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一木喜徳郎と穂積八束──美濃部達吉遠望(14) [美濃部達吉遠望]

憲法発布.jpg
 1894年(明治27年)9月に美濃部達吉は帝国大学法科大学政治学科に入学する。満21歳になっていた。
 そのとき国法学の講座を担当していたのが、当時まだ28歳の一木喜徳郎(いっき・きとくろう、1867〜1944)である。一木はドイツ留学から戻ったばかりだったが、国法学を担当していた末岡精一(1855〜1894)がこの年はじめに病気で亡くなったため、急遽(きゅうきょ)、一木が大学で国法学を教えることになった。
 達吉は一木の講義に魅了され、大学の3年間を一木の影響下ですごすことになる。
 のちに当時をふり返って、こう書いている。

〈その講義は、はじめて教授となられて最初の講義であるから、もちろん十分に練熟したものではなく、瑕瑾(かきん)も少なくなかったことと思うが、しかしその該博な引照と精緻(せいち)な論理とは、われわれ学生の心を魅するに十分であった。
 これより先、先生はドイツ留学中に既に『日本法令予算論』の著を公にせられており、それが学界に知られて先生の大学教授に任命せらるる機縁を作ったのであるが、私はそれを幾度か熟読し、その鋭い筆鋒に深い敬意を捧げていたので、いっそう先生の講義に感激を覚ゆることが深かった。
 おそらく三年間の大学在学中に、私の聞いた多くの講義の中で、もっとも大なる影響を私に与えたものは、この新進の青年学者の講義であったと思う。私がのちに公法を専門とするに至ったのも、おそらくはこのとき運命づけられていたのであろう。〉

 達吉は一木に師事した。
 だが、おなじ1年生のときに、達吉は一木とは対称的な憲法の講義に出くわしていた。大日本帝国憲法が公布されたのは、5年前の1889年(明治22年)で、帝国大学ではその直後から憲法学の講座が設けられていた。
 達吉自身はこう書いている。

〈憲法の講義は、やはり一年生のときに、故穂積八束(ほづみ・やつか、1860〜1912)先生から受けた。
 穂積先生は当時既に憲法学者として名声天下に聞こえており、その講義は、音吐朗々(おんとろうろう)、口をついて出る語が、おのずから玲瓏(れいろう)たる文章をなしており、その荘重な態度とともに、一世の名講義をもって知られていたが、ほとんどすべての点において、一木先生の講義とは、あたかも対蹠的(たいしょてき)であって、論理などにはいっこうかかわらず、力強い独断的の断定をもって終始せらるるのであった。
 一例をいうと、国家の本質を説明しては、国家は主権を保有する団体であるといわれながら一方では、主権は天皇に属す、天皇すなわち国家なりといい、国家機関というような概念をもって、天皇の御地位を説明するのは、もってのほかの曲事(きょくじ)であると喝破せられる。
 国家が団体であることを認めながら、天皇即ち国家であるとするならば、その論理的な必然の結果は、天皇は団体なりといわねばならぬことになりそうであるが、そんな論理は、先生の頓着せられるところではなかった。
 これはほんの一例であるが、先生の講義の中には、こういう非論理的な独断が少なくなかったので、まだ幼稚な一年生でありながら、先生の講義には、不幸にして遂に信服することができないで終わった。〉

 達吉が天皇即ち国家という穂積八束の考え方についていけなかったことがよくわかる。ここで、故穂積八束とされているのは、達吉の回想記は1934年(昭和9年)に発表されたもので、穂積がすでに1912年(大正元年)に亡くなっていたためである。
 ところで、一木の国法学と穂積の憲法学とでは、講座の内容がどうちがっていたのだろう。
 達吉によると、それはどちらも憲法についての講義だった。ただし国法学が西洋、とりわけ英仏独3国の憲法比較に重点を置いたのにたいし、憲法学はもっぱら日本の憲法を取り扱っていた。
 ふたつの対称的な講義を聴いたことにより、公法にたいする興味がかきたてられた。大学在学中、達吉は憲法と行政法の勉強に励むこととなる。
 その方向は師の一木と同じく、比較法制史をベースとする公法の研究に向けられた。それは「論理的な思索を好む傾向」をもつ「みずからの天性」に合ったものだった、と達吉自身認めている。穂積の心情主義にはなじめなかったのである。

 立花隆は『天皇と東大』において、穂積八束について、こう記している。

〈明治憲法が制定されるとすぐに東大には憲法学講座が置かれ、穂積八束が主任教授となった。穂積の憲法学は、憲法の中心的起草者、伊藤博文の憲法論と、ちょっとずれた部分があった。伊藤博文の発想は、憲法以前の天皇制が持っていた絶対君主的要素を、憲法を制定することによって弱め、専制主義的な天皇制を西欧の立憲君主的な制度に変えてしまおうということだった。〉

 明治憲法をすべて伊藤博文の発想に帰着させるのは無理がある。しかし、穂積の憲法学が伊藤の憲法論と少し異なっていたのはたしかである。立花にいわせれば、伊藤が天皇を「立憲君主」として位置づけようとしていたのにたいし、穂積はあくまで天皇を「絶対君主」としてとらえていた。
 その穂積の主張を、立花はおよそ次のようにまとめている。

(1)天皇は法理論でいう国家であり、主権者である。天皇は法令の上にあって、法令の制限を受けない。
(2)天皇は統治の主体であり、その位自体、独立自存している。天皇は神聖にして侵すべからず。
(3)天皇の位は統治権の機関ではなく、その所在である。君主を統治機関のひとつとする考え方は、君主を主権者ではないとするもので、わが国体に反する。

 論理的にはいくらでも批判する余地があるこうした穂積の考え方は、穂積の死後も、天皇を「現人神」とする上杉慎吉によって引き継がれていった。上杉は穂積のあとを継いで、1910年(明治43年)から東大で憲法学を担当するのである。
 天皇を「絶対君主」と唱える穂積の帝国大学での憲法講義は、二十数年にわたってつづけられた。
 これとは別に、ほぼ同じ時期に天皇を「立憲君主」ととらえる一木の憲法講義が同じ帝国大学でおこなわれていたことが、じつに興味深い。そして、達吉は一木に師事することによって、単にその学説を継承するだけではなく、その後の人生を切り開いていくことになる。
 いまでは考えられないが、当時の帝国大学教授は役所の部署を兼任することも多く、一木喜徳郎の場合も同じだった。
 立花隆は一木の経歴をこんなふうに紹介している。
 一木は1894年(明治27年)に帝国大学教授となるが、同時に内閣書記官、内務省参事官、農商務省参事官などを兼任している。さらに、1902年(同35年)9月から1906年(同39年)1月までの3年半は、法制局長官兼内閣恩給局長、さらに1908年(同41年)7月から1911年(同44年)9月までは内務次官を兼ねるという具合に、大学教授としてだけではなく、次々と高級行政官僚としての途を切り開いていった。
 その後、一木は東大退官後は文部大臣、内務大臣をへて枢密顧問官、宮内大臣、枢密院議長を歴任することになる。昭和天皇の信頼も厚かった。昭和天皇が神聖な絶対君主といった発想を嫌っていたことがわかる。
 美濃部達吉は、帝国大学入学後、まだ青年教授だったその一木喜徳郎の文字どおり一番弟子だったといってよい。

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