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ガルブレイス『ゆたかな社会』を読む(3) [経済学]

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 ここでガルブレイスはアメリカの経済学の歴史を論じる。それは基本的にイギリスの伝統を受け継いだものだった。
 例外的にアメリカ的な人物がいるとすれば、それはヘンリー・チャールズ・ケアリー(1793〜1879)とヘンリー・ジョージ(1839〜97)、ソースティン・ヴェブレン(1857〜1929)だという。
 ケアリーは楽観論者で、将来は明るいと唱えた。逆にヘンリー・ジョージは、土地が私有であるかぎり、貧困と不況は避けられないと論じた。ヴェブレンは、経済が発展すると、富と貧困の分化がきわだつようになると主張した。有閑階級が生まれ、見せびらかし消費や浪費、不道徳がはびこるというのだ。
 ガルブレイスはこうした3人の経済学者に加え、アメリカに影響を与えた思想として社会進化論を挙げている。社会進化論は経済社会を競争の場と考え、そこでの勝者には富が与えられ、敗者はいわば餌食になると論じた。人生の目的は、その戦いに勝つことだとされた。
 社会は弱者を淘汰することによってはじめて発展するという社会進化論の考え方を唱えたのはハーバート・スペンサー(1820〜1903)だ。アメリカでは人気を博したという(明治の日本でも)。
 19世紀後半のイギリスでは、すでに社会改良の動きが広がっていたのに、アメリカでは競争によるより富の獲得を求める声が強かったのだ。このあたりは、いかにもアメリカである。
 その結果、アメリカでは大金持ちが誕生するいっぽうで、貧困と堕落が広がっていった。ガルブレイスはジョン・D・ロックフェラーの「大企業の発達は適者生存にほかならず、多くの犠牲はいたしかたない」ということばを紹介している。
 スペンサー流の発想は、やがて民主主義と近代的な公共団体の発達によって見向きもされなくなる。しかし、社会進化論が残した影響はいまだに強い。それはこの世は競争社会だという考え方である。さらに社会進化論は、競争の活力を市場のなかに見いだした。その結果、個人の窮乏を救うための社会手段がおろそかになった、とガルブレイスはいう。

 アメリカにおいて、社会進化論が右派を鼓舞したとすれば、左派にとってマルクス主義はどうだったのか。
 ガルブレイスによると、マルクスは主流派経済学の伝統を引き継いでいるという。そこから資本主義の欠陥をあばきだし、変革をうながした。
 労働者はつねに失業の危機にさらされている。そのため、いくら抵抗しても、けっきょくは資本家の示す賃金をのみこまざるをえない。
 技術の進歩や資本の蓄積は労働者に利益をもたらさない。かえって、それは労働者を機械や資本の付属物にしてしまうというのがマルクスの考え方だという。
 マルクスは資本主義はほんらい不況への傾向を有するとも論じた。その景気循環の波に労働者は翻弄される。政府の対策も労働者に利するわけではない。だが最後に資本主義は破滅への道をたどる。
「マルクスはその体系を受け入れない人にも大きな影響をおよぼしている。その影響はぜったいマルクスを信じていないと思っている人にもおよんでいる」とガルブレイスは書いている。
 その思考は広範囲におよび、しかも知的だった。「多くの点で、マルクスは明らかに正しかった。とりわけ同時代に関しては」とガルブレイスは断言する。
 だが、それは1930年代までである。その後、だれもが予期しなかった生活のすばらしい向上が待っていた。マルクスの体系は観念としてはいまも生きているが、もはや状況は変わりつつある、とガルブレイスはいう。

