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依存効果──ガルブレイス『ゆたかな社会』を読む(5) [経済学]

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 生産の増加は、職を増やし、不平等を見えなくすることで、「ゆたかな社会」をもたらした。だが、なぜ生産を増やしつづけねばならないのだろうか。
 生産を増やすのは、かつては基本的な衣食住をより多く満たすためだった。だが、いまではもっとエレガントな自動車や、エキゾチックな食べものや、エロティックな衣装や、洗練された娯楽、つまり敏感で、伝染性があって刺激的な現代的欲望を満たすことに生産が向けられるようになった、とガルブレイスはいう。
 経済学はなによりも生産を重視する。与えられた資本と労働、資源のもとで生産効率をいかに高めるか、生産の阻害要因をいかに排除するかが経済学の大きな課題となってきた。
 そして、生産の重要性と消費者需要の切迫性を強調することが、経済学の習い性になっていた。つまり、どんなくだらない生産であろうと、どんなくだらない消費であろうと、生産と消費は、それ自体擁護されなければならなかったのだ、とガルブレイスはいう。
 現在認められている消費者需要の理論はどのようなものだろうか。
 はっきりいって、それはじゅうぶんに研究されているとはいいがたい。肉体的であれ心理的であれ、人の欲望はかぎりなく、それがどこまで充足されたかを証明することはできない。欲望は消費者の個性にもとづくもので、経済学にとって欲望は与件にすぎないとされる。
 経済学にとって重要なのは需要と供給の価格理論であって、いまでは限界効用理論が人間の基本的な経済活動を説明すると考えられている。
 なかでも限界効用逓減という概念が重要である。それによると穀物がありあまるようになると、穀物への需要は大きな伸びを示さなくなり、所得はほかのものの消費に回されるということになる。
 経済学において限界効用理論はより精緻化され、都合の悪い事実は排除されていった。
 そのさい、経済学では商品そのものの評価はされないことになった。必要か不要か、重要か重要でないかは関係ない。それが売買されることだけが問題なのだ。
 消費者の関心を引く商品には無限の組み合わせがある。そして個々の商品の限界効用は逓減するけれども、別の新たな商品が比較的に高い限界効用をもたらす。そして、あらたな製品が登場するかぎり、消費者は次々と欲望を満たすように行動する。その行動は商品やサービスの供給がなされるかぎり、どこまでもつづく。
 だが、そういう経済学の考え方はまちがっている、とガルブレイスはいう。消費には順番というものがあって、最初に選ばれるのはより優先度の高いものだ。これにたいし、経済学者は消費に優先度などないという。それがいま消費されているという事実だけが重要なのだという。
 たしかに限界効用逓減の理論は、欲望と財の価格評価の関係を示すうえでは役立つかもしれない。財を追加で購入しても、それによって得られる満足度が低ければ、人はそれに多くを支払おうとは思わないはずである。そうした個々人の行動を社会的に集計すると、右下がりの需要曲線が得られるだろう。だが、限界効用理論は、消費者の実際行動を無視した仮説にすぎない、とガルブレイスはいう。
 いずれにせよ、商品は多いほど、商品が少ないより欲求が満たされる。商品が重要だという仮説は疑われようもなかった。というのは、商品こそが人類の窮乏を救ってきたからである。こうして限界効用理論を含む経済学も生き残ってきた。
 それにたいする異議がなかったわけではない。ケインズは人間の欲求がかぎりないものであることを認めながら、もし絶対に不可欠なものが満たされるようになったら、経済は人類にとって重要な問題ではなくなるかもしれないと論じた。しかし、不況対策についてはともかく、この点に関しては、ケインズはまだ支持を得られていない、とガルブレイスは述べている。
 このあたりの話はなかなかややこしい。

 先に進もう。次は「依存効果」を論じた有名な章である。
 欲望は常に固有の現象として、それ自体存在するというのが、経済学の従来の考え方である。生産はそうした欲望を満たすためになされると考えられてきた。
 しかし、ほんとうは生産が欲望をつくりだすとしたらどうだろう。「生産が欲望をつくりだすとしたら、生産を欲望を満たすものとして擁護することはできなくなる」とガルブレイスはいう。
 ケインズは他人に負けまい、あるいはその先に行こうという気持ちが、はてのない欲望を生みだすと論じている。だれかが何かを買うと、自分もほしくなる。それによって、満たされるべき欲望は次々と広がり、また新しい欲望が生まれていく。
「ゆたかな社会」では、欲望それ自体というとらえ方は後ろに引っこんでしまった。それよりも、もっと生活水準をあげたいという意欲が、社会的な体裁を保つという意識とあいまって増していく。
 ガルブレイスはさらに現代社会における宣伝とセールスの重要性を指摘する。そして、その目的は欲望をかき立てることだから、欲望は自立的に決定されるという旧来の考え方は、すでに通用しなくなっているという。
 新しい製品を売りだすときには、宣伝費を投入しなければならないことは、もはやだれもが知っている。
 だとすれば、「欲望が生産に依存することを認めなければならない」とガルブレイスはいう。「生産は、受け身的な人との競争によってだけではなく、積極的な宣伝その他によって、満たされるべき欲望をつくりだすのだ」
 こんなあたりまえのことを従来の経済学は認めてこなかった。宣伝などむしろ不要という見方が強かったのだ。
 それ自体決まった欲望という考え方はいまでも生き残っている。そして欲望を満たすための生産がもっともだいじなこととされる。
 だが、それでは宣伝に動かされて人がものを買っているという現在の「ゆたかな社会」のできごとを理解できなくなってしまう、とガルブレイスはいう。
 ガルブレイスは、欲望が生産に依存する「依存効果」なるものを次のように説明する。

〈次第に社会がゆたかになっていくと、欲望を満足させるプロセスによって、だんだんと欲望がつくりだされるようになっていく。これが受動的に作動する場合もある。消費の増加は生産の増加に対応するものだが、そのさい、提案や競争心が欲望をつくりだすことになる。さらに、生産者が宣伝やセールスを通じて積極的に欲望をつくりだす場合もある。こうして欲望が生産に依存するようになるのである。〉

 われわれは、膨張自体を自己目的とする資本主義が次々と欲望を生みだしていくととらえたくなる。
マルクスは資本が生き残り膨張していくのは、労働者の生みだす剰余価値を資本が搾取するからだと考えた。これにたいし、ガルブレイスは資本が生き残り膨張していくのは、生産が商品を通じて欲望を開発していくからだととらえている。そして、ここに「ゆたかな社会」が生まれていく。
 資本主義の終焉がささやかれるいま、そのことをどう考えればよいのだろう。倫理的な批判を加えるのは容易である。だが、おそらくそれだけでは、じゅうぶんではない。
 いまはそうした現象があることを確認するだけで、もう少し先に進んだほうがいいだろう。ようやく半分ほど読み終わったところである。

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