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神戸で英語を学ぶ──美濃部達吉遠望(7) [美濃部達吉遠望]

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 小学校を卒業したあと、さらに学業をつづけるには中学校にはいるほかなかった。当時、近くの中学校といえば、北播磨の加東郡小野町(現小野市)の中学校くらいである。姫路にも中学校ができていたはずなのだが、学区がちがっていた。
 小野中学校は加東、美嚢(みのう)、多可、加古、明石の5郡連合の公立中学校として、1880年(明治13年)に発足した。校舎は旧小野藩の真如院殿に置かれていたという(小野陣屋内にあったのだろうか)。
 高砂と小野は20キロ以上離れているので、通うわけにはいかない。達吉は寄宿舎にはいった。1884年(明治17年)のことである。まわりはみんな年上なので、ずいぶんいじめられたという。
 だが、小野の中学は財政難のため1年ほどで廃校になる。そのため、達吉は神戸の県立病院に勤めていた義兄のもとに預けられ、乾行(けんこう)義塾という英語と漢学と数学を教える私立学校に通うことになる。
 この義兄とは、姉のみちが嫁いでいた井上学太郎のことである。このことを考えると、美濃部家では、姉のみちがいちばん年上で、次に長男の俊吉、次男の達吉、そして妹のゑみが生まれたことが確認できる。
 ちなみに、井上学太郎とみちとのあいだに3男として生まれた禎三(1898〜1987)は、堀越家に養子にはいり、戦後、経団連副会長などを歴任した。
 乾行義塾のことは、達吉自身の回想録「大学に入るまで」が再発見されるまで、よくわかっていなかった。
 息子の亮吉は、高砂の古老、伊藤長平から聞いた話として、神戸時代の父のことを、こう書いていた。

〈中学は高砂に近い小野中学校であった。中学校でどんな様子だったかは、その時の父を知っている人が全くいないので、皆目わからない。相変わらずの神童ぶりを発揮したことだろうと推測される。もしかすると、中学でも、級をとびこして進級したのかも知れない。
というのは、小学校で父より一級上だった伊藤さんという方の話によると、伊藤さんは順序をふんで小学校を卒業し、商業学校を出て、神戸のけんこう義塾(漢字不明)という英語、漢学、数学を教える塾で勉強することになったそうである。そこには父も通い、英語を勉強していた。ただし一級上だった伊藤さんよりはずっと早くからそこにおり、伊藤さんが行かれたときには、英語で演説するほどになっていたという。
 だから、伊藤さんの話によると、既に数年間けんこう義塾で勉強したと思われるし、そのためには、小学・中学を通じて、ずいぶんたくさんの級をとびこして進んだのでないと計算があわないということであった。
 とにかく、小さいときからひどく、頭がよかったらしい。しかし、本にかじりついてくそ勉強をするというたちではなかったようである。〉

 小野中学で父の達吉がずいぶんいじめられていたことを息子は知る由もなかった。しかも、そこを1年でやめたのは、とび級をしたためではなく、要するに学校が廃校になったからだということを父からも聞いていなかったようだ。
 高砂で達吉の1歳年上だった伊藤老人ものちに乾行義塾で学ぶようになった。そのとき、すでに英語で演説をしていた達吉の姿をみて、伊藤老人はさぞ驚いたのにちがいない。90歳近くなって、そのときの鮮烈な印象を亮吉に語っている。
 乾行義塾の思い出を達吉自身は次のように振り返っている。

〈ヒュースといふ英国人が校長で、校長夫妻とケンブリツジ大学を出たばかりのガードナーという若い教師とで、主に英語を教へていた。毎日午前中は、全部が英語の時間で、地理や歴史もその間に教えられた。教師たちは皆私を可愛がってくれたが、ことに若いガードナーは日曜日というとよく摩耶山や六甲山など近傍の山遊びに連れていってくれた。この三年間の英語の勉強は私の生涯に随分役に立つていることと思う。〉

 乾行は『易経』の「大川を渉(わた)るや乾行なり」からとられている。正道に従い、すこやかに努めおこなうという意味だそうだ。
 漢学や数学も教えていたというが、達吉は3年間、もっぱら英語で教育を受けたことを覚えている。漢学は従とみられていたようだ。
 この学校でも達吉はほかの生徒よりも年少だったのに、はるかに優秀で、秀才とみられていた。
 世界に開かれた貿易港の神戸には、当時、語学を教える学校が数多く設立されていたが、乾行義塾もそのひとつだった。
 乾行義塾の校長はヒュー・ジェームズ・フォス(Hugh James Foss 1848〜1932)で、当時、日本ではその名前をフォスではなくヒュースと呼んでいたらしい。そのため達吉も校長の名前をヒュースとして記憶している。
 フォスはイギリス聖公会の宣教師(のち主教)で、ケンブリッジ大学を卒業し、神戸に住み、宣教にあたるかたわら、1880年に三宮で乾行義塾を開き、日本の子どもたちに英語を教えるようになった。
 達吉が入学した1885年(明治18年)ごろは、英語教育のもっとも盛んな時代で、乾行義塾には二、三百人の生徒が通っていたという。
 それにしても、子弟に英語教育を受けさせようというのは、やはり新時代、明治の息吹である。
 達吉は英語を通じて世界に目ざめた。このとき学んだ英語は、その後、一生、役立つことになる。
 ちなみに乾行義塾は1889年(明治22年)に火災に遭って中山手通3丁目に移ったが、1910年のフォスのイギリス帰国にともなって廃校となってしまう。
 達吉は乾行義塾が火災に見舞われる前に、3年間の学業を終え、15歳で東京に出ることになった。
 のちに神戸聖ミカエル教会の牧師となるガードナー先生は、東京のショウという宣教師にあてて推薦状を書いてくれた。封がされていなかったので、中をのぞいてみると、この生徒は very young and clever と書かれていたので、達吉はすっかり気をよくした。
 このショウというのは、アレクサンダー・クロフト・ショー(1846〜1902)のことである。慶應義塾で教え、軽井沢に教会を建てたことで知られる。
 達吉は兄に連れられて、1887年(明治20年)9月、はじめて東京にやってきた。すでに兄の俊吉は大学予備門と呼ばれていた東京の高等中学に在籍していた。
 まだ東海道線が開通していない時代で、神戸から横浜まで船に乗り、三等船室で船酔いに苦しんだことを達吉はずっと記憶していた。

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