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町の戸籍係に──美濃部達吉遠望(12) [美濃部達吉遠望]

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 感染症はいまも人類の脅威にちがいないが、明治期において、それはさらに死の影を投げかけるものだった。1890年(明治23年)から翌年にかけては、また感染症におびえる歳月がつづいていた。
 内務省の『法定伝染病統計』によると、1890年の法定伝染病(感染症)と患者数および死亡者数は次のようになっている。

病名      患者数  死亡者数  致死率
コレラ     46,019  35,227  76.5
赤痢      42,635   8,706  20.4
腸チフス    34,736    8,464   24.3
痘瘡(天然痘)  296    25   0.8
発疹チフス     251    67  26.6
ジフテリア    2,448   1,438  58.7


 安政の開国以来、コレラの波は何度も日本を襲った。
 奥武則『感染症と民衆』によると、明治10年(1877年)以降、明治20年代にかけて、コレラは間欠的に大流行をくり返したという。
 美濃部達吉が腸チフスにかかった明治23年(1890年)は、コレラが大流行した年でもある。その致死率は76%だったというから、人びとはコレラにかからぬよう神仏に祈るほかなかった。
 コレラの流行しない年でも赤痢や腸チフスは常に流行した。当時の衛生環境の悪さを想像できるだろう。そして、その致死率もけっして低くない。達吉が腸チフスにかかったときも患者の24%が亡くなっている。達吉の父、秀芳が息子の死を覚悟したのも、けっして大げさではなかったのである。
 しかし、ともかく達吉は生き延び、8カ月の入院後、1891年(明治24年)5月に第一高等中学を退校し、故郷の播州高砂でしばらく療養することにした。
 そのころの思い出をこう記している。

〈最初の入院の時から数えると、[1890年(明治23年)]10月から翌年の5月まで、約8カ月の間の病院生活に、身体は骨と皮とに痩せ衰え、体重を計ってみると、8貫[約30キロ]あるかないかで、これで郷里まで無事に帰れるかどうかも危ぶまれるありさまだったが、兄が付き添ってくれるのをたよりに、いよいよ5月の何日かに、永(なが)の病院生活に暇を告げて、帰郷の途に就くことになった。
 汽車や船の中で発熱しては困るというので、キニーネか何かの発熱予防薬をもらい、車に乗るにも、車から下りて汽車に乗るのにも、人の背に負われるような憐れな姿であったが、ともかくも新橋(東京駅はまだなかった)から横浜までは汽車、横浜からは汽船で、無事に郷里までたどり着くことができた。
 新橋駅まで見送りにきてくれた井上[孝哉]はじめ友人たちは、これがこの世の見おさめだろうと思ったということである。〉

 新橋駅頭で、痩せ細った達吉が背負われていく姿を見送った友人たちは、これが永の別れだと思ったにちがいない。
 しかし、故郷で半年療養するうちに、達吉は奇跡的に健康を取り戻す。
 そのときの「病床日記」が残っているというが、残念ながらそれをまだ見ることができていない。
 ここでは、本人ののちの思い出によって、故郷高砂での回復ぶりを知るほかないだろう。

〈郷里に帰って両親や妹に嬉々として迎えられた私は、さすがに両親の慈愛のもとに、ずんずん元気を回復していった。ときどき突然発熱することは、その後も絶えず、その度ごとに母を苦しめたが、それもだんだんまれになって、半年ほどの間には全く起こらなくなり、その年[1891年(明治24年)]の暮れごろまではほぼ健康を回復することができた。〉

 病院の病室で孤独に時を数えるよりも、両親に見守られながら、故郷の自宅でゆっくり療養できたのは幸せだった。ときどき熱が出ることもあったが、母の献身的な看病もあって、達吉はめきめき体力を回復していった。
 その母、悦が亡くなるのは4年後の1895年(明治28年)8月のことである。享年55歳。達吉が帝国大学法科大学政治学科で学んでるさなかだった。
 長男俊吉と次男達吉は連名で、1898年(明治31年)8月、町の共同墓地に母の墓碑を建立した。そこには二人の息子がりっぱに法学士になったことが、母に報告するかのように刻まれている。
 母ゑつ(悦)は1843年(天保14年)4月に、加東郡古川村(現小野市)の医者、井上謙斎(けんさい)の次女として生まれ、美濃部秀芳と結婚、2男2女を産んだ。墓碑にはその人となりは明るく貞淑だったと刻まれている。苦しい生活がつづくなか、愚痴ひとつこぼさない人だったという。
 高砂町出身で戦後、日本社会党の国会議員となる河合義一(かわい・ぎいち、1882〜1974)は達吉の兄、美濃部俊吉のところで書生をしながら東京外国語学校に通っていたが、子どものころに悦に診てもらった記憶がある。
 こんなふうに悦のことを話している。

〈お母さん[悦]がえらかった。お母さんはものをきらいだ、という言葉はなかった。あの人には「きらい」という言葉はなかった。あるとき、誰かがきらいなものをもっていくと、きらいだとはいわずに「あまり好きでないの」とこたえたという話がのこっている。そのうえお医者さんとしてもなかなか上手で、子供のころ耳がいたくて困ったので、でかけていくと、いっぺんになおしてくれた。〉

 さらに、達吉の息子、亮吉も祖母悦のことをこう記している。

〈悦という祖母がまた大変な賢夫人だった。並々ならぬ知識と教養を持ち、祖父に代って患者を診たり、書や漢学を教えたりした。達吉さんがあんなにえらくなったのは、悦さんのおかげだということに、高砂では意見が一致していたということである。〉

 こんな母に見守られて達吉は健康を回復した。
 1892年(明治25年)に達吉は二十歳の春(満19歳)を迎えた。早く東京に帰りたいという願いはつのるばかりだった。だが、まだ健康が十分でない、と父は許さなかった。
 しばらくするうちに、町役場で書記が欠員になり、後任を探しているという話があり、何もしないでいるよりも書記になったらどうかと勧める人がいた。
 町村制の施行により高砂町が発足したのは1889年(明治22年)のことで、そのときの町長(初代)は加藤幸平といい、小学校時代の先生だった。そこで役場に勤めるのもひとつの経験だと思い、達吉は役場ではたらくことにした。
「町役場書記ニ任ズ、但シ月給金六円ヲ給ス」という辞令をもらい、達吉は戸籍係を担当することになった。月給6円というのは、いまの感覚では4万円か5万円といったあたりだろう。

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