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資本の力とローンの話──ガルブレイス『ゆたかな社会』を読む(6) [経済学]


 生産には既得権益があるとガルブレイスは書いている。それにもっともかかわっているのは実業家であり、かれは成功の度合いに応じて報酬を得、同時に社会的な敬意を受ける。これにたいし、公共サービスに携わる人は忘れられがちで、現代社会ではもっぱら実業家に注目が集まっているという。
 その実業家は自身の利益のために闘う。そのため国家や知識人には懐疑をいだいてきた。
 アメリカのリベラル派(自由主義者)は最近まで実業家を支持してきた、とガルブレイスはいう。それは商品生産の一義的重要性を認識していたからだ。生産を増やせば、失業問題を含むすべての社会問題は解決すると信じられていた。保守派が均衡予算の放棄をためらったのにたいし、リベラル派は政府の役割の拡大を支持した。
 このあたり、「リベラル派」あるいは「保守派」というイメージが、アメリカと日本では、かなり食いちがっていることを認識すべきだろう。リベラル派は自由主義者とも訳されるが、そう訳すと、日本ではリベラルと自由主義がちがうようにみえてくるのが不思議である。
 だが、その混乱は、アメリカでも同じようで、たとえばハイエクは自分は保守派ではなくリベラル派だと主張したが、そのリベラル派とはあきらかにケインズのようなリベラル派ではなく、もっと古典的なリベラル派である。その古典的なリベラル派、とりわけハイエクを継承したと称するフリードマンなどが「新自由主義者」を名乗るのだから、ぼくのような素人は、ますます混乱が増すばかりである。
 そして、当のガルブレイス自身もリベラル派にはちがいない。だが、正統ではなく異端の(ケインズ左派の)リベラル派だったといえるだろう。ほんとうにややこしい。
 ガルブレイスは正統リベラル派(日本では自由主義者という)の考え方を次のようにまとめている。
「リベラル派は、生産がすでにありあまる財を増やすだけの時代になっても、生産の増大こそが政治的成功を勝ちとる試金石だと本心から信じつづけていた」
 生産至上主義(すなわちGDP至上主義)はいまだに根強い。
 アメリカでは、リベラル派が実業家を支持し、保守派が実業家を牽制するという構図が生まれていたようにみえる。ことばのイメージでいうかぎり、これは日本とは逆の構図だったようにみえる。
 混乱の海から抜けだそう。政治軸を整理し、再編してみなければならない。
 ガルブレイスは実業家の時代はかげりを見せはじめているという。きらびやかな財を誇るのは俗悪とみなされるようになった。社会活動に貢献しない実業家は軽蔑される風潮すらある。そして、実業家と競争関係にある知識人がもてはやされるようになった。
 生産の量ではなく、生活の質が問われるようになった。若者たちは、人種の平等や環境問題、公共と民間の役割、社会の持続可能性、さらに率直な芸術的・知的表現に関心を深めるようになっている。
 それでも、この社会ではまだ生産が至上の力をもちつづけている、とガルブレイスはいう。この生産の力をわれわれは資本の力と言い換えてもよいだろう。
ガルブレイス講演.jpg
 先に進む。ガルブレイスは小さなスケッチを重ねるように、現代の商品世界の様相をえがいている。
次は「借金とりがやってくる」という章だ。
「ゆたかな社会」は多額の消費者ローンのうえに成り立っていることがあきらかになる。
 生産の目的は消費である。この定言からすれば、経済の主体は消費需要であって、生産はあたかも需要に従属するかのようにみえる。しかし、ガルブレイスはそうではないと考えている。現実は生産(資本)こそが主体であり、消費は生産に従属するのである。
 だが、生産にとって消費が減るのは、生産自体を脅かすことになる。生産が商品の需要に依存していることはまちがいないからである。そのため経済政策としては失業の増大を避け、できるだけ完全雇用を維持することが求められる。
 ガルブレイスは生産が欲望を生みだす複合作用として、消費者負債の増加を指摘している。
 アメリカでは消費者負債が戦後、圧倒的に増加したという。不動産貸付を除いても、信用残高は1956年に425億ドルだったものが1967年には991億ドルと倍以上に増えている。その大半は自動車ローンだった。
 この間、個人可処分所得も増加したが、その割合をはるかに超えて、個人ローンの割合が増えた、とガルブレイスはいう。いまではその額ははるかに多いはずだ。
「ゆたかな社会」が個人ローンのうえに築かれていることを忘れてはならない、とガルブレイスは警告する。多くの家庭がローンの支払いをかかえている。

〈不可避とはいえ、こうした大衆規模での負債拡大にともなう緊張はかなりのものである。それ自体、外から喚起されて生じた欲望が残したものは、借金であり、それは分割払いで商品を買った人に冬の雪のように舞い下りてくる。全国の何百万の家庭が承知しているのは、通知が届くとまもなく回収人がやってくるということだ。このすばらしい社会では、借金とりこそが中心人物なのではないか。〉(拙訳)

 そこまで悲壮にならなくてもよいかもしれない。だが、ローンやクレジットの支払いが、いつもわれわれの生活を追いかけてくるのも事実である。
 ガルブレイスは想像する。
 あまりにも多くの宣伝に辟易して、宣伝効果が失われてしまうときがやってくるかもしれない。そうなると、人はものを買わず、貯金を殖やして、借金を返済する。すると総支出が減るから、総生産も減って、投資も減り、経済は不況におちいる。逆に欲望が刺激されすぎて、負債が大きくなりすぎるときには、貸し倒れの危険性が生じる。
 昔、カネを借りるのは、ほとんど企業が投資するためだった。いまでは消費者が借金を増やしている。それによって、経済の不確実要因が増幅される。なぜなら、消費者は景気のいいときに借金を増やし、景気の悪いときに借金を減らす傾向があるからだ。そうした消費者行動がより大きな景気の山と谷をつくることになる、とガルブレイスは指摘する。
 何はともあれ、「ゆたかな社会」では、消費者負債が経済ファクターのひとつとなった。
商品の生産と販売が神聖視される社会では、消費財への融資を抑え、その販売を抑えることになる措置をとるのはきわめてむずかしい。しかし、経済的安定と社会保障の観点からすれば、政府は何らかの予防措置をとる必要がある、とガルブレイスは主張している。
 このあたりは、まさに2008年のリーマン・ショックを予想したかのような発言である。
 最後にガルブレイスは「ゆたかな社会」のじつに奇妙な特徴を挙げる。それは民間でつくられる財にたいしては、それがどんな商品であっても、負債が奨励されるのにたいし、公共サービスへの支出(学校、病院、図書館、交通機関など)はできるかぎり抑えられていることだという。
 こうした社会的アンバランスについては、別の章でまた論じられるだろう。そして、こうしたガルブレイスの発言が、新自由主義を掲げるフリードマンらからの強い反発を受けることになるのである。
 このあと、インフレーションの話がはじまる。
『ゆたかな社会』は1958年に初版がだされ、1998年の第5版まで、じつに40年にわたって改訂されつづけたが、そのなかでもっとも変更されたのが、インフレーションをめぐるいくつかの章である。
 当初、ガルブレイスは「ゆたかな社会」にはインフレがつきものだと考えていた。ところが、最終版ではその考えが誤っていたことを認めている。
 インフレはすっかり収まってしまった。その理由を含め、次回はそのあたりを読み解くことにしよう。

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