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シュンペーター的課題──シュンペーターをめぐって(7) [経済学]

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 シュンペーターのなかで、社会主義はまだ青写真として描かれていた。ソヴィエト型社会主義は、そのひとつの形態であるにすぎなかった。
 社会主義はあくまでも経済様式なのだが、そこからはもちろん文化的な可能性も広がっていく。それはかならずしも抑圧的(一党独裁的)形態をとるわけではない。
 シュンペーターによれば、社会主義経済は経済的配慮の負担を軽減することによって、むしろ人びとの文化的エネルギーを解放するだろうという。経済的安定が得られることによって、人びとには創造的な才能を発揮する可能性が与えられるはずだというのだ。
 もちろん、これまで資本主義社会が才能ある人びとに立身出世のはしごを提供してきたことも事実だ。だが、社会主義においては、その可能性はさらに広がるだろうというのが、シュンペーターの見方である。門閥支配はできるだけ排除されなければならない。
 たとえ社会主義のほうが資本主義よりも生産効率が低くても、人びとはより暮らしやすく、幸福であり、満足を覚える可能性もある。生産第一、利潤第一が、消費者第一にシフトするからだ。消費財のストックがより平等に分配されるならば、消費者の満足は極大化するだろう。
 とはいえ、社会主義的エンジンの生産効率も高いに越したことはない。そうなれば分配の議論もささいな問題になってしまうからだ。
 社会主義のほうが資本主義よりもより高い福祉水準を満たす可能性がある。資本主義においても所得税や相続税の課税強化によって、一定の福祉を満たすことはできるだろう。だが、それにはおそらく限度がある。
 社会主義経済においては、資本主義経済においてみられるような不確実性は存在しない。もちろん、その経済運営は、合理的かつ最適の生産体制をめざさなければならず、そのためには人的資源と物的資源の節約が必要になってくる。そのことによって、生産効率は必然的に上昇する。
 社会主義においても過剰生産はありうるだろう。しかし、競争的資本主義よりもそれをよりうまく避けることができるはずだ。
 進歩のための計画や新事業の整合性、順序正しい時間的配分は、社会主義のほうがはるかに効率的におこなうことができる。
 資本主義においては、景気の変動が産業全体を萎縮させるが、社会主義においては、それはまずありえない。時に無用化した工場や設備を廃棄することも必要になってくるが、それは景気の波とは関係がない。企業の整理や設備の更新はより少ない混乱と損失によって実現されるだろう。
 シュンペーターはいう。

〈社会化とは、大企業によって設計された方向に沿い、これをこえて一歩前進することを意味するということ、あるいは同じことになると思うが、ちょうど100年前のイギリスの産業を典型とする競争的資本主義に対して大企業的資本主義の優位性が証明されたごとく、いまや社会主義的管理は、おそらく大企業的資本主義に対する優越を示すことになるであろうということ、これである。〉

 シュンペーターは社会化という用語を使っている。それは資本の社会化を意味するといってよいだろう。資本を個人の所有物ではなく、社会全体の所有物に変えていこうという発想だ。具体的には大企業の資本所有権が社会化されること。そのさいのポイントは、破壊ではなく継承である。
 それ以上のことをシュンペーターは語っていない。社会化で思い起こされるのは国有化ということだが、単純にそうではないような気がする。最近よくいわれる企業のコンプライアンス(法令順守)というのでもなさそうだ。
 国有企業というといまでは悪い印象だけが広がっているだけに、「社会化」という概念はくせものであって、素直に受けとるわけにはいかない。シュンペーターは社会主義について、あまりに楽観的すぎたのではないか。第2次世界大戦後の経験は、ソ連や中国にかぎらず、社会主義の負の側面をあらわにした。
 それでもシュンペーターは、社会主義(ソ連経済というわけではない)には資本主義より優位性があると考えていた。計画経済は合理的な生産体制となりうるし、より重要なのは失業問題への対応だという。
 社会主義社会においては、不況が排除される結果、失業が少なくなる。そして、技術改良によってたとえ失業が発生したとしても、失業者には新たな仕事への選択が与えられるようになるだろう。
 社会主義においては、技術改良は個々の企業の事情によってではなく、法令によって普及させることができる。また企業は私的に所有されているわけではないから、人材を適材適所で配置することも可能になる。
 商業社会の顕著な特徴は、私的領域と公共的領域の分離である。その対立はしばしば敵対関係をもたらす。だが、社会主義においては、生産部門は公共的領域に属することになる。それにより、企業と国家ないし官庁との対立は解消されるだろう。
 租税はまた国家の本質的属性であり、不可避的に生産過程を阻害する役割を果たしてきた。それによる無駄もまた計り知れなかった。社会主義社会においては、こうした無駄はなくなるはずだ、とシュンペーターはいう。
 社会主義にたいするこうした見方はあまりに楽観的だったということもできる。
 戦後経済が進展するなかで、計画経済の失敗があきらかとなり、国有企業の非効率性も指摘されるようになった。いまや社会主義は過去の夢想と化した感もある。
 だが、社会主義を駆逐したとされる資本主義も、戦前とはすっかりその様相を異にしている。たとえ新自由主義が小さな国家を唱えようとも、現実に存在するのは国家資本主義である。その形態や文化が異なっているとしても、ある意味で資本主義は「社会化」され、国家の管理・監督のもとに置かれている。
 いま、ふたたび資本主義の終焉が唱えられるいっぽう、文化を異にする国家資本主義間のせめぎあいも盛んになっている。もはやシュンペーターのように楽観的に社会主義を語る時代は終わったのだろう。それでも、国家と資本主義のあとにくるものを想像すると、シュンペーター的課題はかならずといっていいほど再浮上してくるのである。

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