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民主主義の要件──シュンペーターをめぐって(10) [経済学]

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 シュンペーターは古典的民主主義学説をひっくり返し、みずからの民主主義論を述べる。
 古典的学説では、民主主義は人民による政治問題の決定を第一義とし、選挙で代表を選ぶのは二義的なことと解釈されていた。これにたいし、シュンペーターは民主主義は選挙で代表を選ぶことを第一義とし、人民による政治問題の決定を二義的なこととする。
 つまり、民主主義とは、何よりも選挙によって人民の代表を選ぶ制度をいうのであって、それによって政治問題の決定をその代表に托すことを目的とするというわけである。
 この定義によると、イギリスのような議員内閣制をとる立憲君主国は民主主義の範疇に属する。しかし、戦前の日本のように、たとえ普通選挙がおこなわれていても、議会が内閣の首班を指名するのではなく、たとえ形式的であっても君主が内閣の首班を指名する場合、その国は民主主義国とはいえない。
 だが、シュンペーターによる民主主義の定義は、選挙で選ばれた代表に政治的リーダーシップを求めることになる。それは人民の一般意志を忠実に遂行するだけではない。さらに人民の集団的意志があるとしても、それは直接そのまま政治に反映されるのではなく、政治の場では、さまざまな利害関係を勘案して、適切な判断が下されることになるだろう。
 また、民主主義とは政治的主導力を獲得するための競争であると規定することができる。そこでは軍事的圧力や専制的要素は、とうぜん排除されねばならない。民主主義は自由とも関係している。少なくとも、誰もが選挙に立候補する自由をもつこと、言論の自由、出版の自由が認められていることが民主主義の要件である。
 選挙民は選挙を通じて政府にノーをつきつけることができる。だが、それは人民が直接、政府を創設したり制御したりすることを意味しない。民主主義は選挙民に政治指導集団の承認、ないし承認の取り消しを決定する権利を与えるにすぎない。
 多数決は人民の意志を示すものではない。人民の意志は大多数によってはけっして代表されない。そのため、比例代表制のこころみが考えられてきたが、比例代表制は力強い政府の成立を阻害する可能性が強い。シュンペーターはあくまでも、政治的指導力を承認することに民主主義の原則を求めている。

 アメリカなどでは選挙民の投票によって大統領が選ばれ、大統領のもとで政府がつくられてきた。これにたいし、イギリスなどでは、選挙民は議員を選び、その議員が内閣を選出するという経過をたどる。実際には選挙で勝利した政党の党首が首相となり、内閣を組織することになる。
 そこでは、かずかずのドラマが生まれてきた。シュンペーターはそれらをことこまかく論じているが、ここではふれないでもいいだろう。
 ただ、シュンペーターが大統領や首相の政治的リーダーシップの重要性を指摘していることに注目すべきだろう。それは単に政党の意見をまとめることで生まれるわけではない。大衆を納得させる世論をつくることによって得られるものだ。そこに議会を超えたリーダーシップが生まれる。
 民主主義の過程において、内閣は独自の役割をはたしている。それは首相と議会の共同所産だが、いわば圧縮された議会であり、各閣僚は首相の命を受けて、官僚組織にたいし、それぞれのリーダーシップを発揮することになる。
 議会は立法を通じて行政にも影響をもたらすが、なかでも議会のもっとも重要な仕事は政府の予算案を承認することである。議会での議決は、究極のところ現政府の政権運営を認めるか否かに尽きるといってよい。
 政府による法案提出を選択するのは首相である。法案の通過では、首相のリーダーシップが問われる。これにたいし、野党が法案を提出する場合、与党は議会においてこれをつぶしにかかるという構図が生まれる。
 とはいえ、首相のリーダーシップは、けっして絶対的なものではない。それは民主主義の本質をなす競争的要素のためである。首相の座はつねに安泰というわけではなく、あやういバランスの上に成り立っている。また、あまりにも困難な政治課題によって、そのリーダーシップが揺らぐことも考えられる。
 民主主義の時代においても、政治を動かしているのは、民意ではなく、政治権力である。政党もまた政治的権力を得るために集まった集団だということを冷静に認識しなければならない、とシュンペーターはいう。そして、民主主義の制度のもとで、選挙民がなしうることは、政治的競争を勝ちとろうとする候補者の言い値を受けとるか、あるいはそれを拒否するかのどちらかでしかないと書いている。

