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内務省をやめ大学院に──美濃部達吉遠望(15) [美濃部達吉遠望]

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 美濃部達吉は1897年(明治30年)7月に帝国大学法科大学を卒業した。この年、京都にも帝国大学が設立されたため、東京の帝国大学は東京帝国大学(略称、東大)と呼ばれるようになる。
 そのとき、同窓の卒業生には、学者では筧克彦(かけい・かつひこ)、加藤正治、立作太郎(たち・さくたろう)、政治家では江木翼(えぎ・たすく)、川村竹治、井上孝哉、熊谷直太、外交官では小幡酉吉(おばた・ゆうきち)、水野幸吉、実業家では小倉正恒、梶原仲治(かじわら・なかじ)、南新吾などがいたという。
 いまではほとんどなじみのない、これらの人びとについても、ざっと紹介しておいたほうがいいだろう。
 筧克彦(1872〜1961)は長野県出身でドイツ留学後、1903年に東大教授となり、行政法などを担当した。古神道を基礎とする天皇中心の法理、国家論を唱えたというから、達吉のいわばライバルである。
 加藤正治(1871〜1952)も長野県出身で、ヨーロッパ留学後、1903年に東大教授となり、主に民事を担当した。定年退職後は、枢密顧問官、三菱本社監査役などを務め、戦後、中央大学学長・総長になっている。
 立作太郎(1874〜1943)は東京出身で、ヨーロッパ留学後、1904年に東大教授となり、外交史と国際法を担当した。パリ講和会議やワシントン会議にも随員として出席している。
 江木翼(1873〜1932)は山口県出身で、内務省を経て、政治家となった。加藤、浜口、若槻内閣で司法相や鉄道相を務めた。
 川村竹治(1871〜1955)は秋田県出身で、内務省入省後、台湾総督府内務局長などをへて、和歌山、香川、青森各県の知事を務めた。のち貴族院議員となり、内務次官、満鉄社長、台湾総督、さらに犬養内閣の司法大臣を歴任した。五・一五事件により政界を引退するが、その妻文子は川村女学院を経営していた。
 井上孝哉(1870〜1943)は岐阜県出身で、内務書記官をへて、佐賀、富山、神奈川、大阪の府県知事を歴任し、内務次官となった。達吉の友人である。
 熊谷直太(1866〜1945)は山形県出身で、苦学の末、帝国大学を卒業、前橋や東京の地裁判事などを歴任後、衆議院議員となり、加藤、犬養内閣で司法政務次官を務めた。
 小幡酉吉(1873〜1947)は石川県出身で、卒業後、外交官となり、天津、シンガポール、ウィーン、ロンドンなどに勤務し、たびたび中国に派遣された。中国側に拒否されたため、中国駐在公使にはなれなかったが、退官後は貴族院議員や枢密顧問官を務めている。
 水野幸吉(1873〜1914)は兵庫県出身で、外交官としてワシントンや北京に勤務し、辛亥革命後の善後策にあたった。
 小倉正恒(1875〜1961)は石川県出身で、内務省に入るが、住友本店に転じ、住友財閥の最高経営者となった。近衛内閣では大蔵大臣などを務めた。
 梶原仲治(1871〜1939)は東京出身で、卒業後、日本銀行に入行し、その後、横浜正金銀行頭取、日本勧業銀行総裁、東京株式取引所理事長などを務めた。
 南新吾(1873〜?)は大分県出身で、帝国大学の政治学科を首席で卒業した。三井物産に入り、天津や香港の支店長を務め、のち台湾銀行の理事となった。達吉の親友で、達吉の妹ゑみは南新吾に嫁している。
 長々と書いてきたが、その評価はともかく、明治の帝国大学が全国各地から優秀な人材を吸収し、学界や官界、政財界に送りだす窓口になっていたことはまちがいない。そのかぎりでは、たしかに新しい時代が到来したのである。

