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維新の波──美濃部達吉遠望(5) [美濃部達吉遠望]

十輪寺.jpg
[高砂・十輪寺。ウィキペディアより]

 美濃部達吉の生まれた高砂という町は、さほど日本全国に知られているわけではない。
 だが、世阿弥のこの謡曲は、だれもが知っているだろう。

  高砂や この浦舟に 帆を上げて
  この浦舟に帆を上げて
  月もろともに 出潮(いでしお)の
  波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて
  はやすみのえ[住吉]に 着きにけり
  はやすみのえに 着きにけり

 夫婦の変わらぬ愛と長寿を祈るおなじみの謡が朗々と響く。
 謡われているのは、じつは神霊の老夫婦[尉と姥]が、月に照らされた高砂の浦から船をこぎだし、淡路の島影をみながら、鳴尾(西宮)の沖を過ぎ、大坂の住吉神社に向かう場面である。
 播磨灘に面した高砂は、かつて姫路藩有数の商業地として知られていた。
 ほんとうは近世になってからつくられた町である。池田輝政が加古川東岸にあった町を西岸に移し、その後、計画的に方形の町割りが施され、周囲に堀川がめぐらされた。
 加古川を下った播州の年貢米は、高砂の百間蔵に集荷され、灘や大坂などへ送られた。塩や綿の積み出しがさかんになるのは、江戸時代中期以降である。
 そんな商業都市、高砂に姫路藩家老、河合準之助寸翁の肝煎りで、文化年間(1804〜18年)に準藩校として申義堂がつくられた。町の学問所である。高砂の少年たちに四書五経や小学、近思録、左伝(春秋左氏伝)などを教えた。
 美濃部達吉の父で、蘭方医の秀芳は、幕末になって、この申義堂の教授を務めた。
 申義堂は少年たちにしかつめらしく儒学の経典を教えていただけではない。教授たちも、その仲間も、みずからも研鑽に励んでいた。
 幕末が近づくと、この学問所にも尊皇攘夷の波が押し寄せる。人びとのあいだでは、朱子学に加えて、国学がとうとばれるようになった。
 とうぜん志士気分が盛りあがる。
 しかし、秀芳が政治活動にのめりこんだ形跡はない。父の後を継いで、あくまでも医の道に精進していたのだろう。
 町はずれの共同墓地(ぼくらはセンドと呼んでいた)には美濃部達吉の祖父秀軒(夫妻)と、父秀芳、その妻ゑつ(悦)の墓が残されていた。いまこの3墓は町なかの十輪寺に移設され、碑文も読むことができる。
 秀軒の墓碑を読むと、次のようなことがわかる。
 秀軒は1802年(享保2年)に加東郡木梨村(現兵庫県加東市木梨)に大熊清兵衛の5男として生まれ、努力の末、高砂の本町(おそらく北本町)に医者として開業した。妻は高砂の名家(儒者で医者)、三浦松石の娘で、秀軒のあいだに二男三女をもうけた。その次男が1841年(天保12年)生まれの秀芳、すなわち達吉の父である。
 大熊家に生まれた秀軒がなぜ美濃部姓を名乗ったのかはよくわからない。何か先祖にまつわる言い伝えがあったのかもしれない。
 達吉の父、秀芳(1841〜1904)は通称禎吉、霽海(せいかい[晴れた海の意])と号した。
 秀芳は1855年(安政2年)ごろ、兄良平とともに加東郡上見草村(現加東市)の蘭方医西山静斎に入門したが、静斎が急死したため、高砂に戻り、父のもとで引きつづき蘭方医術を学んだ。
 1866年(慶応2年)ごろ、加東郡古川村(現小野市)の儒医、井上謙斎の次女、悦と結婚した。2男2女にめぐまれている。
 達吉はその次男だが、長男の俊吉は、東京帝国大学卒業後、農商務省、大蔵省を経て、北海道拓殖銀行の頭取、朝鮮銀行総裁になった。
 2女のうち姉のみちは、神戸の外科医、井上学太郎の妻となり、妹のえみは、達吉の同窓で、のち台湾銀行理事となる南新吾と結婚した。
 父の秀芳は医者を開業するかたわら、町の学問所、申義堂の教授をつづけていたが、申義堂は維新の改革により1871年(明治4年)に廃校となった。それでも高砂の名士であることに変わりなかった。
 この年7月、廃藩置県により、高砂の属する姫路藩は姫路県となり、11月には飾磨県と改称された。
秀芳はさっそく新政府の飾磨県第6大区医務取締に任命されている。
 新政府の制度いじりは目まぐるしいほどだ。全国を統一的に支配するため、毎年のように行政組織を改編しつづけていた。全人民を掌握するための戸籍法が公布されたのも1871年のことだった。
 5年後の1876年には、飾磨県が廃止され、摂津、丹波、但馬、淡路島とあわせて、兵庫県となった。達吉が生まれたのはこの年だ。
 1878年(明治11年)、西南戦争の荒波を乗り越えた新政府は郡区町村編制法を公布し、さらに全国を細かく行政の網に組みこんでいった。
 高砂町は兵庫県加古郡に属することになった。このとき秀芳は加古郡第4学区学務委員に任命されている。学区を数字で分類するところに、新政府の近代的な統治感覚があらわれている。
 1880年には区町村会法が制定され、高砂町にも町会が設けられることになった。秀芳も高砂町会議員になっている。
 1888年(明治21年)、明治政府は郡区町村編制法に代わるものとして市制と町村制を導入した。自治を認めようというのではなく、むしろその正反対。翌年の憲法公布とそれにつづく帝国議会発足を前に、内務大臣や府県知事の権限を強化し、地方の統制をさらに強めることが目的だった。
 こうして、1889年に加古郡高砂町が新たな行政単位として発足した。
 このあたりの変遷はまことに目まぐるしい。
 新しい町では町会により町長が選出された。
 秀芳は1893年(明治26年)8月から97年7月まで第2代高砂町長を務め、1904年(明治37年)に数えの64歳で亡くなった。
 その墓碑に、長男の俊吉はおよそ次のように記している。