 そこで取り上げられるのが不平等の問題である。
 いままでがいわば「序論」だったとすれば、ここから『ゆたかな社会』の「本論」がはじまるといってよいだろう。
 主流派経済学では有能な者が高い報酬を受け、無能な者が低い報酬しか得られないのはとうぜんと考えられてきた。しかし、しだいに所得の再分配という考え方がでてきた、とガルブレイスはいう。
 保守派はあいかわらず不平等を擁護した。地主と資本家が大きな所得をもつのは必然で、これは制度上いたしかたないと主張した。平等がすぎると、文化が大衆化し、同一化してしまう。高額所得者の権利と権力を守るべきだ。そこには平等主義が個人の努力、創意、着想をそこなうという考え方があった。
 だが、ガルブレイスはいう。第2次世界大戦後、アメリカの所得税は高かったが、それでも急速な経済成長を遂げることができた。累進課税をやめれば、経済が成長するという保証はない。平等主義が進めば経済の発達が阻害されるという考え方もおかしい。
 いずれにせよ所得の再分配をもたらす政策が重要なのであって、真のリベラル派は、けっしてごまかされず、金持ちの言い分に譲歩しないことがだいじなのだ、とガルブレイスはいう。ガルブレイスはもちろんリベラル派を支持している。
 しかし、「ゆたかな社会」が進むにつれて、不平等にたいする関心は薄れつつあるとも述べている。これはあくまでも1960年代、70年代の話かもしれない。それでも、アメリカでは戦後、不平等があまり問題にされなくなったというのは、当時のガルブレイスの実感だったろう。
 不平等がなくなったわけではない。経済格差は依然として大きかった。とはいえ、戦後、不平等がさらに広がったわけではなかった。中間層の所得が増え、完全雇用と賃金上昇によって、下層の生活が向上したからである。実質所得が増えているときには不満は少なくなり、不満をぶつける相手もなくなる傾向がある。
 さらにガルブレイスは、金持ちの地位や権力が変化したことを指摘する。会社の経営権は資本家から経営者へと移った。そのことによって、富を誇る資本家が権力をふるうこともなくなった。これにより、金持ちにたいする反感も減った。金持ちに仕えるという卑屈な仕事も減っていった。
 金持ちが増えることによって、金持ちの価値も低下してきた。富にもとづく、みせびらかしの贅沢も過去のものとなった。俗悪とみなされるようになったからである。
 その背景には、富の大衆化が進んだことがある。いまでは、だれもが自動車を所有でき、ダイヤモンドを身につけ、高級ホテルを利用することも可能になった。
 ガルブレイスはこう書いている。

〈要するに、虚飾あふれるゴタゴタした支出は、それを支える富との関係において、かつては差別化を示す源だったが、いまはそうではなくなったのである。このことが不平等への態度にもたらす影響はあきらかだろう。虚飾の消費は、貧乏人に金持ちの富に注目させること自体が目的だったといえる。だが、虚飾の値打ちが下がり、むしろそれが俗悪なものとみなされるにつれて、富と不平等はともにわざわざ宣伝するほどのものではなくなった。宣伝されることが減るにつれて、それはさほど注目されなくなり、怒りを買うこともなくなっていった。かつて金持ちは不平等をきわだたせる状況を引き起こしたものである。だが、いまではそんなまねをしなくなっている。〉

 要するに、ゆたかさが大衆化したのである。それが1960年代、70年代の気分だった。
 資本家や創業者一族は、いまや企業のなかの首脳陣ではなくなった。かれらは相変わらず金持ちではある。しかし、トップになろうとすれば、経営陣にはいり、自身が企業のヒエラルキーのなかで戦わなければならなくなった。
 ここで、ガルブレイスは不平等がなぜ大きな問題ではなくなったかについて述べている。それはひとえに「生産の増加」が原因だった。経済のパイが大きくなり、現に存在する不平等を覆い隠したのだ。

〈不平等にともなう強い緊張傾向を取り除いたのは、まさに生産である。いまや保守派もリベラル派も、総産出高の増大こそが、再分配あるいは不平等縮小の解決策だと認めるようになった。こうして、もっとも古くて、やかましかった社会問題は、解決されたとはいわないまでも一段落し、論議の焦点は生産性の上昇という目標に移っていった。〉

 現時点の2020年代では、また不平等の問題が浮上しつつある。「ゆたかな社会」は分裂し、幻影のかなたに消えようとしている。
 だが、そうあっさり決めつけないようにしよう。
 ゆっくり先を読んでみる。

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