 最後に問われるべきことは、はたして社会主義は民主主義と両立しうるかということである。シュンペーターは、社会主義と民主主義のあいだにはなんら必然的な関係も存在しないという。にもかかわらず、一定の社会環境のもとでは、社会主義は民主主義の原理にもとづいて運営することができると論じている。シュンペーターがめざしているのは、民主主義のもとで運営される社会主義だった。
 ここで、社会主義、民主主義という言い方には、シュンペーター独自の解釈がともなっている。社会主義は経済システムであり、民主主義は政治システムである。そして、この政治経済システムは、ともに人民による支配というイデオロギーから解放されている。
 しかし、社会主義と民主主義の関係について論じる前に、シュンペーターは民主主義とは何かを再確認している。
 民主主義とは、政治指導者たらんとする人を承認するか拒否するかの機会を人民が与えられている政治システムをいう。その機会が与えられていなければ、その国は民主主義国ではない。さらに加えて、政治指導者が選挙民の票を得るために、自由な競争をなしうることが、民主主義のもうひとつの条件である。
 政治は職業であってはならないという意見もあるが、シュンペーターは政治はけっして片手間でやれる仕事ではなく、専門的な経験を積み重ねていかなくてはならないという。
 民主主義は議会の内外で不断の闘争をともなうため、政府の能率がきわめて悪くなるという意見は、ある意味で正しい。たしかに政争に明け暮れるなかでは、まともな政治運営もできなくなってしまうだろう。さらに、選挙での票を獲得するために、政策が短期的な利益に終始して、長期的な見通しを見失うことも考えられる。だが、それは非民主的な国においても生じうる事態である。適切な制度的工夫を加えるなら、指導者に課される重圧や緊張を軽減することもできるはずだ、とシュンペーターはいう。
 逆に、民主主義は政治家を鍛え、かれらを(政治屋ではなく)能力あるステーツマンに仕立てていくはずだ。もちろん、それが見かけ倒しになることも多い。だが、少なくとも民主主義に鍛えられることによって、政治家は指導力を学ぶことになるだろう。その行き先に、困難な政治課題が待ち受けていることには変わりないとしても。
 民主主義の失敗を数え上げるのは容易である。それでもシュンペーターは民主主義を支持するという。
 ただし、民主主義が成功するためには、次のような条件が満たされなければならない。

(1)高い資質をもつ政治的人材が存在すること。
(2)政治的決定の範囲を広くしすぎないこと(権能の分与)。
(3)公共的活動を実現するための有能な官僚の存在。
(4)民主主義的自制。

 詳しく説明する必要はないだろう。こうした条件のもとに民主主義が確立されるためには、民主主義が長い伝統になっていかなければならない。そして、それは理性と寛容と品性を要する困難な道のりなのだ、とシュンペーターはいう。
 いっぽうで民主主義的方法は世上騒然たる時期にはうまくいかない可能性があることも、シュンペーターは承知している。そのとき人びとは競争的なリーダーシップよりも独裁的なリーダーシップを求めがちになる。それが一時的なものであれば、民主主義の原理が機能停止するのも一時的である。だが、それが一定期間にとどまらなければ、民主主義の原理は廃棄され、独裁制度が確立されることになる。しかし、それはもちろん望ましい事態ではない。

 最後にシュンペーターは民主主義と資本主義、社会主義の関係について述べる。
 民主主義が資本主義過程の産物であることはいうまでもない。しかし、民主主義は資本主義の消滅とともに消滅するわけではない、とシュンペーターはいう。
 資本主義のもとで民主主義はこれまで大きな成功をもたらしてきた。だが、社会構造が大きく分裂するいま、これまでの民主主義的方法はうまく機能しなくなりつつある。そこで、民主主義が独裁にやすやすと降伏するような事態が生じている。
 社会主義もまた非民主主義的な形態をとりやすい。民主主義的社会主義は失敗せざるをえないとする見方は強いが、かならずしもそうなるとはかぎらない。民主主義的な方法で公共的な管理を拡大することは可能だ、とシュンペーターはいう。
 中央当局のもとに管理された産業や企業を有能な人材が運営するならば、社会主義が機能することはいうまでもない。ただし、労働者が政府や企業を直接運営するというのは幻想にほかならない。それは大きな混乱を招くにすぎないだろう。
 社会主義のもとでも、政治的決定をおこなうための議会、内閣は必要であり、そのためには民主主義的な選挙や政党もとうぜん求められる。とはいえ、民主主義的なルールを維持していくことは、そう簡単ではない。社会主義的民主主義は見かけ倒しに終わる可能性も強い。
 シュンペーターによれば、社会主義は労働者による社会管理を意味するわけではない。むしろ、それは国家の役割強化をもたらすものとなるだろう。独占企業は中央当局の管理下におかれる。そして国家は政府(内閣)と議会によって運営されるが、その政治的リーダーシップは民主主義的な選挙によって承認されなければならない。
こうしたシュンペーターの構想と展望が実ることはなかった。いやむしろ挫折したというべきだろう。それはどうしてか。
『資本主義・社会主義・民主主義』はさらに下巻へとつづく。
 すこしくたびれてしまった。このあたりで、ちょっと一服して、気分転換に次はガルブレイスの『ゆたかな社会』を読むことにする。シュンペーターはしばらくお休みである。

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