〈その[父、秀芳の]人となりは、恬澹(てんたん)として欲寡(すくな)く、栄利[栄達や利益]を慕わず、医術のかたわら子弟を集め、経籍を講じた。また、町の公務に参与し、公私のためにすこぶる尽力し、人びとから信頼された。晩年、妻を亡くしたあとは[妻の悦は1895年[明治28年]に55歳で亡くなった]、社交を謝絶し、古い友と酒を酌み交わし、詩を賦し、碁を囲んで、悠々自適の生活を送り、天寿をまっとうした。〉

 それが孫の亮吉(つまり達吉の長男)の筆にかかると、祖父の描写はよりドラマチックになる。

〈祖父は、医者ではあったが、あまりはやらず、町内の子供達に習字や漢学を教えて、主としてその月謝でくらしていたということである。
 したがってその生活もあまり豊かではなかったが、書や漢学においては高砂有数の学者として尊敬されていた。いわば、高砂における最大のインテリの一人であった。
 また、大へん酒が好きであった。もっとも、酒に乱れるということはなかったけれども、いつも酒を手元に置いて、番茶代わりに飲むという風であったらしい。
 そして碁も好きだったということである。祖母[悦]がまた大変な賢夫人であった。並々ならぬ知識と教養を持ち、祖父に代わって患者を診たり、書や漢学を教えたりした。達吉さんがあんなに偉くなったのは、悦さんのおかげだということに、高砂では意見が一致していたということである。〉

 無類の酒好きで、飄々(ひょうひょう)とした貧乏学者のイメージが浮かびあがる。世間の評判など気にもとめない理想の文人像とも受けとめられる。だが、おそらくこれは実像ではない。町長を務めたことからもわかるように、秀芳には政治家としての(たとえ政治家らしからぬ政治家だったとしても)素質も備わっている。
 そして、政治への関心はおそらく子の達吉にも、孫の亮吉にも伝わったものなのである。飄々としたなかにも、政治的信念が芽吹き、はぐくまれ、不動のものとなっていったことは、美濃部家三代に共通している。
 もうひとつ達吉が親から受け継いだ遺伝があるとすれば、それは酒と碁だった。これに相撲と芝居、映画が加われば、達吉の趣味はほぼ完結する。
 そうしたことを語るのはまだ早い。いまは達吉が生まれ育ったころに焦点を合わせてみることにしよう。

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U3

nice!押し逃げですみませ〜ん♡(^0^)
名前を見てもお分かりのように、『H☆imagine』のU3です。
社会派ブログの『Justice!』をメインブログにしました。今後ともよろしくお願いします。

でも全文上から下まですべて読みました。
by U3 (2021-11-23 21:24) 

だいだらぼっち

U3さん、いつもお読みいただき、ありがとうございます。
by だいだらぼっち (2021-11-25 11:24) 

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