SSブログ

社会主義と民主主義──シュンペーターをめぐって(9) [経済学]

Declaration_of_Independence_(1819),_by_John_Trumbull.jpg
『資本主義・社会主義・民主主義』の第4部を読んでみる。
 マルクスやレーニンによれば、社会主義はプロレタリア独裁によってこそ保たれるのだという。プロレタリア独裁の目的は、労働者の利益を守ることにある。そのためプロレタリア独裁こそが、まやかしの(資本家の)民主主義とは異なる唯一の(労働者の)民主主義だというわけだ。
 これはマルクス主義者の詭弁にすぎない、とシュンペーターは一蹴する。
 マルクスにとって革命とは「古びた制度が生み出す人民の意志に反する妨害物の除去を意味する」ものであって、プロレタリア独裁はそのためにこそ必要だと考えられていた。そのためには時に暴力やテロも容認される。あげくのはてに、過渡期においては民主主義を棚上げするのもやむをえないとされる。
 こうした考え方にシュンペーターは疑問を呈し、社会主義はそもそも民主主義的でありうるのかという問いを立てる。
 1920年代、ソ連共産党が一党独裁体制を堅持したのにたいし、ドイツでは社会民主党が勢力を伸ばしていた。
 だが、民主主義を取り入れた社会主義政党にたいしても、シュンペーターはいささか皮肉な見方をしている。
「彼らは、民主主義が自分たちの理想や利益に役だつならば、また役だつものとして、その場合においてのみ民主主義と提携し、他の場合にはしなかったというにすぎないのである」
 つまり、社会民主党も権力をめざすことでは、どの政党でも変わらず、そのために民主主義は都合よく利用されたにすぎないというわけである。
歴史をふり返ると、どんな国でも、大衆の意向にあわせて、異教徒迫害や魔女狩り、ユダヤ人殺戮がおこっていた。それは非民主主義的な社会だけの現象ではなかった。このことは民主主義がぜったいにすばらしいという思いこみを排するものだ、とシュンペーターはいう。

 民主主義とはいったい何か。
 シュンペーターによれば、民主主義とは政治的(立法的、行政的)決定に到達するためのある種の制度にほかならない。
 民主主義はそれ自体が目的ではないし、絶対的な理想でもない。アリストテレスは民主主義を人民による支配と規定し、これを理想国にはほど遠いものとしていた。
 現代において、民主主義は選挙権と結びついている。だが、それはかならずしも無制約に認められているわけではなく、その運用状況は各国によって、まちまちだ。
 民主主義には支配という概念も含まれている。直接民主主義は、人民による支配を意味する。だが、直接民主主義が成立するには、人民の数が限られていることと該当地域が狭いことを条件とする。
 すると、現代民主主義の要件は「人民によって承認された政府」が存在することと規定できるかもしれない。だが、人民の熱狂的忠誠によって支えられた独裁政治や専制政治があることを考えれば、これも民主主義の十全な規定とはいえそうもない、とシュンペーターは論じる。
 人民は実際にはけっして支配しない。人民の意志や人民の権利が持ちだされるのは、王に代わって特定のカリスマが求められるときだ。そして、人民が選ばれた代表にたいして、みずからの権利を譲渡し、服従するという擬制的な考え方が生まれた。
 だが、こうした考え方は支持しがたい、とシュンペーターはいう。
 政治制度として、実際に存在するのは、政府や議会、裁判所といった国家の機関である。
 人民ははたしてみずからの意志をある議員一個人に代表させることで、人民の権力を委ねるのだろうか。人民は選挙でみずからの意志を示し、代表としての議員を議会に送りこみ、政府は議会の意志にもとづいて、人民の幸福を達成するよう国家を運営するというのはほんとうだろうか。
 18世紀になると、ロックなどの哲学にもとづいて、これが民主主義だと考えられるようになった。だが、19世紀になると、ロマン主義的な政治理論が盛んになって、選挙によってではなく、革命や戦争によって国家を変革するという考え方も登場してきた。
 すると、はたして民主主義とは何かがますますわからなくなる。

 シュンペーターはもう一度、古典的学説に立ち戻って、民主主義を規定しなおそうとする。
 18世紀哲学による古典的定義はこうだ。

〈すなわち、民主主義的方法とは、政治的決定に到達するための一つの制度的装置であって、人民の意志を具現するために集めらるべき代表者を選出することによって人民自らが問題の決定をなし、それによって公益を実現せんとするものである、と。〉