 帝国大学法科大学政治学科を2位で卒業した達吉は、1897年(明治30年)に内務省に入省した。
 そのときの気持ちをのちにこうふり返っている。

〈私は在学中からなるべくは一生学究生活を送りたいと希望し、できるならば卒業後も大学院にとどまって研究を続けたいものと思ったのであったが、一方には、学者としての天分に乏しいことを自覚したのと、一方には、在学中こそそのころ農商務省の役人であった舎兄の貧しい俸給の中からその一部を割いての補助と、大学から受けた貸費とによって、苦学の生活も送らずに、勉強することができたけれども、卒業後はじきに自活の途を講ぜねばならぬ必要があり、しかも大学には当時はまだ有給助手の制度も、大学院の給費学生の制度もなく、金をもらって勉強することは、まったく不可能であったのと、両方の理由から、ついに学究生活を断念して、内務省に志願し、幸いに採用せられて、卒業後、直に内務局に任ぜられ、今の地方局、そのころは県治局といったように思うが、そこに奉職することになった。〉

 要するに、学究生活をつづけたかったけれども、金銭面でこれ以上周囲に迷惑をかけるわけにはいかなかったので、内務省ではたらくことにしたというわけである。
 こんな調子では役人仕事に身がはいらなかったはずである。
 内務省は1873年(明治6年)に大久保利通によって設立され、その後の改編をへて、1885年(明治18年)の内閣制度設立とともに内閣の一省となった。内政のうち、地方行政、警察行政、選挙事務などを管轄した。
 その県治局(のちの地方局)に達吉は配属された。地方行政を管掌する部署である。
 しかし、役所生活にはなじめなかった。

〈幸か不幸か、私には内務局という生活が、どうしても好きになれなかった。毎日朝九時から夕方の四時過ぎまでは、用があってもなくても、必ず役所に出勤していなければならぬが、その間に自分の懸命の力を出して働くような機会はほとんど与えられず、ただ茫然と机に座っている時間の多いのに、わがままな私は、ほとんど堪えがたい感じがしていた。役人生活が嫌になるにつれて、ふたたび学究生活に対するあこがれに悶えていた〉

 それなりに仕事はあったと思うが、無聊を感じていたのだろう。達吉が悩んでいる様子を見て手を差し伸べてくれたのが、恩師の一木喜徳郎だった。一木はそのころ東大教授でありながら、内務省参事官を兼任していたのだ。
 一木は大学院にはいって、勉強をつづけたらどうかと達吉に勧め、さらに、こんな話も打ち明けた。じつは、大学で比較法制史の講座を担当する教授が必要なのだが、もし大学院にはいって比較法制史を研究する気があるなら、その候補者に推薦してやってもいいというのだった。
 達吉にとっては、渡りに舟の話だった。歴史はどちらかというと苦手だったが、法律の歴史的研究に従事するのもおもしろいかなと思いはじめた。それに、何といっても大学院にはいれば学究生活をつづけることができ、さらに学者への道も開けてくる。達吉は決心して、一木に推薦を頼むことにした。
 そのさい、ことごとく面倒をみてくれたのは一木だったといってよい。
 当時、東大で比較法制史の講座を担当していたのは、宮崎道三郎(1855〜1928)だった。宮崎は比較法制史とともに日本法制史の講座も担当していたので負担が大きく、できれば日本法制史に専念したいという希望をもっていた。そこで、比較法制史を受け持つ候補者を探しており、それを一木にも相談していたのである。その話が達吉に回ってきたというわけである。
 ちなみに宮崎は1889年(明治22年)に日本法律学校(現在の日本大学)を創立していたから、いわば東大と日大の兼務で、おそらく多忙をきわめていたとも思われる。
 その宮崎とも一木は話をつけ、教授会に推薦された達吉は宮崎の指導のもと、大学院で学ぶことになった。
 それだけではない。一木はおそらく内務省にも話をつけていた。達吉の直属の上司、県治局府県課長の井上友一(1871〜1919、のち東京府知事)は、一木の教え子であり、達吉の先輩でもあったが、内務省を辞めたあとも達吉を内務省試補の扱いにし、多少の手当を支給してくれたのである。
 達吉の1年ほどの大学院時代は、経済的にも憂いがなくなった。試補として、時折、内務省に顔をだすだけで手当をもらえたからである。
 こうして、達吉は1年で内務省をやめ、1898年(明治31年)9月に東京帝国大学の大学院に進むことになった。この時点で教授になることはほぼ約束されている。

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