーター自身は、1940年代からのコンドラチェフ循環を信じることなく、資本主義の終焉ないし転換を想定していたようにもみえる。
 それはともかく、資本主義にこうしたうねりが生じるのは、新生産方法、新商品、新組織形態(企業合併など)、新供給源、新取引ルートや新販売市場などが開発されるためだ、とシュンペーターはいう。そして、その効果がなくなって、経済が硬直化してくると、長期の不況が生じるようになる。
 ブームは消費財の奔流からはじまる。それらはすべて大衆消費の品物だ。資本主義には、大衆の生活水準を徐々に上昇させるメカニズムが備わっている、とシュンペーターはいう。これにより、農産物にせよ、住宅にせよ、多くの商品が大量に供給されるようになった。
 しかし、そうはいっても、資本主義のもとで、大量の失業が発生しているのは事実である(1929年には大恐慌があった)。
 シュンペーターはそのうち失業は解消されるとも、ますます増大するとも言っていない。失業はどうしても発生する。失業には循環的な傾向がみられるが、新たな産業への適応ができないといった側面もある。
 問題は経済発展を阻害することなく、失業者をじゅうぶんにケアできる体制を整えることだ。
「われわれの生きている時代は、資本主義発展の初期の無能な時代と、十分に成熟した資本主義の有能な時代との中間のどこかである」
 シュンペーターは、資本主義の発達にともない、政府と民間が協調することで社会保障体制がつくられていくものと考えている。
 以前の50年の増加傾向が、そのまま以後の50年にも持続するかどうかは、はなはだ疑問である。それでも、その可能性について検討してみなくてはならない、とシュンペーターはいう。
 資本主義のエンジンは、はたして次の50年も同じように動きつづけるか。資本主義を動かしているエンジンはなにか。
 シュンペーターによれば、資本主義社会は一種のゲームの世界だ。
 事業家はその事業によって富を約束されるか、破産の脅威にさらされるかのどちらかである。
 富が約束されるのは、仕事にたいして才能と精力と並はずれた力量をもつ人にかぎられる。かれらの前には大きな賞品がぶらさがっており、それを獲得するチャンスは対等に与えられていると信じられている。そのため、だれもが自己の最善を尽くしてやまない。だが、ポーカーと同じで、成功か失敗かは、おそろしいほどはっきりする。
 資本主義体制のもとでは、成り上がったり、内部で出世したりする人が、とりあえず有能な実業家とされる。そして、かれらは自己の能力のつづくかぎり実業家の道を歩みつづけることになるだろう。こうしたゲームに勝とうという習性が、いわば資本主義を動かすエンジンになっている。
 古典派の経済学者(スミスやリカード、ミルなど)は、実業家が利潤の極大化をめざすものと考えた。だが、古典派の功績は、利潤をめざすからといって、それが労働者や消費者の利益に反するわけではないことを論証したところにある、とシュンペーターはいう。
 古典派は貯蓄と蓄積を結びつけ、経済は進歩すると想定した。だが、その理論はかならずしも厳密に証明されたものではなかった、とシュンペーターはいう。古典派の経済学は、いわばはりぼての理論である。
 マーシャルやヴィクセルは完全競争の仮説をもとに緻密な経済理論を構築した。独占や不完全競争の場合は、あくまでも例外とされていた。だが、むしろ例外的なのは完全競争のほうなのだ、とシュンペーターは切り返している。
 完全競争は一部農産物などの場合でしか成立せず、その場合、生産者も消費者も、みずから価格を決定することができない。価格は完全競争理論にもとづいて調整されることになる。
 しかし、それ以外のたいていの商品は独占的競争のもとで、製造業者によって価格が決められる。そこでは、製造業者は価格戦術や品質戦術(ブランド)、広告などを用いて、みずからの商品市場を維持するよう努めているのだ。
現代の市場は、むしろ独占的競争や寡占が支配的だといってよい。そこではマーシャルやヴィクセルの命題は当てはまらない。ここには確定的な均衡はなく、企業間のたゆまぬ競争状態がつづく。古典派が想定したような完全雇用も生産量極大も保証されていない。
 棲み分けによる独占的競争や少数の売り手しかいない寡占が市場を支配するようになると、資本主義はいったいどうなっていくのか。シュンペーターが懸念したのはそのことだったといってよい。
 話はつづく。

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