 民主主義の目標は、人民の「共通の意志」にもとづいて、「公益」を実現ことであると謳われている。公益とは公共の福祉、公共の幸福と同義である。その実行は政府とその行政に委ねられる。
 こうした考え方にもとづく民主主義的装置は、ほぼ完璧なものとみえる。しかし、とシュンペーターはいう。
 すべての人民が一致する公益なるものはありえない。人生いかにあるべきか、社会はいかにあるべきかという価値観は人によってさまざまだし、たいていが相対立するものだ。
 経済的満足や健康についての意見も異なる。最大幸福という概念についても、重大な疑念がある。人民の意志、ないし一般意志という概念も、現実にはたして存在するのか。
 そうなると、民主主義の実態はいったい何かということになる、とシュンペーターは問いを投げかける。
 一般意志という用語には執着しないほうがよい。共通意志、あるいは世論は、合理的統一性に欠け、さほど意味をもたない。それはとらえどころのない意見のかたまり以上のものではなく、すぐにころころと変わっていく。
 さらに人民の意志を代表するとされる政治的決定が、はたして人民が真に欲しているものであるかも疑う余地がある。公正な妥協が成立することもあるが、決定が上から押しつけられることも考えられる。
 ナポレオンは第一執政として軍事的独裁政治をおこなったが、それはフランス革命で生じた混乱を収拾し、民主主義的なやり方ではなしえなかった安定をもたらした。そのことも事実として知っておく必要があるだろう、とシュンペーターはコメントしている。
 民主主義を考える場合には、選挙民の意志がどれほどの明確性と自立性をもつものであるかを検討しなければならない。
 ごく身近のできごとにたいしては、たしかにきちんとした判断がなされるかもしれない。しかし、自分とかけ離れた世界についてはどうだろう。人間の行動には超合理的、あるいは非合理的な側面が含まれていることを忘れてはならない、とシュンペーターはいう。
 古典的民主主義学説が唱えるような仕方で人が合理的に行動するとはかぎらない。たとえば、ル・ボンのいう群集心理、さらには見かけのイメージによって左右されることは大いにありうる。政治的決定においても経済的決定においても、人びとは「しばしば非理知的で、偏狭で、自己本位である」とみたほうがいい、とシュンペーターは警告する。
 もちろん、国家の課題でも、たとえば税金や関税などは、私的な金銭的利害にかかわる身近な問題にちがいない。その場合、人びとは合理的な判断を示すようにみえるかもしれない。だが、それは短期的な合理性にすぎず、長期的には誤った判断となりうると、とシュンペーターはいう。
 さらに身辺の利害関係とは直接関係のない国家的事件や国際的事件になると、個々人の現実感はまったく失われてしまう。そこでは責任感や明確な意志は失われ、人びとの考え方は雷同的となり、感情的になりやすい。
 こうして市民は、政治問題に関しては超合理的ないし非合理的な偏見や衝動に動かされがちになる。
古典的民主主義学説は市民が常に明確で合理的な意志を示すものと仮定するのだが、政治問題に関しては、市民は真剣味を欠き、むしろ非理性的、無責任な傍観者として行動することが多い、とシュンペーターは断言する。
 世論の形成過程においては、往々にして論理的要素や合理的批判が欠如しがちである。そこに「胸に一物ある集団」、すなわち政治の周辺にたむろする連中がつけいる隙が生まれる。

〈われわれが政治過程の分析において当面するものは大部分本然の意志ではなくて、つくり出された意志である。そして古典的民主主義でいうところの「一般意志」に実際上相当するものは、すべてこの人工によってつくられたものであることが多い。〉

 民主主義は人民の意志によって推進されているわけではない。大衆の意志がつくりだされるのは、広告が消費者の好みをつくりだすのと、さほど変わらない。政治問題については、かたよらない情報を得て、政策がもたらす帰結を冷静に認識することはきわめてむずかしく、人びとはむしろ自分のもつ先入観や時の勢いに動かされがちだ。
 民主主義の実際がこんなふうであるにもかかわらず、民主主義の古典的学説がなぜ今日まで生き残っているのだろう。その根拠となっている功利主義的合理主義はもはや見捨てられている。それにもかかわらず、民主主義の幻想は生き残っている。
 それはなぜか。
 シュンペーターによれば、それは民主主義がいまや宗教的信条となっているからだという。いまや民主主義は理想の図式、旗印、シンボルとなった。とりわけアメリカにおいては、民主主義が国家の発展に結びつけられ、国民のイデオロギーとして、熱心に信奉されるようになった。
 ほかの多くの国においても、19世紀以降、民主主義は革命の旗印になった。こうした黎明期の栄光がなかなか消えがたいことが、古典的な民主主義学説をいまだに信奉させる要因になっている、とシュンペーターはいう。
 だが、古典的民主主義学説どおりに、民主主義が現実に実現されている国はどこにもないのだ。
 さらにシュンペーターは皮肉な口調で、こうつけ加える。
「政治家は大衆をうれしがらせる標語や、自分の責任のがれのためや、人民の名において反対者を粉砕するために好都合な機会を与える標語をありがたがるためである」
 ここでシュンペーターは民主主義に大きな疑問をつきつけている。だが、それは古典的民主主義学説の創造的破壊をこころみるためだといってもよい。
 それでは、シュンペーターはどのような民主主義理論を打ち立てようとしているのか。次回、見ていくことにする。

nice!(10)  コメント(0) 

nice! 10

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント